バーデン・バーデン行きではミュンスターチーズやパステートやキッシュ類も購入したが、流石に冬場はあまり良い野菜は無かった。その代わり、エビと墨烏賊を購入した。祝祭劇場ではブルックナーの交響曲五番変ロ長調をシュターツカペレドレスデンで聞く予定で、その公演前の二度目の楽曲説明に間に合うように買い物を切り上げた。
その楽曲説明は前回のブルックナーの第九の延長線にあるもので、所謂対位法的な観点から楽曲分析を試みることになる。当日のプログラムにあるように作曲家の真価の見せどころと言っても良いのかもしれない。その内容を思い出しながらシカゴ交響楽団が演奏しているバレンボイム指揮のLPを鳴らしながらこれを書いているが、まさしくその内容を体現している演奏なのである。
このような専門的な超一流交響楽団の演奏は座付き管弦楽団には求めようがないのだが、今やFAZなどでもドイツの大指揮者と称されるティーレマンの指揮はとても楽曲の真価を示すものではなかった。この指揮者が十八番としている交響曲のようなので大変期待していたのである。しかし実際には、ドイツの二流大指揮者であることを実感させてくれた。
なによりも期待していたのは、前回この管弦楽団をリーダーハレで聞いた亡くなったシノポリ指揮ではマーラーの第六番の精緻なテクスチャーを描き出すにはあまりにも統率が弱かったので、この肩の分厚い男の指揮者のそれだったのである。その点では、なるほど初期の時分に朝比奈隆と比較されたような技能からは大分良くなったのかもしれないが、それでもリハーサルで何をやっているのか合点が行かなかった。要するにシノポリ時代より管弦楽団として進歩している訳ではなかったのだ。
今まで車中のラディオなどでシュトラウスの交響詩の演奏を聞いて、可也意思のハッキリした実践を求めるものと予想していたのだが、唯一交響曲第二楽章の流れの中で、なるほどこうした粘り強い歌をドイツロマンティックとして表現したいのだと何とか理解できた。しかしそうすることで余計にブルックナーにおける神秘主義などからは大きく離れて世俗性の中に埋没することになるのである。それはある意味、当時のビーダーマイヤーのライフスタイルからすれば決して間違ってはおらず、例えば三楽章のレントラーや農民の踊りとして実践するのかもしれないが、少なくとも今日の教養のある人間ならば少し異なった体感しかないのが文化先進国なのだ。なによりも作曲家自身を考えれば、例え名誉博士号にしてもヴィーンの大学で教鞭をとった芸術家であり、全く教養の無い指揮者とは異なり、その時代の中でこその創作活動であったのだ。
具体的には、例えば一楽章第二主題部ピチカートの中世の吟遊と呼ばれるような単旋律的な扱い方においてもバレンボイムの録音とティーレマンの解釈では大きな違いがあり、前者のあまりにも丁寧な扱いは一般の評価を悪くするような崩れの無い楷書風のものだが ― ピアノ演奏における正統的な伝統と表されるように、それによってこそ初めてブルックナーの対位法における骸骨図が浮かび上がりやすくなるのである。同じような例は、前回のギーレン指揮の第九でも見られたが、チェリビダッケのそれも近いかもしれない。それに反して、今回の演奏の一つ目の山であった第二楽章においても顕著であったように、更に終楽章におけるベートーヴェン的な側面の縮小短縮技法の強調によって、折角のコラールの効果が矮小化されるだけでなく、当日のプログラムにあるようなモーツァルトのレクイエムやヴィーン古典派との関連の側面が強調されているとしてもよいのだろう。
ある意味、ブラームスの第一交響曲と同時代の創作として、アカデミズムとして批判された新古典主義的なブラームスに近い感覚でのブルックナーとなるとあまりにも核心的な部分が削ぎ落とされてしまっているとしか思えないのである。恐らく、ドイツロマン主義的な思考をあまりにも強く意識するばかりに、なぜか近視的な視野に陥るという意味では、こうした演奏家に拘わらず、修正主義者とか言われるような人々が巨視的な歴史観を持ち得ない事例の一つとしてのブルックナーの演奏実践だったように思われる。
実際に当日の会場は土曜日にも拘らず約三分の一ぐらいの入りであり、恐らく各方面からの商業的な後押しがあっても所謂教養のあるドイツの聴衆の中でのこの「ドイツの大指揮者」への認知はそれぐらいのものであるというのも実感できたのである。一方、一部では熱心な支持者も少なからず居たようで、こうしたクラッシック音楽市場の限られた商業的な意味合いをも露呈していたようである。
熱心なパリ・フライブルクからのフランス女性が、日本でもセミナーをしているというシュターツカペレの仏オーボエ奏者の話をしてくれたが、ドイツにおいても交響楽の意味というのは過去のものであるのは、もはや専門的な交響楽団の存続が益々危うくなっているということで隠しようのない事実なのである。それでもこの交響曲をシュターツカペレの響きで生で聞けた価値は、入場料47ユーロで安くはないが、十分にあった。また、幕横の天井桟敷は空調が大分喧しくなってきていて、あまり良くない。
参照:
ブルックナーの真価解析 2013-12-17 | 音
購入した安いティケット 2013-09-30 | 雑感
相互相関連想的観念連想 2014-02-27 | 雑感
その楽曲説明は前回のブルックナーの第九の延長線にあるもので、所謂対位法的な観点から楽曲分析を試みることになる。当日のプログラムにあるように作曲家の真価の見せどころと言っても良いのかもしれない。その内容を思い出しながらシカゴ交響楽団が演奏しているバレンボイム指揮のLPを鳴らしながらこれを書いているが、まさしくその内容を体現している演奏なのである。
このような専門的な超一流交響楽団の演奏は座付き管弦楽団には求めようがないのだが、今やFAZなどでもドイツの大指揮者と称されるティーレマンの指揮はとても楽曲の真価を示すものではなかった。この指揮者が十八番としている交響曲のようなので大変期待していたのである。しかし実際には、ドイツの二流大指揮者であることを実感させてくれた。
なによりも期待していたのは、前回この管弦楽団をリーダーハレで聞いた亡くなったシノポリ指揮ではマーラーの第六番の精緻なテクスチャーを描き出すにはあまりにも統率が弱かったので、この肩の分厚い男の指揮者のそれだったのである。その点では、なるほど初期の時分に朝比奈隆と比較されたような技能からは大分良くなったのかもしれないが、それでもリハーサルで何をやっているのか合点が行かなかった。要するにシノポリ時代より管弦楽団として進歩している訳ではなかったのだ。
今まで車中のラディオなどでシュトラウスの交響詩の演奏を聞いて、可也意思のハッキリした実践を求めるものと予想していたのだが、唯一交響曲第二楽章の流れの中で、なるほどこうした粘り強い歌をドイツロマンティックとして表現したいのだと何とか理解できた。しかしそうすることで余計にブルックナーにおける神秘主義などからは大きく離れて世俗性の中に埋没することになるのである。それはある意味、当時のビーダーマイヤーのライフスタイルからすれば決して間違ってはおらず、例えば三楽章のレントラーや農民の踊りとして実践するのかもしれないが、少なくとも今日の教養のある人間ならば少し異なった体感しかないのが文化先進国なのだ。なによりも作曲家自身を考えれば、例え名誉博士号にしてもヴィーンの大学で教鞭をとった芸術家であり、全く教養の無い指揮者とは異なり、その時代の中でこその創作活動であったのだ。
具体的には、例えば一楽章第二主題部ピチカートの中世の吟遊と呼ばれるような単旋律的な扱い方においてもバレンボイムの録音とティーレマンの解釈では大きな違いがあり、前者のあまりにも丁寧な扱いは一般の評価を悪くするような崩れの無い楷書風のものだが ― ピアノ演奏における正統的な伝統と表されるように、それによってこそ初めてブルックナーの対位法における骸骨図が浮かび上がりやすくなるのである。同じような例は、前回のギーレン指揮の第九でも見られたが、チェリビダッケのそれも近いかもしれない。それに反して、今回の演奏の一つ目の山であった第二楽章においても顕著であったように、更に終楽章におけるベートーヴェン的な側面の縮小短縮技法の強調によって、折角のコラールの効果が矮小化されるだけでなく、当日のプログラムにあるようなモーツァルトのレクイエムやヴィーン古典派との関連の側面が強調されているとしてもよいのだろう。
ある意味、ブラームスの第一交響曲と同時代の創作として、アカデミズムとして批判された新古典主義的なブラームスに近い感覚でのブルックナーとなるとあまりにも核心的な部分が削ぎ落とされてしまっているとしか思えないのである。恐らく、ドイツロマン主義的な思考をあまりにも強く意識するばかりに、なぜか近視的な視野に陥るという意味では、こうした演奏家に拘わらず、修正主義者とか言われるような人々が巨視的な歴史観を持ち得ない事例の一つとしてのブルックナーの演奏実践だったように思われる。
実際に当日の会場は土曜日にも拘らず約三分の一ぐらいの入りであり、恐らく各方面からの商業的な後押しがあっても所謂教養のあるドイツの聴衆の中でのこの「ドイツの大指揮者」への認知はそれぐらいのものであるというのも実感できたのである。一方、一部では熱心な支持者も少なからず居たようで、こうしたクラッシック音楽市場の限られた商業的な意味合いをも露呈していたようである。
熱心なパリ・フライブルクからのフランス女性が、日本でもセミナーをしているというシュターツカペレの仏オーボエ奏者の話をしてくれたが、ドイツにおいても交響楽の意味というのは過去のものであるのは、もはや専門的な交響楽団の存続が益々危うくなっているということで隠しようのない事実なのである。それでもこの交響曲をシュターツカペレの響きで生で聞けた価値は、入場料47ユーロで安くはないが、十分にあった。また、幕横の天井桟敷は空調が大分喧しくなってきていて、あまり良くない。
参照:
ブルックナーの真価解析 2013-12-17 | 音
購入した安いティケット 2013-09-30 | 雑感
相互相関連想的観念連想 2014-02-27 | 雑感