Wein, Weib und Gesang

ワイン、女 そして歌、此れを愛しまない輩は、一生涯馬鹿者であり続ける。マルティン・ルター(1483-1546)

ピエール・ブレーズ追悼記事

2016-01-08 | 文化一般
車中の文化波がピエール・ブーレーズの追悼番組を流していた。昨年の最後の誕生日に因んだ番組の再放送だった。最後の会をバーデン・バーデンでヴォルフガング・リームらと共に祝うことが出来て、この日が来ることは薄々予想していた。当日会場に現れなかったどころか、メッセージもなく、中継を近くの住居に流しているということだった。外出は出来なくなっていたのだろう。

新聞のネットでの追悼記事は、ダルムシュタット、ドナウエッシンゲン、バーデン・バーデン、ケルンを主な活躍の場とした戦後の前衛作曲家として、「ストップ・メーキングセンス」と今なら表現できる使い古された伝統や既成の拒絶として、Aで始まる無調性、偶然性、不条理劇をモットーとする作風で頭角を現した作曲家の一人であるとする。

ノーノ、シュトックハウゼン、ベリオ、クセナキス、カーゲル、リゲティ、プスールが挙げられ、メシアンとケージが先導したとなる。そこでは、ヘーゲルの謂わんとするドイツ理想主義における「絶対音楽」が集約化され、丁度アドルノが「新音楽」の評論家として位置したのは偶然ではないとされる。

つまり、その根源は、よりよい高みに至る人類の進化というものが真面目に義務とされたアヴァンギャルドからの出発ということになる。そして、メシアンとブーレーズの微妙な関係にも触れられる。

具体的には、十二音を使った順番を決められた音楽構造に更にリズムや音高などのパラメーターがそこに加えられた構造のダルムシュタットの音楽から、「ピアノのための構造I」から「主の居ない槌」へと、ストラヴィンスキーを驚愕させた音楽へと進んでいく。そして言語が解体されて言葉が解放されていくことになる。

そこで、ブーレーズの作品の特徴であるワークインプログレスとなり、開かれたままの作品が創造されていく。そして、1958年からの電子音楽分野での経験はライヴエレクトロニクス音楽へと導かれるなど、多岐にわたる反面決して多作家ではないとされる。

定まった音楽構造から偶然性の音楽へと、パウル・クレーの「果樹園の境界」1929を挙げたダルムシュタットでの1957年の講演では、第三ピアノソナタや「構造II」における歴史的美学からの解放を、マラルメにおけるように、説明したとある。

またベルオーズ同様に、自国フランスとの距離を保ち、限界のある理想主義のドイツで活躍したブーレーズは、それでも1976年にはパリに場所を与えられてそこに君臨した。1960年代にはバーデンバーデンの指揮者ロスバウトから勧められて指揮活動を本格的に始めていたのだった。

もう一つ、木曜日の朝刊には、トップニュースとしての死亡記事に続いて、文化欄で追悼文をも交えて、テクノロジーとともにアップデートされた作品を挙げて、その間芸術的に君臨した事を示す。その具体例を、そこで浮かび上がれなかったベルト―ルト・ゴールトシュミットらの恨み節に聞くという。

指揮者としての活躍については、改めて付け加えることはないだろう。ここでもここ一年半ほどキリル・ペトレンコ指揮の対象として頻繁に扱った。ピエール・ブーレーズの指揮しか比較対象がなかったからだ。音楽構造を明晰に管弦楽団に投影させるその演奏実践は多くの関心を集めて、指揮者として大成功した。そして、新聞にも書かれるように、決してそれ以上でもなかった。指揮者としては、個人的にも「モーゼとアロン」など多くの実演に接しても限られた場面しか記憶に残っておらず、また歴史にも残らないかもしれないが、例えば自作の「プリスロンプリ」を振った最後のエラート盤などは素晴らしいの一言に尽きる。

ベラ・バルトークとラヴェルの演奏実践が新聞には挙げられているが、前者の価値はあるが、後者はどうなのかは分からない。手元のLPなどを鳴らしてみるが、最初期の自作作品も制作録音として十分に成功しているかどうかも疑問である。まさしく技術的な発展でアップデートされている面もあるから、昨年の生誕記念コンサートでの「エクスプロザンテフィックス」 や「ノタシオン」などが今でも成功しているのだろう。この辺りは、作品が上手に開かれているとすると、本人が望むように、将来に亘って無名性のなかで作品だけが活き続けるという状況も起こり得るかもしれない。その意味から指揮者である以上に、作曲家として今後も上手に生き続けるのだろう。

昨年の会で中音域の利用という面白いことを語っていた作曲家ヴォルフカンク・リームが、イェルク・ヴィットマンと共に、追悼文を寄せている。

「今、戦後の現代音楽の三人の賢者の最後の一人が世を去った。電光のごとき輝き、霊感に満ちた素晴らしい閉じた作品だ。その作品に、あらゆる決まりに惑わされることなく、自らの直感に身を任すことを勇気づけ、そしてそれを自身のものとした。個人の成長を描いた小説の冊子を思い起こす ― そこには怒りに燃えた角張った爆発を超えて、本当の権威をもった落ち着き払った遥かなものへの歩みがある。それは、夢を実現させる助けとなるあらゆる道具を総動員して、我々を信じさせるに足るに充分に通じた、本物の創始者像だった。彼自身から出でた偉大さは大きく、その落ち着き払い、なるようになる、やらせるようにやらせる― 束縛から解き放たれ― 救済される、そうである、パトースが彼にはあった。きれいさっぱりエレガントに片づけ込まれていたものだ。彼と知り合えて、思い出すことが許されて幸せだ。彼は今も居る。」



参照:
Vom Sprengmeister zur Galionsfigur, Gerhard Koch, 6.1.2016
Geballte Brillanz statt Nostalgie, Jan Brachmann, FAZ vom 7.1.2016
二十世紀中盤の音響化 2015-02-07 | 音
主の居ない打ち出の小槌 2015-01-26 | 音
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