Wein, Weib und Gesang

ワイン、女 そして歌、此れを愛しまない輩は、一生涯馬鹿者であり続ける。マルティン・ルター(1483-1546)

過剰反応の醜聞報道

2016-01-14 | マスメディア批評
イスタンブールで八人ものドイツ人観光客が自爆に巻き込まれた。狙われたのかどうかが話題になる。フランスへの協力で、自らの胸に手を当ててみる必要があるからだ。大晦日のケルンなどよりも遥かに深刻な問題である。

新聞がそれについてネットで書いている。海外の過剰反応に関してである。VWのスキャンダルも大晦日のケルンの事件も同じように、海外で過剰にスキャンダルとして報道されている。要するに各諸外国がこの件も政治的な道具にしようとしているからだ。

そこにはいつも必ずいるのは合衆国の報道機関で、その背後にはワシントンやトラムプなどを代表するイデオロギーが存在する。日本における報道はそのままこうした動きに追いかける形になるのはいつもの通りである。

更に今回は、東欧を中心に難民受け入れに難色を示すEU諸国が喜んでこの事件を扱うことで、ベルリン政府の政策を変えようと躍起になっている。そこにフランスとその右翼陣営が後押しする形になっていて、この点はVWスキャンダルの時と異なっている。

連邦国民の大多数は、恐らく今回の事件にはあまり動かされないだろう。あからさまなスキャンダル報道は大衆紙や公共第二放送などの専売特許であって、連邦共和国民はそうした餌にはおいそれとは食いつかない。その理由は、外国人慣れしているというのがまず挙げられるのではなかろうか。少なくともトルコ人などの扱いで、多文化主義は否定しようがどうしようが現実であるからだ。そして、やはりジャーナリズムが高度に発展していて、批判的な視座が与えられている。同時に、憲法裁判所裁判長のファビオのような人物が、直ぐに立憲主義からのしっかりした指針を提示するなど、知的な制御が効きはじめ、報道が正しくそれを伝えて、社会で議論が尽くされる土壌があるからだ。

なるほど緑の党のように矯正不可能な性犯罪者でも難民として扱えとあるが ― 論理的には正しいが、一体何から庇護しなければいけないかという難民の規定自体が曖昧であり、そうした犯罪者を庇護することには社会の同意はなかなか得られない。トルコ人系のドイツ生まれ育ちの外国人にも厳しい処置をするように、やはりなすべきことをすべきだとは、ガウク大統領も同意する。問題は危惧されていた難民希望者の選択とその人権であるが、我々の今までの議論からすると、容易に外国人を受け入れることで、二重の連邦国民を作ってはいけないという観点がある。

つまり、難民を労働力として受け入れるにせよ、最終的には移民としての準備をしておくべきで、最低信教の自由など憲法の謳う権利の尊重だけは難民にも宣誓させる必要がある。もし連邦共和国の庇護を受けたいならば、これらの基本的な人権の尊重だけは順守義務がある。それ以外には何もないだろう。個人の人権の尊重により、モスリムであろうが、モルモンであろうが、無神論者であろうが、他者のそれを犯さない限りにおいて共生は出来るのである。



参照:
触る程度では必ずしも 2016-01-13 | 雑感
ストリーミングいろいろ 2015-11-01 | マスメディア批評
コメント
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