(承前)楽劇「トリスタン」第三幕を引き続き流して、このバイロイト祝祭劇場での演奏録音では勉強にはならないことを確信した。そこで、第一幕からフルトヴェングラー指揮の決定盤へと再び繰り返す。音価をたっぷりととった前奏曲から、これは全く比較にならないほどしっかりした譜読みとその演奏の質の高さが明白で、二十年後の実況録音とは程度が異なることが明白になる。なによりも楽譜がしっかりと音化されるような演奏がされていて、直ぐに現場で名プロデュサーのヴァルター・レックが指揮を執っているのだと確信した。少なくとも録音嫌いの指揮者では到底目が行き届かないところまで注意が入っていて、それを大指揮者に指摘して、繰り返させるには実力のある大物が録音調整室にいる筈だ。調べてみると、思った通り、指揮者フォン・カラヤンをEMI録音に使ったことからレッグとフルトヴェングラーは仲違いしていたようだが、録音の条件としてレッグが入っていたということのようだ。
それは、副旋律上の木管楽器のひとくさりも正しく発声されていて、楽譜の様々なクレッショエンドなどの記号も綺麗に表現されているので分かるのである。指揮者だけならば疎かになるような楽句も緊張を持って、もしくは生き生きと表現されるのが所謂制作録音の価値であり、調整室の仕事があってこその賜物なのである。どうもこの制作はフルトヴェングラーにとっても画期的な経験だったようで、漸く制作録音の意味が理解できたようであった。
それゆえに、問題のテムポの変化などの繋がりがとても音楽的に表現されていると同時に、飽く迄も美しい響きを損なわない音響的な有機性を持ち得ている ― 要するに楽譜通りに響いているということだ。ある意味、模倣者がテムポの加減でこの楽譜を表現しようとしてもできない、例えばアウフタクトへの歌いこみなどが、これまたイゾルデを歌うキルステン・フラグスタートの名唱と共にこれ以上はないというはまり方をしているのである。そこではアーティキュレーションの正しさがそのままフレージングを音楽的にしていて、この指揮者が一生を掛けて徹底して研究研磨していた成果がそこに表れている。
イゾルテの嘆きの歌が、もう少しでこの後の幕のトリスタンそしてマルケ王の嘆きを想起させて、そして「パルシファル」における死んでも癒されない痛みへと繋がるその一歩手前にて表現される時、つまりまだまだここでは書法的に後期のマーラーの交響曲のような離れ離れの対位法にはならないのだが、その調性機能と共に徐々にその引力を失ってくる様が、なるほどその独特の指揮でもバラバラにならないアンサムブルの中で丁度うまい具合にバランスがとられているのである。
こうした演奏を体験すると、楽匠が一人目の妻であるミンナやヴェーゼンドンク夫人、そして二人目の妻となるコジーマらの面倒な関係の中で、また同時にシューペンハウエルの思想に大きな影響を受けつつ、訪問を得たニッチェなどとは全く違う透徹とした認識の中で職人的な仕事に打ち込んでいたその創作の背景が楽譜から十分に読み取れるようになるのである。
我々がこうした作品から芸術的な感興を受けるのは、学術論文や高度な文学作品と同じように、その創造過程における思考の軌跡を辿ることが出来る時であり、「トリスタン」には楽匠自身がのちに音化されていくにつれて自らも初めて気が付いたような、その創作にこそ価値があるからなのである。(続く)
参照:
バイロイトの名歌手たち? 2016-03-11 | 音
何故に人類の遺産なのか 2008-06-26 | マスメディア批評
解消されるまでの創造力 2008-06-18 | 文化一般
それは、副旋律上の木管楽器のひとくさりも正しく発声されていて、楽譜の様々なクレッショエンドなどの記号も綺麗に表現されているので分かるのである。指揮者だけならば疎かになるような楽句も緊張を持って、もしくは生き生きと表現されるのが所謂制作録音の価値であり、調整室の仕事があってこその賜物なのである。どうもこの制作はフルトヴェングラーにとっても画期的な経験だったようで、漸く制作録音の意味が理解できたようであった。
それゆえに、問題のテムポの変化などの繋がりがとても音楽的に表現されていると同時に、飽く迄も美しい響きを損なわない音響的な有機性を持ち得ている ― 要するに楽譜通りに響いているということだ。ある意味、模倣者がテムポの加減でこの楽譜を表現しようとしてもできない、例えばアウフタクトへの歌いこみなどが、これまたイゾルデを歌うキルステン・フラグスタートの名唱と共にこれ以上はないというはまり方をしているのである。そこではアーティキュレーションの正しさがそのままフレージングを音楽的にしていて、この指揮者が一生を掛けて徹底して研究研磨していた成果がそこに表れている。
イゾルテの嘆きの歌が、もう少しでこの後の幕のトリスタンそしてマルケ王の嘆きを想起させて、そして「パルシファル」における死んでも癒されない痛みへと繋がるその一歩手前にて表現される時、つまりまだまだここでは書法的に後期のマーラーの交響曲のような離れ離れの対位法にはならないのだが、その調性機能と共に徐々にその引力を失ってくる様が、なるほどその独特の指揮でもバラバラにならないアンサムブルの中で丁度うまい具合にバランスがとられているのである。
こうした演奏を体験すると、楽匠が一人目の妻であるミンナやヴェーゼンドンク夫人、そして二人目の妻となるコジーマらの面倒な関係の中で、また同時にシューペンハウエルの思想に大きな影響を受けつつ、訪問を得たニッチェなどとは全く違う透徹とした認識の中で職人的な仕事に打ち込んでいたその創作の背景が楽譜から十分に読み取れるようになるのである。
我々がこうした作品から芸術的な感興を受けるのは、学術論文や高度な文学作品と同じように、その創造過程における思考の軌跡を辿ることが出来る時であり、「トリスタン」には楽匠自身がのちに音化されていくにつれて自らも初めて気が付いたような、その創作にこそ価値があるからなのである。(続く)
参照:
バイロイトの名歌手たち? 2016-03-11 | 音
何故に人類の遺産なのか 2008-06-26 | マスメディア批評
解消されるまでの創造力 2008-06-18 | 文化一般