Wein, Weib und Gesang

ワイン、女 そして歌、此れを愛しまない輩は、一生涯馬鹿者であり続ける。マルティン・ルター(1483-1546)

ベルギーの原発ティハンゲ

2016-03-22 | マスメディア批評
14時8分発テロ情報、アーヘンから70KM離れたベルギーの原発ティハンゲで避難が始まったとある。

通信社BELGAの第一報で、同地警察所長の通報。

https://de.wikipedia.org/wiki/Kernkraftwerk_Tihange


http://www.focus.de/politik/ausland/70-kilometer-von-aachen-belgisches-atomkraftwerk-tihange-wird-nach-anschlaegen-evakuiert_id_5378098.html

第二報、電力会社エレクトラベル社は、不要不急の従事員を家庭に返しただけだというが、詳細・意味不明。

14時37分、空港とEU本部の間にあるNATO本部は警戒態勢を最高とする。

Extra veiligheidsmaatregelen op nucleaire sites, 22 maart 2016 | 15:38

ベルギーの放送局rtvによると、テロを受けて原発で特別警備されたことは事実のようだ。

ライヴニュースhttp://www.tvl.be
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声楽付き楽劇「トリスタン」

2016-03-22 | 
開演前のオリエンティールングの内容はとても過激なものだった。楽劇「トリスタンとイゾルテ」は、決して初期のオペラのようなものではなくてベートーヴェンの合唱交響曲を発展させた声楽付きの楽曲で、管弦楽の荒波に乗って適当にオペラが演じられている音楽劇であるということだった。

既にお勉強で書いたことと同じことでもあり、当日のプログラムにも冒頭の「船乗りの歌」の「狩りの歌」から「愛の二重唱」、「牧童の歌」への変容とその動機的なべートーヴェン的展開、そして「マルケ王の問い」の扱いと、管弦楽の荒波とショーペンハウワーの「切望の意思」の相関に触れられており、実際この楽劇の価値はそこにある。それ故に、この楽劇を理解しないヴァークナー愛好家は、たいへん多く、そうした聴衆は、必ず「マイスタージンガー」の豪快さを賛美する、彼らは典型的なオペラ愛好家で、音楽や芸術を理解しない人種なのだ。

そこでサイモン・ラトル監督の指揮の演奏は、予想通り声楽が付いた管弦楽作品だったのだが ― 舞台を覗いていた時間は全四時間の中で四半時間ほども無かっただろう、第一幕で特に邪魔になったのは演出で高み歌わされた歌手の声の音響効果でもとても悪い影響しか齎さなかった。これならば舞台など要らない、といってもコンサート形式でオペラ歌手が器楽的に歌えるわけでもない。その分、管弦楽団は密度の高い弦楽器で雄弁に語るのだが、それはまさしく荒れ狂う展開部のようで、追々どうしようもなく劇的な世界から離れ続ける。漸く愛の妙薬の第五場への経過で音楽は変わってくる。そしてそこにおけるフランス印象派風の響きはとても見事であり、そこから長いクライマックスを築いていた。若干帳尻合わせのような気もしないがその効果は圧倒的だった。

二幕では、なによりも管弦楽が、例えば他の指揮者では精々グスタフ・マーラーのアダージョ風に響かすぐらいなのだが、流石にこの交響楽団は正しい音程で音の織物を弾き分けるので、十分にシェーベルク作曲「グレリーダー」ばりの和声進行を響かせて素晴らしい。歌手陣はそれを邪魔することも無く、愛の二重唱の絶頂ではイゾルデの前打音なども綺麗に拘って歌われていて、これもとても新鮮だった ― この節度は流石に英国人でもあり、カルロス・クライバー座のポルノとは至らないのがないのが楽匠の筆であり、この亡命ドイツ人家庭の指揮者の品の無い疎ましさでもある。その反面、マルケ王の叙唱に続いて、歌となると突然にアリア風に響いて驚かされる。決してそのように作曲されている訳ではなさそうなのだが、声とのバランスの関係もあり今後の勉強の課題だ ― 因みにマルケを歌うのは昨年のバイロイトの「指輪」のハーゲンを歌ったステファン・ミリングである。しかし三幕となると、残念ながら舞台に足を引っ張られて、また最後の愛の死の歌唱も含めて失望させられる。これならば、カルロス・クライバーの成果には至らない。楽譜の読みの問題もあるが、総合的にサイモン・ラトルの音楽の限界も見えて来る。

音楽監督交代はバーデンバーデンにとってもぎりぎりの選択だったと感じた。このままサイモン・ラトルが音楽監督の立場にいて、オペラ公演を主体として続けていたならば再びバーデンバーデンの祝祭劇場にとっては厳しい状況になりかねなかった。券の価格の問題もあったが、初日で八割の入りは、オペラ指揮者として及第点を与えられず、そして十分な歌手を呼び込めなかった音楽監督の責任に帰されても仕方がない。

それにしても、ミュンヘンで新演出上演に幾つも通う内に、ザルツブルクやバイロイトでは経験できない超一流劇場の上演の質に慣れてしまうと、下らない歌芝居では愛想をつかされる。キャスティングやアンサムブルの問題だけでなく、演出を含む総合的なプロデュース能力やその経済的な規模など全く人材も何もかもが比較可能な水準ではないのだ。今回がこれでラトル指揮のオペラ上演に接するのはの最後になるだろう。祝祭が始まってから、「魔笛」、「ばらの騎士」と「トリスタンとイゾルデ」そしてザルツブルクでの「レ・ボレアーデ」であった。

今回の演奏でもマイスタージンガーの作曲書法でもあるタクトに揃う多声の叩きはやはり大したもので、そうした特徴がバロックやモーツァルトでは比較的成功しており、またマルケ王に伴なう楽想の鳴らし方など劇場的にも並々ならぬ特性はあるのだが、如何せん劇場空間のマネージメントはまたまた違ったものである。それにしてもイングリッシュホルンもオーボエもホルン陣もよく吹いていた。管弦楽団としてはとてもよくトレーニングされていて、その意味では天晴だ。

なぜ、楽劇「トリスタンとイゾルデ」の上演は初演以来完璧な演奏が達成されていないのか?これは特別興味深い疑問である。キリル・ペトレンコが完成した音楽を披露するまではその全貌を見せることが無いということであろうか?



参照:
Simon Rattle dirigiert "Tristan und Isolde" in Baden-Baden (BR Klassik)
大詰めとなる「トリスタン」 2016-03-20 | 音
これからの予定に備えて 2016-01-28 | 生活
ペトレンコの「フクシマ禍」 2015-12-21 | 音
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