Wein, Weib und Gesang

ワイン、女 そして歌、此れを愛しまない輩は、一生涯馬鹿者であり続ける。マルティン・ルター(1483-1546)

陰謀論を憚らない人々

2016-03-29 | 
復活祭日曜日の朝のラディオは「陰謀論」研究者の話だった。その本質は、「少なくとも欧州における陰謀論には神が存在する」ということで、陰謀論はこうした混沌としたカオスとコミュニケーションの世界で、そこに何らかの「張本人」を創る作業でしかないということだ。それは、言葉を変えると一神教における神ということになる。つまり陰謀論者は救世主を希求する人々となる。

ベートーヴェンの第九交響曲である。お隣に居合わせた戦中世代の御婦人が溢していた。合唱団の声量や管弦楽の音響ゆえに違和感を感じられたようだ。おっしゃる通りですと答えた。この交響曲を初めて体験して些か腹立たしい思いをしたのは初演の時も変わらなかったかもしれない。なるほどサイモン・ラトル指揮のベルリナーフィルハーモニカ―は、指揮者ニキシュの時とも、フルトヴァングラーの時とも、フォン・カラヤンの時とも全く違う。そして第四楽章が管弦楽伴奏つきの合唱曲ではなくて、ここで交響曲として動機をしっかりと奏でていたことは、どの世代でも不十分であったことで、今回の成果であったろう。それは第一楽章での各々の調性の金管があり溢れる音響を奏でて、グスタフ・マーラーの交響曲に比するほどの大音響を響かせていたことにも適応する。

どうしてもマーラーの交響曲を通してしか、その手本となっている交響曲を評価できないのは仕方がないことなのであり、それが現在の大管弦楽団の宿命なのである。しかしドイツではマーラーの交響曲はそれほど人気が無い。一体何を演奏するのだろう?既に書いたように、ベートーヴェンの交響曲が最後にそれらしく響いたのは、一世紀ほど前のことであり、歴史の彼方に消え去ろうとしている。今回もコンサートマスターのスタブラーヴァのセンスの良いポルタメント風のさわりや、パウのフルートや、ファゴットの名技など事欠かなかったが、なにもベートーヴェンの交響曲でなければいけないものなどはなかった。なるほど弦楽器においては各々のセクションが、なにも有名なチェロ陣にだけではなくて ― チェロを見るといつもその奏者の一人の練習を邪魔したことをどうしても思い出してしまうが ―、コントラバスにも、ヴィオラにも、第二ヴァイオリン群にも、その合奏を堪能させてもらえるのはベートーヴェンだったからだろう。なるほどその点においてはフォン・カラヤン時代よりは成功しているだろうが、ルツェルンでの最後のアバド指揮の「エグモント」と比較すると和声の陰影ということで明らかに劣るのである。

サイモン・ラトル監督時代集大成のラストスパートとなっている。そのテムポの設定やアンサムブル芸術などこの指揮者の商標であったものが今こうして披露されている。同時にその管弦楽の整理整頓されたパレットもほぼ見つくした感は免れない。来年以降ロンドン交響楽団へと移るのだが ― 調べると同楽団へともう片足はどっぷりと浸かっている ―、そこではもう少しシャープな音響が希求されるのではなかろうか?

今年のバーデン・バーデンでは、次なる監督であるキリル・ペトレンコを希求する気持ちが膨らんだかもしれない。なるほど第九交響曲の楽譜から遥かに多くの情報を取り出して、弦楽器の和声感を弦楽四重奏のように求心的に響かせて、柔軟で機敏なテムポから正しい歌を紡ぎながら、木管、金管の色彩を対照させ音色のパレットを広げていくに違いない。ベルリナーフィルハモニカ―は、「アバドの良さとラトルの良さを合わせた」とペトレンコへの期待を上手に表現している。しかし、そこに救世主が居るとは真面な人は思わない。当然である。今年の日本ではこの曲がラトル監督最後の演奏になるらしい。我々はもう一度マーラーの六番を経験出来る。

前半に内田光子のピアノで変ホ長調のK482が演奏された。ネット放送されたものよりも上手く行っていたと思うが、聞いた座席ゆえ残念ながら美しく混ざりあった音色は得られなかった。楽器はいつものスタインウェーだったようだが、驚いたことにベッヒシュタインのように響いていた。彼女の弾くシェーンベルクの協奏曲も聞いているが、これだけ落ち着いたこしのある音を出すとは思っていなかった。最近はソロコフの教えを受けてか同じブレンデル派のキット・アームストロングなどもベッヒシュタインを弾いているのだが、内田の弾くスタインウェーならば甲乙点けがたいと思った。

いつものオリエンティーリングは、緩徐楽章におけるピアノと弦と管の各々に対する作曲区分に関しての言及だった。要するに代わり番こに出て、一緒に対抗しながら、また合わせてのロールプレーの管弦楽法での、フルートとファゴットのデュエットや、私であるピアノともう一つの弦楽の私、そして管弦楽の社会や子供じみた木管などである。モーツァルトのピアノ協奏曲の独特の在り方がこうして上手に説明されていた。

モーツァルトの大管弦楽団での演奏も問題となるところであるかもしれないが、現代的なピアノに合わせるならばという合理的な言い訳が第九交響曲のようにここにも成り立つ。これもまた来年には悲愴交響曲の前にハフナー交響曲がペトレンコ指揮で演奏されるのだが、容易に解決される問題ではなかろう。ヴィーナーフィルハーモニカーでも交響曲34番が演奏されるので、まるでザルツブルクのようなプログラムをバーデン・バーデン音楽祭も望んでいることになる。立見の出る満席の会場に前半に二つ空いていた席を見るとどうもマネージャーと内田光子の席のようだった。ちらちらと様子を見ていたが、レクチャーの映像などで観るのとは全く違ってとても柔和な表情で前席のお客さんと会話していたようだった。

世界は複雑である。到底、そこに良かろうが悪かろうが一つの意志が働いているとは捉えられないのが私たちの世界である。そこで、神の輝きを賛歌するにしても精々それはEUの賛歌でしかない。そしてEU本部も狙われるようになってきた。ドイツを含めてEU加盟国の良き市民もそこに感じているのは条件付きの平和でしかない。

「おお、友よ、こんな響きではない。もっと心地よく、声を揃えて、喜びに溢れた。」と、救世主を待ち望んでも仕方がない。まさにそこにあるのは「遠くのアウシュヴィッツ」であって、そこに生じるのは陰謀論でしかあり得ないからだ。1942年のベルリンと同じぐらいに、バーデン・バーデンのとても整頓された「合唱付き」は、紛れもなく今日の空気を反映していただろうか?



参照:
美しい世界のようなもの 2016-03-28 | 音
交響する満載の知的芸術性 2013-04-03 | 音
詐欺の前に凍りつく聴衆 2012-08-19 | 文化一般
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする