オペラ鑑賞が趣味のいつものおばさんが新聞に東京から音楽批評を書いている。無駄な旅費を出さない様に新聞社に抗議したいぐらいだ。先日開かれた日本で初めてといわれる第36回東芝グランドコンサートのブルックナー全曲演奏会を訪問している。そこでスポンサーのフジTVの社長カメヤマがはしゃいでいる西欧への片想いを綴っている。
ベルリンへ帰京後も、疲れも見せずに難民のためのコンサートで響かすモーツァルトのニ短調協奏曲の第一主題のそれは、音楽が本当に国境を超えるものかどうかの試金石だと考えているようだ。このようなアレグロが全てを超えて、そのマニエールを習い、失われた過去を呼び起こすだけの理解とはならないという否定でもある。まさにこのおばさんが再三に亘って妄想する、ドイツ音楽は西洋近代音楽はどうしたものであるかの言及 ― 決してキリル・ペトレンコのようなシベリアンユダヤ人には出来ないものだという幻想がそこにある。要するに音楽の修辞法を十分に理解していないのだ。
勿論、無料で招待された難民の人たちと東京の大枚をはたいて集まって来た聴衆の理解度が同じ程度だとは誰も言わない。だから、巨大マンモス作品の第八交響曲や交響曲五番、七番、九番、人気の第四交響曲に集客力があって、第一番や第二番では高額席はがら空きになっていたとしてもそれは欧州の状況とは変わらないとしている ― そもそもブルックナーのツィクルスなど一挙にすることなど聞いたこともない。指揮者ダニエル・バレンボイムは、ブルックナーツィクルスを過去に二度録音していて、今度三度目を始めたとされ、第四交響曲のリハーサルには二十万円を超える全ツィクルス券を購入した百人ほどの聴衆が招待されて、そこでブルックナープロジェクトについての講話があったようだ。
副見出しには、なぜ今頃ブルックナーツィクルスなのかと命題が書かれているが、この記事で読み取れたのは、ダニエル・バレンボイムが主張する「対話こそが変容を起こす」ことであり、ブルックナーが九曲書いても言い切れていない、そしてその評価すら定まらないところにおけるリフレクションとなるのだろう。それは幻想なのか?
バレンボイム指揮シカゴ交響楽団のLP録音はレファレンスの一つになっているが、今週流したトリスタン演奏の歪な面が、ブルックナーではゲネラルパウゼなどの休止によって、上手に解決されているとしてもよいのかもしれない。しかし正直こうした日本ツアーが企画されて、芸術的なその意味合いを評価するのは難しい ― そもそもこれだけの曲を一挙に演奏しなくとも朝比奈隆などを代表に日本では繰り返し繰り返し定期公演で全曲が順々に演奏されている筈である。そのこととこのこととの意義の相違も全く不可解でしかない。
なるほど、フジTVの社長がそれだけの銭をつぎ込んだイヴェントでしかなかったというのが結論なのだろうか?同じ資金と手間暇をかけてもう少し芸術的に価値のあることが出来なかったのかなどの問いかけは、そもそもこうしたエンタティメントの社会では不要なのである。無駄が出てもこうして話題になってくれれば、企画としては成功しているということなのだろう。そこになんとなくこのイヴェントの社会学的な認識の切っ掛けがありそうだ。バブル時代には話題にもならなかったのかもしれないが、アベノミクスの終焉にこうした仇花が咲いていたという一つの時代の証なのかもしれない。ある意味、ブルックナーの生きていた、その心象風景でもある近代工業社会勃興の失われた時の響きがそこに聞かれたということになるのだろうか。
参照:
Der Lange Weg zur Unvollendeten, Eleonore Büning, FAZ vom 3.3.2016
いつものおばさんの戯言 2016-02-05 | マスメディア批評
ギアーチェンジの円滑さ 2016-03-04 | 音
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ベルリンへ帰京後も、疲れも見せずに難民のためのコンサートで響かすモーツァルトのニ短調協奏曲の第一主題のそれは、音楽が本当に国境を超えるものかどうかの試金石だと考えているようだ。このようなアレグロが全てを超えて、そのマニエールを習い、失われた過去を呼び起こすだけの理解とはならないという否定でもある。まさにこのおばさんが再三に亘って妄想する、ドイツ音楽は西洋近代音楽はどうしたものであるかの言及 ― 決してキリル・ペトレンコのようなシベリアンユダヤ人には出来ないものだという幻想がそこにある。要するに音楽の修辞法を十分に理解していないのだ。
勿論、無料で招待された難民の人たちと東京の大枚をはたいて集まって来た聴衆の理解度が同じ程度だとは誰も言わない。だから、巨大マンモス作品の第八交響曲や交響曲五番、七番、九番、人気の第四交響曲に集客力があって、第一番や第二番では高額席はがら空きになっていたとしてもそれは欧州の状況とは変わらないとしている ― そもそもブルックナーのツィクルスなど一挙にすることなど聞いたこともない。指揮者ダニエル・バレンボイムは、ブルックナーツィクルスを過去に二度録音していて、今度三度目を始めたとされ、第四交響曲のリハーサルには二十万円を超える全ツィクルス券を購入した百人ほどの聴衆が招待されて、そこでブルックナープロジェクトについての講話があったようだ。
副見出しには、なぜ今頃ブルックナーツィクルスなのかと命題が書かれているが、この記事で読み取れたのは、ダニエル・バレンボイムが主張する「対話こそが変容を起こす」ことであり、ブルックナーが九曲書いても言い切れていない、そしてその評価すら定まらないところにおけるリフレクションとなるのだろう。それは幻想なのか?
バレンボイム指揮シカゴ交響楽団のLP録音はレファレンスの一つになっているが、今週流したトリスタン演奏の歪な面が、ブルックナーではゲネラルパウゼなどの休止によって、上手に解決されているとしてもよいのかもしれない。しかし正直こうした日本ツアーが企画されて、芸術的なその意味合いを評価するのは難しい ― そもそもこれだけの曲を一挙に演奏しなくとも朝比奈隆などを代表に日本では繰り返し繰り返し定期公演で全曲が順々に演奏されている筈である。そのこととこのこととの意義の相違も全く不可解でしかない。
なるほど、フジTVの社長がそれだけの銭をつぎ込んだイヴェントでしかなかったというのが結論なのだろうか?同じ資金と手間暇をかけてもう少し芸術的に価値のあることが出来なかったのかなどの問いかけは、そもそもこうしたエンタティメントの社会では不要なのである。無駄が出てもこうして話題になってくれれば、企画としては成功しているということなのだろう。そこになんとなくこのイヴェントの社会学的な認識の切っ掛けがありそうだ。バブル時代には話題にもならなかったのかもしれないが、アベノミクスの終焉にこうした仇花が咲いていたという一つの時代の証なのかもしれない。ある意味、ブルックナーの生きていた、その心象風景でもある近代工業社会勃興の失われた時の響きがそこに聞かれたということになるのだろうか。
参照:
Der Lange Weg zur Unvollendeten, Eleonore Büning, FAZ vom 3.3.2016
いつものおばさんの戯言 2016-02-05 | マスメディア批評
ギアーチェンジの円滑さ 2016-03-04 | 音
ブルックナーの真価解析 2013-12-17 | 音
「大指揮者」の十八番演奏 2014-03-18 | 音
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