(承前)楽劇「トリスタンとイゾルデ」二幕へと進む。一幕で満足させてくれたLPも二幕に行くと若干状況が変わった。前奏から狩りのホルンの合奏となるが、指揮のフルトヴェングラーは「魔弾の射手」のような効果を狙っているのかもしれないが、このアンサムブルでは流石にそうした音色にまでは至っていないので、なにか間の抜けた印象である。とはいっても細やかなアンサムブルでの音楽的な緊張感を引き出せた訳ではないので、どうしてもこの部分は声のアリアのような感じになっていて、歌手の実力によって救われている反面、管弦楽が充分に弾き切れていない。それが次のイゾルデとトリスタンの第二場になると、全曲中のクライマックスでもある訳だが、そこにある各声部の和声的な緊張感などを余すことなく響かせるとすれば、やはりこの録音のための管弦楽団では手に余る。
サイモン・ラトルが語るように、ベルリンの下から響きを積み上げていく管弦楽団でその音色の同質感があってこその響きが可能ならば、なるほどヴィーンの座付管弦楽団ではこの楽劇の演奏は難しいとするのは本当だろう。そこで先ごろ逝去した歌手ヴィッカースがトリスタンを歌っているフォン・カラヤン指揮ベルリナーフィルハーモニカ―の録音をyoutubeで聞く。これを比較すると、楽員が我武者羅に弾いていて思わず笑ってしまうのだが、働けば働いただけ豊かになると信じられていた高度成長期の時代を感じさせる。それ故に肝心の音楽的な構造が全く分からないばかりか、充分に音価やリズムの妙が表現されていない。これではケント・ナガノのヴァーグナーを幼稚園のままごとと笑えないのである。これならばフルトヴェングラーの録音が決定盤とされていても仕方がない。
因みになるほどヴィッカースの声は立派であるが、反対に弱々しいと批判されているルートヴィッヒ・ズートハウスの歌唱は、声の問題ではなくて、第一幕では敢えてそのように歌っていて、第二幕では決してそのような歌唱ではない。実演云々は別にして、やはり円熟したヴァークナー歌手であり、カラヤンサーカスの歌い手とは異なることは確かなようだ。
要するになかなか楽譜通りつまり楽匠が狙った通りに演奏されることが無いということであり、既に我々はそうした楽譜がどのように鳴るべきかを指揮者キリル・ペトレンコから習ってしまったので、今回もサイモン・ラトル指揮のベルリナーフィルハーモニカ―にはどうしても期待してしまうのである。
フルトヴェングラーの指揮はそれはそれで立派なものなのであるが、第三場のオーボエの響きなどはヴィーンのそれよりも薄っぺらいチャルメラの玩具のような響きでこれまたどうしようもないのである。第二幕においては兎に角、ロンドンでのスタディオオーケストラの限界が耳について致し方がない。
序ながら、大阪フェスティヴァルでのピエール・ブーレーズ指揮の前奏曲を全曲収録の動画から見たが、若いときのこの指揮者らしく早いテムポでまるで息が掛かって曇らない様に走り抜けるような指揮をしていて、なるほどあれならばN饗であろうがどのような管弦楽が奈落に入っていてもそれほど差が出ないだろうと思わせた。とても貴重な録画である。当時の反響はその晩にも耳にした覚えがあるが、映像を観ることであの夜このような演奏がフェスティヴァルホールでなされていたのかと感慨深い。なによりもヴィーラントの演出の公演を動画で見れるのは本当に素晴らしい。ブーレーズはこの大阪以外ではこの曲を振っていないと思うが、そうなるとこの公演のために準備したことになる。(続く)
参照:
そこが味噌なのですよ! 2015-08-13 | 音
祭神現れ皆頭を垂れ 2015-10-25 | 雑感
サイモン・ラトルが語るように、ベルリンの下から響きを積み上げていく管弦楽団でその音色の同質感があってこその響きが可能ならば、なるほどヴィーンの座付管弦楽団ではこの楽劇の演奏は難しいとするのは本当だろう。そこで先ごろ逝去した歌手ヴィッカースがトリスタンを歌っているフォン・カラヤン指揮ベルリナーフィルハーモニカ―の録音をyoutubeで聞く。これを比較すると、楽員が我武者羅に弾いていて思わず笑ってしまうのだが、働けば働いただけ豊かになると信じられていた高度成長期の時代を感じさせる。それ故に肝心の音楽的な構造が全く分からないばかりか、充分に音価やリズムの妙が表現されていない。これではケント・ナガノのヴァーグナーを幼稚園のままごとと笑えないのである。これならばフルトヴェングラーの録音が決定盤とされていても仕方がない。
因みになるほどヴィッカースの声は立派であるが、反対に弱々しいと批判されているルートヴィッヒ・ズートハウスの歌唱は、声の問題ではなくて、第一幕では敢えてそのように歌っていて、第二幕では決してそのような歌唱ではない。実演云々は別にして、やはり円熟したヴァークナー歌手であり、カラヤンサーカスの歌い手とは異なることは確かなようだ。
要するになかなか楽譜通りつまり楽匠が狙った通りに演奏されることが無いということであり、既に我々はそうした楽譜がどのように鳴るべきかを指揮者キリル・ペトレンコから習ってしまったので、今回もサイモン・ラトル指揮のベルリナーフィルハーモニカ―にはどうしても期待してしまうのである。
フルトヴェングラーの指揮はそれはそれで立派なものなのであるが、第三場のオーボエの響きなどはヴィーンのそれよりも薄っぺらいチャルメラの玩具のような響きでこれまたどうしようもないのである。第二幕においては兎に角、ロンドンでのスタディオオーケストラの限界が耳について致し方がない。
序ながら、大阪フェスティヴァルでのピエール・ブーレーズ指揮の前奏曲を全曲収録の動画から見たが、若いときのこの指揮者らしく早いテムポでまるで息が掛かって曇らない様に走り抜けるような指揮をしていて、なるほどあれならばN饗であろうがどのような管弦楽が奈落に入っていてもそれほど差が出ないだろうと思わせた。とても貴重な録画である。当時の反響はその晩にも耳にした覚えがあるが、映像を観ることであの夜このような演奏がフェスティヴァルホールでなされていたのかと感慨深い。なによりもヴィーラントの演出の公演を動画で見れるのは本当に素晴らしい。ブーレーズはこの大阪以外ではこの曲を振っていないと思うが、そうなるとこの公演のために準備したことになる。(続く)
参照:
そこが味噌なのですよ! 2015-08-13 | 音
祭神現れ皆頭を垂れ 2015-10-25 | 雑感