Wein, Weib und Gesang

ワイン、女 そして歌、此れを愛しまない輩は、一生涯馬鹿者であり続ける。マルティン・ルター(1483-1546)

鳴り響く中世の街の影絵

2016-05-14 | 
承前)楽劇「マイスタージンガー」三幕と相成った。相変わらずフルトヴェングラー指揮の実況録音を改めて聞くと感動してしまう。最初の前奏曲のハンス・ザックスの諦観の動機そしてコラール動機と続くと、完全に遺作となる舞台神聖劇「パルシファル」の世界へと片足を突っ込む。この台本からそこまで「深い心情」が語られているのかどうか疑問になるほどの音楽がそこにある。しかしそれが決して物思い以上に深刻なものとは響かずに、狂言回しのようにもしくはトリスタンにおける牧童のような徒弟ダーフィットが場面を立体的にするこの劇効果は舞台芸術として超一級のものになっている。

それがヨハネの歌へと結ばれて、ニュルンベルクの街並みのシルエットが響き渡り、第二場のヴァルターとザックスの友情のディアローグが連なる時、これはなかなかヴェルディのオペラではなしえなかったインティメートな音楽進行となっていることに気つく。そのようにあらゆる音楽的素材を準備してきていて、そこを目指して各々が生成してきたような面があり、驚かされると同時に感動させられて仕舞うのである。

友情の動機が耳につくが、悪役ベックメッサーが登場して、第三場の無言劇が展開する一方、ヴァルターの歌、靴職人の歌が交差する。ベックメッサーの狂言回しとザックスの対応がいよいよ歌合戦へのムードを盛り上げたかと思うと、エファーの登場する第四場となる。この情景はこれまたドイツの舞台劇でも最も繊細な心情が描かれる大場面となっていて、音楽愛好家はモーツァルトのオペラブッファと比較するしかなくなるのである。エロティックな靴の場面からヴァルターが登場して愛の動機が流れ、諦観の動機が下支えするときに感動無しにこの舞台音楽を認知できるだろうか?そして、とんでもなく素晴らしい演奏をしているフルトヴェングラー指揮のバイロイトでの上演には、辛酸を舐めた傷痍軍人たちが集まり聴衆とそこに座っているかと考える時、まさしくこのバイロイトの祝祭劇場で行われている啓蒙思想を土台とした西欧文化の精華がそこにあったことに、アドルノが言う「アウシュヴィッツのあとに詩は綴れない」としか付け加える言葉も見つからない。

しかしこうした感興もいよいよの大詰め三幕最終場面「祭りの歌合戦の場」となって大きく動く。音楽的な素材からすると、やはり総決算となって其々の素材が最終的な完成形として表れてくるので、構築されたフィナーレが鳴り終わるときに、再び最初の前奏曲に戻りたいような気持にさせるのもブルックナーの交響曲と同じである。実際に再びもう少し録音比較試聴をしてみたい。実在のハンス・ザックスのルターへの詩を引用は、第四場での自作のトリスタンの引用同様にその創作作業を垣間見せて面白い。

そして終曲のザックスの演説に至る過程をも含めて、またもやこの戦時中の演奏はなぜか上手くいっていない。いつものことで緊張が途切れてしまっているのはあまりにも最初から室内楽的な充実を強いられたことのつけがここに回ってきているからだろうか。この上演のその状況に思いを馳せると、流石に理想主義の芸術家にしても現実に立ち向かわなければいけなかったということでもあろう。その作曲家もここに付け加えるにあたって大変苦労したヴァルターの優勝の歌から後の部分にこそ「問題」が生じている。

結局こうして音響資料などを使っても、今一つこの楽劇の音楽的な成果がこれといった形で表れていないとしか思われない。とても手の込んだ創作であり、完成度も高いのであるがそれが正確な演奏実践をよけいに難しくしているようだ。(終わり)



参照:
思わず感動するお勉強 2016-04-29 | 音
バイロイトの名歌手たち? 2016-03-11 | 音
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