楽劇「マイスタージンガー」の管弦楽稽古から障りや写真が出ている。その前奏曲を耳にして驚いた。トスカニーニよりも早く、連符が区切られるように弾かれている。勿論これが後になってその意味を表してくることは想像に難くないが、正直このように出て来るとは思ってもいなかった。徒弟の踊りの部分も飛ばすに飛ばしているので、管弦楽団は可成りの仕事をさせられることになる。音楽的には、これで予想されるのは前奏曲においてもテムポの緩急が激しく設定されることで、まさしく作曲家ヴァークナーがこの時期に関心を持っていたことなのである。それでいながらそのように感じさせない演奏が秀逸とされる。
そのような按配だから、そのようにこの楽劇全体が構成されているから、なにもコンサートピースもしくはアンコールピースとして名曲であるからではなくて、この前奏曲を正しく演奏できていれば真面な譜読みをする指揮者ならばこの楽劇全体をどのようコンセプトで演奏解釈するかが知れるのである。障り所を片っ端から聞いて行こうかと思ったが、全く時間が足りないことに気がついて、最も手っ取り早い方法に気がついたのである。
YouTubeで流したのは、全曲演奏録音を中心として、1930年台のヴィーンでのトスカニーニ、ベルリンのこけら落としでの、そしてドレスデンでのまたヴィ―ンでの1944年のカール・ベーム、ベルリンでのフルトヴェングラー、バイロイトでの1943年のフルトヴァングラーとアーベントロート、1951年のまたドレスデンでの1970年フォン・カラヤン、1999年のバレンボイム、ミュンヘンでの1949年のオイゲン・ヨッフム、ベルリンでのルドルフ・ケムペ、ヴィーンでの1950年とバイロイト1952年でのとミュンヘンでの1955年のクナッパーツブッシュ、ドイツェオパーでの1963年のフランツ・コンヴィチィニー、ヘラクレスザールでの1967年のラファエル・クーベリックの放送管弦楽団を使った録音などである。他の楽劇よりも提供されているものが多いのはそもそも上演機会が多いということだろうか?
数が多いので先ずは駄目なものから削っていくと、コンヴィチニー、ケムペ、アーベントロートなどやはりその名声に比例する訳だが、クーベリックのドイツ音楽もふなふなしていて駄目だ。次にバレンボイムの演奏も駄目であるが演出上のためか奈落で音合わせを敢えてしている。次に落とさなければいけないのはフォン・カラヤンの二種類の演奏で、こうした指揮を聞くとなるほどアンチカラヤンというものが存在したのがよく分かる。この指揮者は音楽芸術の広報には寄与したが芸術や創作というものを自ら消費したに過ぎなく、自身も十分に自覚していたに違いないと思わせる。
さて一部では評価の高いトスカニーニ指揮もテムポの切り替えに特徴があってあまり上手ではない。よく言われるイムテムポ風の裏腹の不自然さと強引さである。中庸と呼ばれるヨッフムが同じように巧く処理しようと思っているんだがとても苦労をしているようで上手くいかないようで面白い。そして、クナッパーツブッシュの同じミュンヘンでのそれを聞くと、なるほどもしかすると初演のこの劇場には沢山書き込みのある楽譜でもあるかなと思わせる伝統があるようだ。このヴァークナーで論文を書いたような高名な指揮者のバイロイトでの未知の演奏録音などにあまり感心しなかったものが続いていたので、今回は流石と思った。そして肝心の徒弟の踊りがしっかりと元のテムポで演奏されている。
最も驚いたのは、ベーム指揮のゲッペレスの演説に続くこけら落としの演奏で、まさしくこれは国家社会主義体制の音楽芸術そのものだ。働かぬ者は食うな式の仮借ない弦の音色はこの指揮者の持ち味である新即物主義と呼ばれる奏法であるが、このVIDEOなどを見るとフルトヴァングラー指揮のAEG工場でのプロパガンダ映画などよりもそのものナチスである。戦後暫く公職追放になっていたのも頷ける。
さて、あの徒弟の踊りのテムポや連符の扱いが、ペトレンコが目指すようにパトスからの解放に寄与するのか、それとも喜劇的な要素がもたされるのかよりも、そうした動機の扱い方が充分に全曲に亘って連環や関係性を感覚的に齎してくれるのかが音楽的な期待であり、それに尽きるのである。ベックメッサー役に抜擢されたアイへが語るように、恐らく初演初日では技術的な面を含めてそれが完璧に成功するとは限らないが、回数を重ねるにしたがって ― 彼が言うには九回目かそれとも毎回積み重ねてか ― 徐々に完成してくるだろうということだろう。これは、バイロイトにおける「指輪」の演奏実践で証明されていることで、完成度は毎年高まって来ていた。
同じ先に収録されている幕間インタヴューでポピュラー出身のエファーを歌う歌手はしごかれたことを話しているが、ザックスを歌うコッホは私と同じように二幕第四場の特別な場面に言及していて音楽的にも注目されるところだ。
参照:
ベルカントで歌うこと 2016-05-06 | 音
ヨハネの日のそわそわ感 2016-05-11 | 音
鳴り響く中世の街の影絵 2016-05-14 | 音
そのような按配だから、そのようにこの楽劇全体が構成されているから、なにもコンサートピースもしくはアンコールピースとして名曲であるからではなくて、この前奏曲を正しく演奏できていれば真面な譜読みをする指揮者ならばこの楽劇全体をどのようコンセプトで演奏解釈するかが知れるのである。障り所を片っ端から聞いて行こうかと思ったが、全く時間が足りないことに気がついて、最も手っ取り早い方法に気がついたのである。
YouTubeで流したのは、全曲演奏録音を中心として、1930年台のヴィーンでのトスカニーニ、ベルリンのこけら落としでの、そしてドレスデンでのまたヴィ―ンでの1944年のカール・ベーム、ベルリンでのフルトヴェングラー、バイロイトでの1943年のフルトヴァングラーとアーベントロート、1951年のまたドレスデンでの1970年フォン・カラヤン、1999年のバレンボイム、ミュンヘンでの1949年のオイゲン・ヨッフム、ベルリンでのルドルフ・ケムペ、ヴィーンでの1950年とバイロイト1952年でのとミュンヘンでの1955年のクナッパーツブッシュ、ドイツェオパーでの1963年のフランツ・コンヴィチィニー、ヘラクレスザールでの1967年のラファエル・クーベリックの放送管弦楽団を使った録音などである。他の楽劇よりも提供されているものが多いのはそもそも上演機会が多いということだろうか?
数が多いので先ずは駄目なものから削っていくと、コンヴィチニー、ケムペ、アーベントロートなどやはりその名声に比例する訳だが、クーベリックのドイツ音楽もふなふなしていて駄目だ。次にバレンボイムの演奏も駄目であるが演出上のためか奈落で音合わせを敢えてしている。次に落とさなければいけないのはフォン・カラヤンの二種類の演奏で、こうした指揮を聞くとなるほどアンチカラヤンというものが存在したのがよく分かる。この指揮者は音楽芸術の広報には寄与したが芸術や創作というものを自ら消費したに過ぎなく、自身も十分に自覚していたに違いないと思わせる。
さて一部では評価の高いトスカニーニ指揮もテムポの切り替えに特徴があってあまり上手ではない。よく言われるイムテムポ風の裏腹の不自然さと強引さである。中庸と呼ばれるヨッフムが同じように巧く処理しようと思っているんだがとても苦労をしているようで上手くいかないようで面白い。そして、クナッパーツブッシュの同じミュンヘンでのそれを聞くと、なるほどもしかすると初演のこの劇場には沢山書き込みのある楽譜でもあるかなと思わせる伝統があるようだ。このヴァークナーで論文を書いたような高名な指揮者のバイロイトでの未知の演奏録音などにあまり感心しなかったものが続いていたので、今回は流石と思った。そして肝心の徒弟の踊りがしっかりと元のテムポで演奏されている。
最も驚いたのは、ベーム指揮のゲッペレスの演説に続くこけら落としの演奏で、まさしくこれは国家社会主義体制の音楽芸術そのものだ。働かぬ者は食うな式の仮借ない弦の音色はこの指揮者の持ち味である新即物主義と呼ばれる奏法であるが、このVIDEOなどを見るとフルトヴァングラー指揮のAEG工場でのプロパガンダ映画などよりもそのものナチスである。戦後暫く公職追放になっていたのも頷ける。
さて、あの徒弟の踊りのテムポや連符の扱いが、ペトレンコが目指すようにパトスからの解放に寄与するのか、それとも喜劇的な要素がもたされるのかよりも、そうした動機の扱い方が充分に全曲に亘って連環や関係性を感覚的に齎してくれるのかが音楽的な期待であり、それに尽きるのである。ベックメッサー役に抜擢されたアイへが語るように、恐らく初演初日では技術的な面を含めてそれが完璧に成功するとは限らないが、回数を重ねるにしたがって ― 彼が言うには九回目かそれとも毎回積み重ねてか ― 徐々に完成してくるだろうということだろう。これは、バイロイトにおける「指輪」の演奏実践で証明されていることで、完成度は毎年高まって来ていた。
同じ先に収録されている幕間インタヴューでポピュラー出身のエファーを歌う歌手はしごかれたことを話しているが、ザックスを歌うコッホは私と同じように二幕第四場の特別な場面に言及していて音楽的にも注目されるところだ。
参照:
ベルカントで歌うこと 2016-05-06 | 音
ヨハネの日のそわそわ感 2016-05-11 | 音
鳴り響く中世の街の影絵 2016-05-14 | 音