Wein, Weib und Gesang

ワイン、女 そして歌、此れを愛しまない輩は、一生涯馬鹿者であり続ける。マルティン・ルター(1483-1546)

ヨハネの日のそわそわ感

2016-05-11 | 
承前)楽劇「マイスタージンガー」二幕は短い。場面は七つもあって、オペラブッファ的に闊達な物語が進む。あのヨハネの日のなんとなく落ち着かない風景はドイツの昔からの風物詩なのだろう。それは今でも変わらない。我が家は、五月の竿は工事中のために教会広場には掲げられなかったが、直にワイン祭りになる。ヨハネ祭の動機などにその後の音楽的展開が想像できるわけだが、逆に幕のフィナーレのフガートに代表されるように誰にでも分かるようなあざとさを用意しているのが面白い。それが、花冠動機の歌われる第一場に続く、第二場でも銀細工親方ポーグナーのモノローグで最終的に雰囲気を設定することになっている。長い昼からその黄昏感と第三場のザックスのにわとこの独白へと、これまた臭覚まで刺激しようとする。それに続くヴァルターの青春の歌へとの繋がりは、この幕の特徴的な流れである。

またまたあざといポーグナーの娘エファの動機が、そしてシューマイスターザックスとディアローグの第四場に続く。この場の叙唱のための音楽は楽匠の中で最もインティメートなものではなかろうか。参考資料のサヴァリッシュ指揮の演奏は喜劇的な面に重心が置かれ、フルトヴェングラー指揮では達観やそれ以上の内面劇となっているが、双方とも楽譜を充分に音化していない。ここがもしかするとペトレンコ指揮の今回の演奏では大きな山となるかもしれない。この場が充分に演奏されるようなことならば大成功間違いない。

第五場ではヴァルターが登場して、マイスター達との確執を歌い、ロ長調からへ長調への夜警の歌へと落ち着いていくのだが、そしてまたここから第六場そしてフィナーレへと一気に流れ込んで行く。短いながらも充実した印象を受ける幕ではないだろうか。

1866年の秋に三幕まで書き進められることになる。バイエルンの政治情勢だけでなく内外的に落ち着かない状況にあったようで、それ故に余計に創作上にも達観のようなものが色濃く表れている。技法的に定旋律など明らかな部分以上に、その自身傑作と認めるような出来が、この二幕の楽譜にあり、中々演奏を難しくしているかもしれない。

この楽劇をしっかりとみていくと、この楽匠と呼ばれる作曲家は、勿論その台本も書いている訳であるが、一般に思われている様に哲学的な思考をしている訳ではなく、飽く迄も芸術家としてのショーペンハウワーなどへの傾倒の中で、エンターティメントを忘れることなく寧ろ人生哲学的なものを色濃く反映しているようにも思える。それでも芸術家としての眼差しが清澄していて、中々の魅力となっている。

繰り返すが、二幕での靴職人ザックスは益々その存在感を発揮するとともに、最も創作家の内声を伝えているようでありながらも、とても客観的な描かれ方もしてあり秀逸である。そして、作曲家自身も創作の終わりに近づくにつれ「信じられますか?」と問いかけるような、いよいよ三幕へと創作を完成させていく。(続く



参照:
五月の週末の過ごし方 2016-05-09 | 生活
「聖なる朝の夢」の採点簿 2005-06-26 | 文化一般
真夏のポストモダンの夢 [ 生活・暦 ] / 2005-06-25
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