車中の朝のラディオは、キリスト教民主同盟の中での争いが話題となっていた。メルケル首相の難民政策によって、大きく支持を失い、その支持がポピュリスト政党のAfDに移っていることを懸念してのバイエルンの姉妹政党キリスト教社会同盟からの批判を受けてのことである。当然その党首ゼーホファーにしてみれば当然の政治的な戦いなのだが、その「キリスト者優先の政策」には大きな批判が寄せられた。ラディオが伝えるように、頼みのカトリックの大司教がこうした難民への態度を反キリストと「恥を知れ」と叱ったことからその足場が崩れた。更に、メルケル首相がノーベル平和賞でも受賞することになると政治状況は一挙に変わってしまうという事のようである。そして今更ながら冷戦当時のような対抗軸しか出せないバイエルンの地方政党の将来性が問題となる。
文化・芸術・音楽など具に見ていくと、未だに頭の中が20世紀の人々は専門家筋でも少なくない。その人達が完全に20世紀人なのだから当然と言えば当然なのだが、殆ど頭の中がアルツハイマー級の呆けとなってしまっているのである。そうした政治家を戴いているようではお話にならないという事である。
新聞には、蓮舫党首の記事が載っていた。そこでは女性問題よりも国籍問題が日本の右翼筋にとっては重要案件であるという彼らの人種主義を報じていた。その記事を読んで、党首の日本名が村田とあって、初めて聞いたのだが、シナ名は書いていなかった。理由は分からない。日本国民栄誉賞の台湾人王監督のように、もともと国民党系のメインランドの人なのだろうか?
難民問題に関していえば、先日新聞に載っていた一覧表に驚いた。それによると受け入れ人数では流石に連邦共和国は多いが、それ以上にアルプスの小国オーストリアなどでは人口比では一割を簡単に超えていた。スェーデンとは比較にならないとしても、スイスでもそれほど比率は少なくないのだ。なるほど国民にとっては不安になるのは致し方ない。それらが移民志願者であるのか、只の難民であるのかでも大きく異なるが、その数字は予想以上であった。
また、新しい記事には、世論調査の結果が載っていて、政党別の意識調査が興味深かった。それによると、緑の党の支持者などは移民の比率も多いのかもしれないが、そもそもの「ドイツの国民性」などというものは「あるならばある」と多くの支持者が考えていて、予め規定されているものではないという事だ。恐らくそれは正しいのだろう。
このような状況を見ていると自分自身も完全に20世紀人で未だに構造主義的な思考態度から抜け出せないのではないかと思うようになった。三宅洋平の選挙スローガンではないが「ありのままの姿」に対応できないとなると、とても馬鹿らしいと感じる。無限に広がる水平線の彼方へと意識すらも向かわなくなるからだ。その彼方にはどれほどに豊かで広大な風景が広がっているかもしれないのである。そうした希望すら無くなってしまうようでは生きていることすら損なのである。現実のポピュリスムが勃興する世界において、それへの対抗として提示出来るものこそが、こうしたありのままを受け入れる姿勢でしかないのではなかろうか。
参照:
自分らしくあれる社会 2016-07-03 | 文学・思想
多義的ではない多様性の焦燥 2009-11-22 | 女
旨味へと関心が移る展開 2009-11-07 | 文学・思想
文化・芸術・音楽など具に見ていくと、未だに頭の中が20世紀の人々は専門家筋でも少なくない。その人達が完全に20世紀人なのだから当然と言えば当然なのだが、殆ど頭の中がアルツハイマー級の呆けとなってしまっているのである。そうした政治家を戴いているようではお話にならないという事である。
新聞には、蓮舫党首の記事が載っていた。そこでは女性問題よりも国籍問題が日本の右翼筋にとっては重要案件であるという彼らの人種主義を報じていた。その記事を読んで、党首の日本名が村田とあって、初めて聞いたのだが、シナ名は書いていなかった。理由は分からない。日本国民栄誉賞の台湾人王監督のように、もともと国民党系のメインランドの人なのだろうか?
難民問題に関していえば、先日新聞に載っていた一覧表に驚いた。それによると受け入れ人数では流石に連邦共和国は多いが、それ以上にアルプスの小国オーストリアなどでは人口比では一割を簡単に超えていた。スェーデンとは比較にならないとしても、スイスでもそれほど比率は少なくないのだ。なるほど国民にとっては不安になるのは致し方ない。それらが移民志願者であるのか、只の難民であるのかでも大きく異なるが、その数字は予想以上であった。
また、新しい記事には、世論調査の結果が載っていて、政党別の意識調査が興味深かった。それによると、緑の党の支持者などは移民の比率も多いのかもしれないが、そもそもの「ドイツの国民性」などというものは「あるならばある」と多くの支持者が考えていて、予め規定されているものではないという事だ。恐らくそれは正しいのだろう。
このような状況を見ていると自分自身も完全に20世紀人で未だに構造主義的な思考態度から抜け出せないのではないかと思うようになった。三宅洋平の選挙スローガンではないが「ありのままの姿」に対応できないとなると、とても馬鹿らしいと感じる。無限に広がる水平線の彼方へと意識すらも向かわなくなるからだ。その彼方にはどれほどに豊かで広大な風景が広がっているかもしれないのである。そうした希望すら無くなってしまうようでは生きていることすら損なのである。現実のポピュリスムが勃興する世界において、それへの対抗として提示出来るものこそが、こうしたありのままを受け入れる姿勢でしかないのではなかろうか。
参照:
自分らしくあれる社会 2016-07-03 | 文学・思想
多義的ではない多様性の焦燥 2009-11-22 | 女
旨味へと関心が移る展開 2009-11-07 | 文学・思想