文化欄に先日終了したベルリンのフェストシュピールの総括が記事となっている。そもそも私にとっては同時期に開かれていたベルリナーフェストヴォヘには何度も足を運んだが、それが最近フェストシュピールに成っていることに気がついたばかりである。なにが異なるのか、なぜ名前に変更がなされたのかは分からない。2004年から名称が変わっているようだ。恐らく広範な芸術祭になっているのだろう。
その中で興味深かったのは、ベルリンのフィルハーモニカ―が指揮者アンドリス・ネルソンズの指示を無視したという事である。それによると「最後のタクトが終わってからも暫く弓を当てておけ」と指揮者は望んだようなのだが、半数はそのようにはしなかったというのである。この交響楽団のあまりにもの自意識過剰な姿勢は最近は話題になることが多いが、明らかなサボタージュをしたようだ。先日も言及したところだが、このラトヴィア人への信頼は、ボストンでのショスタコーヴィッチシリーズをライヴ録音で売り出すというように、メディア市場では大きいようだが、現場では既に足元を見られているようだ。上の指示の妥当性や芸術的な意味合いは分からないが、今や高学歴のフィルハモニカ―を納得させるほどの説得は出来なかったのだろう。管弦楽を鳴らすという事に掛けては秀でた指揮者で、その音楽的才能もトップクラスの人ではあり、バイロイトの初代音楽監督とはものが違うのだろう。それでも方々で虐められているのかもしれない。ベルリンのフィルハーモニカ―に関しても、ここ暫くも多くが語られていて、次期監督はその自意識過剰な集団を如何に手中に治められるかといういう話だった。
ミュンヘンの座付管弦楽団のアルテオパーでのツアー最終演奏会の批評記事も読んだ。興味深いのは、最初に「マイスタージンガー」序曲を持ってきたプログラムでの演奏会の感想だった。アンコールでのそれとは異なり精密でとても管弦楽団にとっては要求の多い演奏で、それでもコーダに掛けて二発三発と加速をしていて、最初のブラヴォーを待つだけとなったとある。そして二曲目の精妙さの極みの「最後の四つの歌」に、うって変わっての休憩後のチャイコフスキーに言及されている。アンコールでの可能性のある「ルスランとリュドミラ」序曲の言及はない。やはり前半と後半とのコントラストへの言及があるので、「マイスタージンガー」序曲を可成り丁寧に演奏していたのは間違いなさそうである。我々は劇場でのそれを聞いているので、どのように演奏されたかは想像がつくが、そのように弾くことはいつものお仕事なので全く訳がないことだろう。
チャイコフスキーに関してはミュンヘンでおかしな評論があった。それによると、キリル・ペトレンコは楽員をしごいていて、その交響曲のフィナーレで聞こえるのは労苦の叫びと怒りいうようなことが言いたいらしい。これに関しては「音楽家で今日より明日を更に上手に演奏しようと思わない人はいない」といういい方が最もしっくりくるのだが、そこまで追い込める音楽集団であるという自負や誇りが無い限り、日常の連夜のお勤めや連日の本番勝負などは出来る筈がない。ボーナスは出るのだろうが、それ以上の動機付けが無いことには音楽などは出来ないのはスポーツとも似ているかもしれない。そしてこうしたおかしなことを書きながら、シュトラウスではダムロウの母音が二三度落ちてティーレマン指揮のハルテロス?かはそうではなかったと本心が出て来る。どうもあの手の人たちは未だに信じたいものがあるようで拘り続けているようだ。理由は分からないが、どうもそこにはメディアの圧力ではない信仰のようなものがあるらしい。
キリル・ペトレンコのフランクフルトとの付き合いも2006年頃に後任音楽監督として歌劇場との交渉に入っていたと書いてある。結局コーミシェオパーを離れてから、その後の「ホヴァンシチーナ」、「パレストレーナ」と「トスカ」を客演するに終わっている。だからバイロイトで「指輪」を聞けた人は幸せだと書く。条件や環境はそれほど悪くは無かったと想像するが、前任地とそれほど雰囲気の変わらないこじんまりとした劇場なので、大きな跳躍板にはならないと考えたのだろうか。
ミュンヘンには、放送交響楽団以外にフィルハーモニカ―があり、音楽監督には反対運動にも拘らずプーティンの指揮者ゲルギーエフが就任している。報道によると予想通り評判が悪い。ロシアものに比べて他のレパートリーでは全然駄目だというのである。そもそもこの指揮者に何を期待したのかは分からないが、西欧の音楽先進国ではあのような音楽では通じないのは当然ではなかろうか。もう一人のマリス・ヤンソンスでさえアムステルダムのコンセルヘボーでは荷が重すぎると言われていたのである。
参照:
九月の四つの最後の響き 2016-09-23 | 音
インタヴュー、時間の無駄三 2016-07-30 | 文化一般
インタヴュー、時間の無駄二 2016-07-24 | 歴史・時事
視差を際立せる報道 2008-09-29 | マスメディア批評
その中で興味深かったのは、ベルリンのフィルハーモニカ―が指揮者アンドリス・ネルソンズの指示を無視したという事である。それによると「最後のタクトが終わってからも暫く弓を当てておけ」と指揮者は望んだようなのだが、半数はそのようにはしなかったというのである。この交響楽団のあまりにもの自意識過剰な姿勢は最近は話題になることが多いが、明らかなサボタージュをしたようだ。先日も言及したところだが、このラトヴィア人への信頼は、ボストンでのショスタコーヴィッチシリーズをライヴ録音で売り出すというように、メディア市場では大きいようだが、現場では既に足元を見られているようだ。上の指示の妥当性や芸術的な意味合いは分からないが、今や高学歴のフィルハモニカ―を納得させるほどの説得は出来なかったのだろう。管弦楽を鳴らすという事に掛けては秀でた指揮者で、その音楽的才能もトップクラスの人ではあり、バイロイトの初代音楽監督とはものが違うのだろう。それでも方々で虐められているのかもしれない。ベルリンのフィルハーモニカ―に関しても、ここ暫くも多くが語られていて、次期監督はその自意識過剰な集団を如何に手中に治められるかといういう話だった。
ミュンヘンの座付管弦楽団のアルテオパーでのツアー最終演奏会の批評記事も読んだ。興味深いのは、最初に「マイスタージンガー」序曲を持ってきたプログラムでの演奏会の感想だった。アンコールでのそれとは異なり精密でとても管弦楽団にとっては要求の多い演奏で、それでもコーダに掛けて二発三発と加速をしていて、最初のブラヴォーを待つだけとなったとある。そして二曲目の精妙さの極みの「最後の四つの歌」に、うって変わっての休憩後のチャイコフスキーに言及されている。アンコールでの可能性のある「ルスランとリュドミラ」序曲の言及はない。やはり前半と後半とのコントラストへの言及があるので、「マイスタージンガー」序曲を可成り丁寧に演奏していたのは間違いなさそうである。我々は劇場でのそれを聞いているので、どのように演奏されたかは想像がつくが、そのように弾くことはいつものお仕事なので全く訳がないことだろう。
チャイコフスキーに関してはミュンヘンでおかしな評論があった。それによると、キリル・ペトレンコは楽員をしごいていて、その交響曲のフィナーレで聞こえるのは労苦の叫びと怒りいうようなことが言いたいらしい。これに関しては「音楽家で今日より明日を更に上手に演奏しようと思わない人はいない」といういい方が最もしっくりくるのだが、そこまで追い込める音楽集団であるという自負や誇りが無い限り、日常の連夜のお勤めや連日の本番勝負などは出来る筈がない。ボーナスは出るのだろうが、それ以上の動機付けが無いことには音楽などは出来ないのはスポーツとも似ているかもしれない。そしてこうしたおかしなことを書きながら、シュトラウスではダムロウの母音が二三度落ちてティーレマン指揮のハルテロス?かはそうではなかったと本心が出て来る。どうもあの手の人たちは未だに信じたいものがあるようで拘り続けているようだ。理由は分からないが、どうもそこにはメディアの圧力ではない信仰のようなものがあるらしい。
キリル・ペトレンコのフランクフルトとの付き合いも2006年頃に後任音楽監督として歌劇場との交渉に入っていたと書いてある。結局コーミシェオパーを離れてから、その後の「ホヴァンシチーナ」、「パレストレーナ」と「トスカ」を客演するに終わっている。だからバイロイトで「指輪」を聞けた人は幸せだと書く。条件や環境はそれほど悪くは無かったと想像するが、前任地とそれほど雰囲気の変わらないこじんまりとした劇場なので、大きな跳躍板にはならないと考えたのだろうか。
ミュンヘンには、放送交響楽団以外にフィルハーモニカ―があり、音楽監督には反対運動にも拘らずプーティンの指揮者ゲルギーエフが就任している。報道によると予想通り評判が悪い。ロシアものに比べて他のレパートリーでは全然駄目だというのである。そもそもこの指揮者に何を期待したのかは分からないが、西欧の音楽先進国ではあのような音楽では通じないのは当然ではなかろうか。もう一人のマリス・ヤンソンスでさえアムステルダムのコンセルヘボーでは荷が重すぎると言われていたのである。
参照:
九月の四つの最後の響き 2016-09-23 | 音
インタヴュー、時間の無駄三 2016-07-30 | 文化一般
インタヴュー、時間の無駄二 2016-07-24 | 歴史・時事
視差を際立せる報道 2008-09-29 | マスメディア批評