ミュンヘンのオペラ劇場の来年の日本公演に関してのアクセスがあった。九月に発表になっていたようだ。演目が二つ並んでいて細かな日程は書かれていない。何よりも驚いたのはまだ制作されていない「タンホイザー」があることだ。どのような経過で決定したのかは知らないが、演奏されるのはドレスデン版とパリ版を混合した指揮者の要請による版らしい。正直初期のヴァークナーの創作には全く関心がないので分からない。日本公演では小編成にしてエキストラを入れるのだろうか?キリル・ペトレンコ指揮でかなり早いテムポで進むことは予想される。
前回の2011年10月の公演は、四分の一のメンバーが日本旅行を拒否したことで話題になっていた。そのことをネットで見て思い出した。「二度と来てもらいたくない」と言うのもあり、こちらからすれば当然の判断であったので完全に忘れていたが、やられた方は覚えているのかもしれない。今でも自分自身は不要不急の関東圏への旅行は見合わせた方が良いと考えているが、場所を選び食事などに注意することで、決して引き留めはしない。ヨーナス・カウフマンに代わって「ローエングリーン」を歌ったのは先日恐らくガンで死亡したヨハン・ボータだったのも初めて知った。管弦楽団もエキストラが多かったということでケント指揮の評判もあまり良くなかったようだ ― そもそもヴァークナーの演奏解釈は嘆かわしい。
それにしても成功するかどうかも分からない制作を態々東京まで運んでいくのは余程のことである。その前に六回だけ演奏しているが、11月ということは10月にも12月にも再演しないということなのだろうか。それならばその期間こちらでは何があるのだろうか?最も気になるところである。
バイロイト音楽祭での2014年7月30日の「ジークフリート」を繰り返し聞いている。よくもここまでうまく嵌まったなと思う。今後もこれだけの音楽は体験出来ないだろう。指揮者自身もこれだけ荒れた演奏は、今後は条件が揃い過ぎるので、難しくなるに違いない。演奏上の傷も少なくないのだが、何度繰り返しても心臓に堪える。荒れた音質や音響がここぞというときに決まっているのである。2015年になれば綺麗に整えられてしまっている面と、ここまでの集中力が無く、寧ろ粗が目立ったのは事実である。この日の演奏は、こうして録音を繰り返し聞いてみても、歴史的なヴァークナー演奏で、キリル・ペトレンコ指揮のエポック的な演奏だったと記録されよう。よって、バイエルンでは半神になったと言われたのである。兎に角、10分おきぐらいに胸がパクパクしてしまう ― 決して当日の注意書きのように劇の中での「カラシコフの銃声」が心臓に堪えるのではないのだ。しかし恐らくそのエピソードが、舞台にも奈落にも同じように前後だけでなくて全体に亘って影響を与えていたと想像する。
ドナウエッシンゲン音楽祭に関して、「スイスのベックメサー」ことニフラー氏が批評記事を書いている。やはり、合弁後初の管弦楽団には昨年までの冴えは無かったようで、どぎまぎしている楽員も混じっていて、如何せんシュトッツガルトの放送交響楽団の凡庸さを示したようだ。先数年はなかなか落ち着かないという予想をしている。特徴を持たない管弦楽団はまた何時何時消滅するかもどうかも分からない。先日購入した、ミヒャエル・ギーレン指揮の消滅したフライブルク・バーデンバーデンの交響楽団が演奏したCDを流している。やはり通常の管弦楽団作品では聞き劣りしてしまう。なるほど後任のカンブルラン指揮のCDは立派に響いているが、そのような感じでは存在価値があまりなかったということだろう。初演リストからしても歴史的に20世紀後半を代表する管弦楽団となることは間違いないのだが、21世紀に入って消滅してしまって、そうした音楽文化が継承されないというのもそのエポックを表しているのかもしれない。
参照:
溶解したアンナのドタキャン 2011-06-04 | 女
放射性塵で胸一杯! 2011-11-13 | マスメディア批評
情報の隠蔽も未必の故意 2011-07-01 | マスメディア批評
つまらない音楽家たち 2016-07-01 | 文化一般
前回の2011年10月の公演は、四分の一のメンバーが日本旅行を拒否したことで話題になっていた。そのことをネットで見て思い出した。「二度と来てもらいたくない」と言うのもあり、こちらからすれば当然の判断であったので完全に忘れていたが、やられた方は覚えているのかもしれない。今でも自分自身は不要不急の関東圏への旅行は見合わせた方が良いと考えているが、場所を選び食事などに注意することで、決して引き留めはしない。ヨーナス・カウフマンに代わって「ローエングリーン」を歌ったのは先日恐らくガンで死亡したヨハン・ボータだったのも初めて知った。管弦楽団もエキストラが多かったということでケント指揮の評判もあまり良くなかったようだ ― そもそもヴァークナーの演奏解釈は嘆かわしい。
それにしても成功するかどうかも分からない制作を態々東京まで運んでいくのは余程のことである。その前に六回だけ演奏しているが、11月ということは10月にも12月にも再演しないということなのだろうか。それならばその期間こちらでは何があるのだろうか?最も気になるところである。
バイロイト音楽祭での2014年7月30日の「ジークフリート」を繰り返し聞いている。よくもここまでうまく嵌まったなと思う。今後もこれだけの音楽は体験出来ないだろう。指揮者自身もこれだけ荒れた演奏は、今後は条件が揃い過ぎるので、難しくなるに違いない。演奏上の傷も少なくないのだが、何度繰り返しても心臓に堪える。荒れた音質や音響がここぞというときに決まっているのである。2015年になれば綺麗に整えられてしまっている面と、ここまでの集中力が無く、寧ろ粗が目立ったのは事実である。この日の演奏は、こうして録音を繰り返し聞いてみても、歴史的なヴァークナー演奏で、キリル・ペトレンコ指揮のエポック的な演奏だったと記録されよう。よって、バイエルンでは半神になったと言われたのである。兎に角、10分おきぐらいに胸がパクパクしてしまう ― 決して当日の注意書きのように劇の中での「カラシコフの銃声」が心臓に堪えるのではないのだ。しかし恐らくそのエピソードが、舞台にも奈落にも同じように前後だけでなくて全体に亘って影響を与えていたと想像する。
ドナウエッシンゲン音楽祭に関して、「スイスのベックメサー」ことニフラー氏が批評記事を書いている。やはり、合弁後初の管弦楽団には昨年までの冴えは無かったようで、どぎまぎしている楽員も混じっていて、如何せんシュトッツガルトの放送交響楽団の凡庸さを示したようだ。先数年はなかなか落ち着かないという予想をしている。特徴を持たない管弦楽団はまた何時何時消滅するかもどうかも分からない。先日購入した、ミヒャエル・ギーレン指揮の消滅したフライブルク・バーデンバーデンの交響楽団が演奏したCDを流している。やはり通常の管弦楽団作品では聞き劣りしてしまう。なるほど後任のカンブルラン指揮のCDは立派に響いているが、そのような感じでは存在価値があまりなかったということだろう。初演リストからしても歴史的に20世紀後半を代表する管弦楽団となることは間違いないのだが、21世紀に入って消滅してしまって、そうした音楽文化が継承されないというのもそのエポックを表しているのかもしれない。
参照:
溶解したアンナのドタキャン 2011-06-04 | 女
放射性塵で胸一杯! 2011-11-13 | マスメディア批評
情報の隠蔽も未必の故意 2011-07-01 | マスメディア批評
つまらない音楽家たち 2016-07-01 | 文化一般