(承前)ブルックナー交響曲の版にまでは話は及ばない。しかし三楽章のスケルツォでどうしても、今回は演奏会前半に演奏された変ホ長調のそれを思い起こしてしまうのは仕方がない。ひき続けて交響曲演奏会などに出かけると、どうしても古典派から後期ロマン派と呼ばれる交響曲までの大きな流れの中でしか一つ一つの創作を認識出来なくなってくる。交響曲という形式の宿命であり、それ故にこうした古典的な演奏会形式というものが200年以上の長い期間催されていることの根拠でもある。
抽象的な表現の為には自ずから形式が存在しないことには、創作自体が自己完結することもあり得ないのだろうが、管弦楽団という同じ楽器を使って演奏されることで更にその形式の枠組みが定まって来るということだろう。四分の三拍子であり、三部形式であり、ソナタ形式であり、それが形骸化しても腐っても鯛なのかもしれない。
今回のブルックナー交響曲四番の演奏はやはりヴィーナーホルンに否応なく耳を傾けることになるのはそのホルン主題からして致し方ない ― そして初めて補強のホルンが第二ホルン者とソロホルン奏者を囲むようにして、テューバの横に座ることを知った*。前回この曲を聴いたのはサイモン・ラトル指揮ベルリナーフィルハーモニカ―の演奏だったが、流石にピッチの高いヴィーンの響きは華やかで、ベルリンの抑制の効いた音響とは対照的で ― ラトルはマーラーよりもブルックナー向きのデジタルに媒体する指揮者だと思うが ―、作曲家は本当にこんなに派手な音響のバロックオルガンのようなものを想像していたのかと思った。調性の関係もあるかもしれないが、前回八番ハ短調をメータ指揮で聞いたときは感じなかったのはなぜだろうか?
ブロムシュテットの指揮はここでもとてもリズミカルな軽やかな足運びで驚愕するしかない。あのよれよれリズムのヴィーナーフィルハーモニカ―がこれ程軽やかなリズムを刻むのを聞いたことが無い。2013年に85歳でヴィーナーフィルハーモニカ―定期公演デビューというが、オペラ指揮者でないからヴィーンに呼ばれることも少なかったのだろう。
当夜は七割ぐらいの入りだったので、前半に目星をつけておいて、二階正面バルコンの前から数列目の真ん中近くに座ってみた。左右は分かっているが真ん中は初めてだった。ブルックナーの場合には想定通りその音響効果は大きく、テューバとトロンボーンを挟んで右にトラムペット、左にホルンの掛け合いはステレオ効果満載で、作曲家はどこまで意図したのだろうかと感じさせる。勿論右奥のヴィオラの旋律が圧倒的で、これも管などとの合いの手がとても効果満点に聞こえる。
さて、今回演奏された1878/1880年版と呼ばれるファクシミリ整理番号19476はハース版として手元に東独ブライトコップ社のものと同一である。しかし細かく見ると二楽章の強弱などは手書きには今回演奏されたように書かれているようだ。指揮者ブロムシュテットはファクシミリを参考にしているのか新しい校訂版を参考にしているのかは分からないが、可成り調べて正確に演奏しているのは間違いない。リズムをはっきり明確に切っていて、16分音符のスピカートが動機を刻むようにつけられていて、ブルックナー動機のゴリゴリした動機の形状が音化されている ― まことに残念ながらブルックナーを得意としたカラヤン指揮ではリズムが暈けてしまって全くそのようになっていない。当然のことながら弱拍に付けられたアクセントなどがとても活きる。
そのように主旋律と対旋律や動機などの組み合わせがとても上手く噛み合っていて、これが座付き管弦楽団の演奏であったことを忘れさせて見事というしかない。当然ながらスケルツォの躍動感も驚くほどで、同時にテュッティーでもギュンター・ヴァント指揮のように音像が野放図に解放されてしまうことが無くコントロールが効いていて多声の造形が崩れない。気になっていたルバート気味にトュッティに移行する傾向はブルックナーの場合は殆んど全休止の意味と同じように使われているような感じで上手く嵌まっていた。
そのような指揮のお陰で ― 真ん中の席のお陰だけでなく ― ブルックナーの交響曲における声部間の掛け合いや合わせ方がとてもよく分かる演奏だった。一般的な評価のように必ずしもブルックナーの管弦楽書法が不器用なだけとは言い切れず、ヴィオラの中声部の活かし方やファゴットなどの残留音などなるほどと思わせた。
そして、最終楽章のフィナーレコーダに至るのだが、これが如何にも後年の曲に比較するとストンと終わるのは良いが物足りなさを感じることになる。それでも、前記した金管楽器の掛け合いなどはとても「見応え」のあるものだった。このコーダーを含めて全体的にこの版の形でそれなりの均衡は保っているというのがこの版に関する感想で、これ以上制御の効いたシックな演奏となると前回のラトル指揮ベルリナーフィルハーモニーの求心的な響きしか対抗できないと思った。
最後に付け加えておかないといけないのは、当日の会場は今まで見たことが無いほど押し車などの補助無しに動けない爺婆たちが来ていたことだろう。売れ残りがあったので、身障者に券を配ったかどうかは分からない。しかし少なくとも90歳になろうとする同年輩の爺さんの指揮姿が健康への動機づけになることは間違いなく、この指揮者には新たなファン層が開拓されるのを感じた。秋にはゲヴァントハウス管弦楽団とのブルックナーの第七交響曲が楽しみで、出来ればまたヴィーナーフィルハーモニカ―でも聞いてみたい。(終わり)
Wiener Philharmoniker - Andreas Großbauer - Digitale Rose
参照:
ブルックナー交響楽の真意 2017-05-08 | 音
聖金曜日のブルックナー素読 2017-04-15 | 暦
モーツァルト:交響曲第25番/バーンスタイン=WPh (Zauberfloete 通信)*
抽象的な表現の為には自ずから形式が存在しないことには、創作自体が自己完結することもあり得ないのだろうが、管弦楽団という同じ楽器を使って演奏されることで更にその形式の枠組みが定まって来るということだろう。四分の三拍子であり、三部形式であり、ソナタ形式であり、それが形骸化しても腐っても鯛なのかもしれない。
今回のブルックナー交響曲四番の演奏はやはりヴィーナーホルンに否応なく耳を傾けることになるのはそのホルン主題からして致し方ない ― そして初めて補強のホルンが第二ホルン者とソロホルン奏者を囲むようにして、テューバの横に座ることを知った*。前回この曲を聴いたのはサイモン・ラトル指揮ベルリナーフィルハーモニカ―の演奏だったが、流石にピッチの高いヴィーンの響きは華やかで、ベルリンの抑制の効いた音響とは対照的で ― ラトルはマーラーよりもブルックナー向きのデジタルに媒体する指揮者だと思うが ―、作曲家は本当にこんなに派手な音響のバロックオルガンのようなものを想像していたのかと思った。調性の関係もあるかもしれないが、前回八番ハ短調をメータ指揮で聞いたときは感じなかったのはなぜだろうか?
ブロムシュテットの指揮はここでもとてもリズミカルな軽やかな足運びで驚愕するしかない。あのよれよれリズムのヴィーナーフィルハーモニカ―がこれ程軽やかなリズムを刻むのを聞いたことが無い。2013年に85歳でヴィーナーフィルハーモニカ―定期公演デビューというが、オペラ指揮者でないからヴィーンに呼ばれることも少なかったのだろう。
当夜は七割ぐらいの入りだったので、前半に目星をつけておいて、二階正面バルコンの前から数列目の真ん中近くに座ってみた。左右は分かっているが真ん中は初めてだった。ブルックナーの場合には想定通りその音響効果は大きく、テューバとトロンボーンを挟んで右にトラムペット、左にホルンの掛け合いはステレオ効果満載で、作曲家はどこまで意図したのだろうかと感じさせる。勿論右奥のヴィオラの旋律が圧倒的で、これも管などとの合いの手がとても効果満点に聞こえる。
さて、今回演奏された1878/1880年版と呼ばれるファクシミリ整理番号19476はハース版として手元に東独ブライトコップ社のものと同一である。しかし細かく見ると二楽章の強弱などは手書きには今回演奏されたように書かれているようだ。指揮者ブロムシュテットはファクシミリを参考にしているのか新しい校訂版を参考にしているのかは分からないが、可成り調べて正確に演奏しているのは間違いない。リズムをはっきり明確に切っていて、16分音符のスピカートが動機を刻むようにつけられていて、ブルックナー動機のゴリゴリした動機の形状が音化されている ― まことに残念ながらブルックナーを得意としたカラヤン指揮ではリズムが暈けてしまって全くそのようになっていない。当然のことながら弱拍に付けられたアクセントなどがとても活きる。
そのように主旋律と対旋律や動機などの組み合わせがとても上手く噛み合っていて、これが座付き管弦楽団の演奏であったことを忘れさせて見事というしかない。当然ながらスケルツォの躍動感も驚くほどで、同時にテュッティーでもギュンター・ヴァント指揮のように音像が野放図に解放されてしまうことが無くコントロールが効いていて多声の造形が崩れない。気になっていたルバート気味にトュッティに移行する傾向はブルックナーの場合は殆んど全休止の意味と同じように使われているような感じで上手く嵌まっていた。
そのような指揮のお陰で ― 真ん中の席のお陰だけでなく ― ブルックナーの交響曲における声部間の掛け合いや合わせ方がとてもよく分かる演奏だった。一般的な評価のように必ずしもブルックナーの管弦楽書法が不器用なだけとは言い切れず、ヴィオラの中声部の活かし方やファゴットなどの残留音などなるほどと思わせた。
そして、最終楽章のフィナーレコーダに至るのだが、これが如何にも後年の曲に比較するとストンと終わるのは良いが物足りなさを感じることになる。それでも、前記した金管楽器の掛け合いなどはとても「見応え」のあるものだった。このコーダーを含めて全体的にこの版の形でそれなりの均衡は保っているというのがこの版に関する感想で、これ以上制御の効いたシックな演奏となると前回のラトル指揮ベルリナーフィルハーモニーの求心的な響きしか対抗できないと思った。
最後に付け加えておかないといけないのは、当日の会場は今まで見たことが無いほど押し車などの補助無しに動けない爺婆たちが来ていたことだろう。売れ残りがあったので、身障者に券を配ったかどうかは分からない。しかし少なくとも90歳になろうとする同年輩の爺さんの指揮姿が健康への動機づけになることは間違いなく、この指揮者には新たなファン層が開拓されるのを感じた。秋にはゲヴァントハウス管弦楽団とのブルックナーの第七交響曲が楽しみで、出来ればまたヴィーナーフィルハーモニカ―でも聞いてみたい。(終わり)
Wiener Philharmoniker - Andreas Großbauer - Digitale Rose
参照:
ブルックナー交響楽の真意 2017-05-08 | 音
聖金曜日のブルックナー素読 2017-04-15 | 暦
モーツァルト:交響曲第25番/バーンスタイン=WPh (Zauberfloete 通信)*