(承前)「タンホイザー」新制作のミュンヘンからの中継を聞いた。前番組で中継事故があったので心配になっていたが、一幕は数十分ごとに二分間ほど中断された。冒頭から数回の中断と放送事故を防ぐためのテープが流れた。そのようなことで二幕、三幕も危ぶまれた。このようなことになるぐらいならば初日を良い席で聞けばよかったとも思った。しかし幸いなことに二幕、三幕は完全に中継障害が無くなって完璧な放送が楽しめた。あれだけの音ならば平土間の良い席と変わらないだろう。
仕方なく一幕はMP3程度のものを二週間ほどダウンロードできるもので補った。だから全体を真面な音響では充分に聞けていない。それでも二幕のフィナーレを聞けば、なるほどいつものように初日では完璧な演奏は不可能だが、上手くいけば初演150年以上経過して初めて「ヴァークナーの心残り」が晴れるかもしれないと感じた。
書いたように一幕を細かく聴いていないので、音楽的な成果に関しては実際に劇場で聞いてみて判断したいが、少なくとも版に関してはこれ程すっきりした解決法は無いと思わせた。一部管弦楽法上の修正はありそうだが、ダウンロードした楽譜からは、今回の演奏のように、なぜ今まで演奏されなかったが理解できないほど、しっくりと決まっている。大きな挿入部分は所謂パリ版と呼ばれるヴィーン版にゼンガークリークでのヴァルターの歌を加える1861年版部分が採用されている。
なぜこの引用がしっくりくるかといえば、所謂劇中音楽のようにあの「マイスタージンガー」のように吟遊詩人風のパロディーであるからそもそも後期のヴィーン版での修正とは関係が無い。歌手の負担などの実際的なことでの短縮と語られているが実際にそうなのかどうかはもう少し調べてみないと分からない。しかし今回の解決法は今後一つの模範になるだろう。それは叙唱風の箇所でも上手に管弦楽をつけていてその後の作風のように違和感が無くなっていたからである。
初日の歌について触れておくと、ハルテロスの歌は情熱にあふれて充分にドラマティックであったが、この歌手のいつものようにリズムが綺麗に取れていないので充分なヴァークナーになっていなかった ― ティーレマン指揮のジークリンデでは目立たないのはそもそもしっかりしたリズムが打たれていないからだ。恐らく苦労してドイツ語も上手に喋り、開演前にホールで生放送に出場するなどの努力は天晴だが、ドイツ語アーティキュレーションを最優先にするばかりにリズムが確り出ていない。外国人の悲哀さえ感じさせるのは、ゲルハーエルが見事にリズムを固持しながらも自由自在にドイツ語のアーティキュレーションを歌い切るのとは対照的だからである。
そのヴォルフラムの歌は二幕でも三幕でもピカイチで、この新演出シリーズの歌でのハイライトであることは間違いない。ゲルハーエルのために作曲されたようだという声が聞かれるが、見事というしかなく、遅いテムポをとっても律動が崩れないペトレンコ指揮と相まって歌の頂点だろう。
タイトルロールのフォークトも予想以上にリリックな声だったが、この場違いのようなタンホイザー役をとてもよくこなしているようで、演技と共に実演で楽しみである。その他、マイスタージンガー再演でポグナーを歌ったツェッペンフェルトのバスも最低音で厳しかったが立派に歌っていた。パンドラトーヴァ共々何回か歌っていくうちに可成りはまり役になりそうだ。
総合すると、ゲルハーエルは欠かせないが、エリザベートは替えが利く配役である。東京では二人とも出ないので、前者の飛車落ちだけで済むだろうか。しかし圧倒的なのは合唱団で、今まで決して悪くはなくても圧倒的な成果を示したことが無かったが今回はベルリンの録音に比べるまでもなく最高級の合唱だった。
終演後のブーイングが激しかったカステロッチの演出に関してはバイエルン放送では評価しており、恐らく理解が高まって評価が高まっていく可能性はありそうだ。これも実演を体験してからコメントしたい。
参照:
1861年版のドイツ語上演とは 2017-05-16 | 文化一般
愈々初日のタンホイザー 2017-05-21 | 文化一般
仕方なく一幕はMP3程度のものを二週間ほどダウンロードできるもので補った。だから全体を真面な音響では充分に聞けていない。それでも二幕のフィナーレを聞けば、なるほどいつものように初日では完璧な演奏は不可能だが、上手くいけば初演150年以上経過して初めて「ヴァークナーの心残り」が晴れるかもしれないと感じた。
書いたように一幕を細かく聴いていないので、音楽的な成果に関しては実際に劇場で聞いてみて判断したいが、少なくとも版に関してはこれ程すっきりした解決法は無いと思わせた。一部管弦楽法上の修正はありそうだが、ダウンロードした楽譜からは、今回の演奏のように、なぜ今まで演奏されなかったが理解できないほど、しっくりと決まっている。大きな挿入部分は所謂パリ版と呼ばれるヴィーン版にゼンガークリークでのヴァルターの歌を加える1861年版部分が採用されている。
なぜこの引用がしっくりくるかといえば、所謂劇中音楽のようにあの「マイスタージンガー」のように吟遊詩人風のパロディーであるからそもそも後期のヴィーン版での修正とは関係が無い。歌手の負担などの実際的なことでの短縮と語られているが実際にそうなのかどうかはもう少し調べてみないと分からない。しかし今回の解決法は今後一つの模範になるだろう。それは叙唱風の箇所でも上手に管弦楽をつけていてその後の作風のように違和感が無くなっていたからである。
初日の歌について触れておくと、ハルテロスの歌は情熱にあふれて充分にドラマティックであったが、この歌手のいつものようにリズムが綺麗に取れていないので充分なヴァークナーになっていなかった ― ティーレマン指揮のジークリンデでは目立たないのはそもそもしっかりしたリズムが打たれていないからだ。恐らく苦労してドイツ語も上手に喋り、開演前にホールで生放送に出場するなどの努力は天晴だが、ドイツ語アーティキュレーションを最優先にするばかりにリズムが確り出ていない。外国人の悲哀さえ感じさせるのは、ゲルハーエルが見事にリズムを固持しながらも自由自在にドイツ語のアーティキュレーションを歌い切るのとは対照的だからである。
そのヴォルフラムの歌は二幕でも三幕でもピカイチで、この新演出シリーズの歌でのハイライトであることは間違いない。ゲルハーエルのために作曲されたようだという声が聞かれるが、見事というしかなく、遅いテムポをとっても律動が崩れないペトレンコ指揮と相まって歌の頂点だろう。
タイトルロールのフォークトも予想以上にリリックな声だったが、この場違いのようなタンホイザー役をとてもよくこなしているようで、演技と共に実演で楽しみである。その他、マイスタージンガー再演でポグナーを歌ったツェッペンフェルトのバスも最低音で厳しかったが立派に歌っていた。パンドラトーヴァ共々何回か歌っていくうちに可成りはまり役になりそうだ。
総合すると、ゲルハーエルは欠かせないが、エリザベートは替えが利く配役である。東京では二人とも出ないので、前者の飛車落ちだけで済むだろうか。しかし圧倒的なのは合唱団で、今まで決して悪くはなくても圧倒的な成果を示したことが無かったが今回はベルリンの録音に比べるまでもなく最高級の合唱だった。
終演後のブーイングが激しかったカステロッチの演出に関してはバイエルン放送では評価しており、恐らく理解が高まって評価が高まっていく可能性はありそうだ。これも実演を体験してからコメントしたい。
参照:
1861年版のドイツ語上演とは 2017-05-16 | 文化一般
愈々初日のタンホイザー 2017-05-21 | 文化一般