Wein, Weib und Gesang

ワイン、女 そして歌、此れを愛しまない輩は、一生涯馬鹿者であり続ける。マルティン・ルター(1483-1546)

「白鳥の歌」は常動曲の主旨

2017-05-11 | 
承前)ブルックナーの交響曲の前にモーツァルトの交響曲を置いたプログラムであった。90歳になる指揮者ブロムシュテットは、この組み合わせで方々で客演しているようだ。来シーズンもベルリンで同様なコンサートを行うようである。秋にも生誕九十歳記念として、極東ツアーの前に、欧州ツアーの一環としてバーデン・バーデンにもゲヴァントハウス管弦楽団と演奏するが、その時はメンデルスゾーンの協奏曲とブルックナーとなっている。九十歳記念に世界旅行をするというのは聞いたことがあるが、30日ほどの間に各地で20回ほどの演奏会を指揮するなどは聞いたことが無い。

そのモーツァルトの交響曲の演奏自体がとても生半可なものではなかった。ラディオ中継でも聞いたように何よりも細部まで目が行き届いた指揮を心掛けていて、それをヴィーナフィルハーモニカ―も無視できない形にはなっていた。その39番変ホ長調の妙は、天才作曲家モーツァルトのセンスの良い、細やかな筆使いにあると思う。そうした細かな筆入れとか、その前後の楽章を睨んで記譜している時の細かな動機の扱いやアクセントやフレージングの妙が感じられるときに、私たちはこの天才作曲家の実体に初めて触れる気持ちがするのである。

モーツァルトの「白鳥の歌」と呼ばれるこの交響曲を読み込む文字通り暗譜する90歳になろうとする指揮者にとっては、当然のことながらそうした芸術的な動機付けが無し通常の管弦楽団レパートリーとしての演奏会など出来る筈がない。そうした隅々に亘る配慮がなされていた。なによりもスケルツォなどでもテムポがしっかりと弾むのが素晴らしく、その指揮ぶりを見ている限り二十歳代の指揮者でもこれ程生き生きしたリズムを刻めるだろうかと思わせる。

更に立派なのは終楽章の繰り返しが確りと常動曲になっていたことである。全ての繰り返しを行っているのはもとより、スケルツォのリズムに続いてこうして終楽章の最後で元に戻ることで初めて納得させられるものは可成りこの曲の本質である。因みに模範的な演奏であるカール・ベーム博士の演奏は常動曲にもなっておらず、スケルツォは固いリズムで遅い。勿論キリル・ペトレンコのモーツァルトのように表情がついたジョージ・セル指揮と比べても遥かに純音楽的であるのは言うまでもない。

「白鳥の歌」と呼ばれて室内楽版などが19世紀にはとても売れていたようだが、この常動曲にはチャイコフスキーの五番の終楽章や悲愴交響曲の三楽章に匹敵するぐらいの終結感とその続きの関係が感じられる。常動曲の主旨は、チャイコフスキーの「白鳥の歌」とは異なるが、「フォアエヴァー」効果である。

先日ツィッターを見ていて、「進歩などはない」という安易な反進歩主義観が引用されていたが、なるほど啓蒙思想花盛りの19世紀的な、音楽で言えば「魔笛」の、「今日よりも明日の自己の方が啓蒙されて居る」という進歩はないかもしれない。しかし、例えば2013年のミュンヘンでの「影の無い女」新演出上演の「明日が今日より良くなるかどうかは分からないが」少なくとも不可逆な時間軸に沿って「前へと一歩進みでている」ことには間違いないのである。

もしそうした不可逆の時間軸を無視するとすれば少なくとも上の常動性などは意味を持たなく、そもそも音楽などは芸術でもなんでもなくなってしまうことだけは間違いない。(続く



参照:
鼓動を感じるネオロココ趣味 2017-04-10 | 音
天才の白鳥の歌と呼ばれた交響曲 2017-04-29 | 音
感動したメーデーの女の影 2017-05-03 | 文化一般
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