(承前)何回目になるのだろうか、ミュンヘン詣では。今回ほど昂ぶりを感じたことはない。不思議なほどである。今までも色々と期待に胸を膨らませたり、道中でも本当に数時間後に体験するのだろかと不思議な気持ちになることはあったが、今回のような昂ぶりは無かった。
その音楽からベートーヴェンの内声がそれも赤裸々なものが聞こえてたじろぐ、そもそも中期の楽聖の音楽には珍しいことである。小澤征爾ではないがオペラにはとても捨てきれない音楽があってというのは、ここではこれほど楽聖を身近に感じる音楽がないということになる。
しかし冷静に考えれば、オペラにおける表現という、特にこの作品への批判に還ることになる。二幕の一場のフォロレスタンのアリアからしてもはやオペラ表現ではない。ヴァークナーでさえもこんなものは書いていない。これほどの心理をどのように表現して舞台にのせるか。既に触れたようにその心理をどのように解釈するか?意外なことに啓蒙思想とこの「フィデリオ」に関する論文は簡単に見つからない。ヴィーンでの公演での批評にその視点からのものがあったぐらいだ。
二場でロッコとレオノーレが地下に下りて来るときも二人の歌は殆ど違う世界に居る。アリアともデュエットとも謂いかねるもので、楽聖の主観と舞台における客観的な視点というものが交差する。因みに、手元にあったフォンドナーニ指揮のDECCAの録音を聞くと、中々細やかなニュアンスに富んでいてベーム指揮で声楽と管弦楽の出入りが多いところがとてもいいバランスで鳴っている。勿論この両者のバランスは言い換えると主観と客観ともなる。要するにこちら側の視点がどこにあるかということだ。それが顕著になるのは、フロレスタンを加えた三重唱であり、悪代官ドンピッツァロが登場してからの活劇、そして四場の「水戸黄門の印籠」が五場の再会した夫婦のデュエットを通して勧善懲悪のフィナーレへと流れ込む。
芝居的にはここら辺りでガラッと趣が変わってくるのだが、このことをMeToo指揮者のガッティが新制作に際して上手に語っている。そしてそのことが今回の再演舞台の演出のコンセプトとなっている。それによると一幕の各々はフィックスイデーに凝り固まった抜け道のない迷路であり、二幕になって徐々に解きほどかれていくという筋道である。例えば今回もフロレスタンを歌うヨーナス・カウフマンは、一場のそれが殆ど幻覚なのかどうか分からないと語る。そしてレオノーレ役のカムペが、「器楽的に書かれていて、彼!がどこまで声を考えていたのかどうか」というようにまさしく楽聖のその凝り固まり方がこの創作だ。
私の昂ぶりというのはそこにあって、交響曲や四重奏曲、器楽曲では感じない、とてもベートーヴェン的な固執そこからの解放というのがこの演出ということにもなる。しかしそのヴィデオなどではとんでもなく下らない演出制作で、あれだけの歌手を集め乍おぼろげな記憶によれば全く成功しなかった制作だと思う。その指揮がとてつもなく悪い。そして今回は全く異なる音楽になる。更に推測すると前半の固執はとんでもないところまで行きかねない。しかしあの舞台の動きを見ると自ずとそれにも限界があると思う。そして二幕の最初からカウフマンの歌は当時とは全く異なる歌唱になると確信する。カムペの歌においてもそうで、迷宮から解き放たれるとは何か?そのように考えるとこの演出でも創作の本質的な音楽に迫れると信じている。
Trailer FIDELIO at the Bavarian State Opera
まさしく私の昂ぶりというのが、迷宮入りしそうな脳にあり、殆ど「杉良さんから目線を貰った」、「私のために愛の指揮をしている」というような境地に至るもので、実際ルクセムブルク、ハムブルクと回ってそのペトレンコの指揮振りを見て、更にこの一連のべ-ト―ヴェンへの視座、更に今後メンデルスゾーンを取り上げるという姿勢に、思い込み以上の固定観念に囚われるだけの状況がある。
音楽的にどこまで詰めて来れるかは分からない。しかし、意外にこの演出が邪魔にならない可能性もある。理由は言及したように、「イデオロギー化へのアンチテーゼ」となっていることゆえにキリル・ペトレンコの演奏実践に安定した枠組みを与える可能性もあるからだ。昨年日本で議論となったカタリーナ演出はアンチイデオロギー若しくは「啓蒙の弁証法」を受けた左翼イデオロギー演出への「いちゃもんつけ」のポストモダーン的ポピュリズムで、つまりただの無批判的アレルギー反応でしかなかった。そうした白痴演出と今回再演される演出との差は如何に?
参照:
一級のオペラ指揮者の仕事 2019-01-14 | 音
そのものと見かけの緊張 2018-06-19 | 女
美しい世界のようなもの 2016-03-28 | 音
その音楽からベートーヴェンの内声がそれも赤裸々なものが聞こえてたじろぐ、そもそも中期の楽聖の音楽には珍しいことである。小澤征爾ではないがオペラにはとても捨てきれない音楽があってというのは、ここではこれほど楽聖を身近に感じる音楽がないということになる。
しかし冷静に考えれば、オペラにおける表現という、特にこの作品への批判に還ることになる。二幕の一場のフォロレスタンのアリアからしてもはやオペラ表現ではない。ヴァークナーでさえもこんなものは書いていない。これほどの心理をどのように表現して舞台にのせるか。既に触れたようにその心理をどのように解釈するか?意外なことに啓蒙思想とこの「フィデリオ」に関する論文は簡単に見つからない。ヴィーンでの公演での批評にその視点からのものがあったぐらいだ。
二場でロッコとレオノーレが地下に下りて来るときも二人の歌は殆ど違う世界に居る。アリアともデュエットとも謂いかねるもので、楽聖の主観と舞台における客観的な視点というものが交差する。因みに、手元にあったフォンドナーニ指揮のDECCAの録音を聞くと、中々細やかなニュアンスに富んでいてベーム指揮で声楽と管弦楽の出入りが多いところがとてもいいバランスで鳴っている。勿論この両者のバランスは言い換えると主観と客観ともなる。要するにこちら側の視点がどこにあるかということだ。それが顕著になるのは、フロレスタンを加えた三重唱であり、悪代官ドンピッツァロが登場してからの活劇、そして四場の「水戸黄門の印籠」が五場の再会した夫婦のデュエットを通して勧善懲悪のフィナーレへと流れ込む。
芝居的にはここら辺りでガラッと趣が変わってくるのだが、このことをMeToo指揮者のガッティが新制作に際して上手に語っている。そしてそのことが今回の再演舞台の演出のコンセプトとなっている。それによると一幕の各々はフィックスイデーに凝り固まった抜け道のない迷路であり、二幕になって徐々に解きほどかれていくという筋道である。例えば今回もフロレスタンを歌うヨーナス・カウフマンは、一場のそれが殆ど幻覚なのかどうか分からないと語る。そしてレオノーレ役のカムペが、「器楽的に書かれていて、彼!がどこまで声を考えていたのかどうか」というようにまさしく楽聖のその凝り固まり方がこの創作だ。
私の昂ぶりというのはそこにあって、交響曲や四重奏曲、器楽曲では感じない、とてもベートーヴェン的な固執そこからの解放というのがこの演出ということにもなる。しかしそのヴィデオなどではとんでもなく下らない演出制作で、あれだけの歌手を集め乍おぼろげな記憶によれば全く成功しなかった制作だと思う。その指揮がとてつもなく悪い。そして今回は全く異なる音楽になる。更に推測すると前半の固執はとんでもないところまで行きかねない。しかしあの舞台の動きを見ると自ずとそれにも限界があると思う。そして二幕の最初からカウフマンの歌は当時とは全く異なる歌唱になると確信する。カムペの歌においてもそうで、迷宮から解き放たれるとは何か?そのように考えるとこの演出でも創作の本質的な音楽に迫れると信じている。
Trailer FIDELIO at the Bavarian State Opera
まさしく私の昂ぶりというのが、迷宮入りしそうな脳にあり、殆ど「杉良さんから目線を貰った」、「私のために愛の指揮をしている」というような境地に至るもので、実際ルクセムブルク、ハムブルクと回ってそのペトレンコの指揮振りを見て、更にこの一連のべ-ト―ヴェンへの視座、更に今後メンデルスゾーンを取り上げるという姿勢に、思い込み以上の固定観念に囚われるだけの状況がある。
音楽的にどこまで詰めて来れるかは分からない。しかし、意外にこの演出が邪魔にならない可能性もある。理由は言及したように、「イデオロギー化へのアンチテーゼ」となっていることゆえにキリル・ペトレンコの演奏実践に安定した枠組みを与える可能性もあるからだ。昨年日本で議論となったカタリーナ演出はアンチイデオロギー若しくは「啓蒙の弁証法」を受けた左翼イデオロギー演出への「いちゃもんつけ」のポストモダーン的ポピュリズムで、つまりただの無批判的アレルギー反応でしかなかった。そうした白痴演出と今回再演される演出との差は如何に?
参照:
一級のオペラ指揮者の仕事 2019-01-14 | 音
そのものと見かけの緊張 2018-06-19 | 女
美しい世界のようなもの 2016-03-28 | 音