Wein, Weib und Gesang

ワイン、女 そして歌、此れを愛しまない輩は、一生涯馬鹿者であり続ける。マルティン・ルター(1483-1546)

週末に考えること

2019-01-26 | マスメディア批評
この週末は幾つか片付けないといけないことがある。先ずは来週末のミュンヘンからチューリッヒを繋ぐ途上のホテルをキャンセルすること、若しくは天候などを見て判断すること。また木曜日に劇場の食堂で忘れたマフラーの紛失を届けておくこと、また「ミサソレムニス」への準備を開始することなどである。また来週頭に会計士に依頼するメールなども整えておくこと。三月は余裕が出来るが、そこまでは流してしまわないと駄目だ。

金曜日に朝寝して森を走ったが、帰宅の車中のラディオがペトレンコのアシスタントを務めていて、今度シュトッツガルトにデビューする女流指揮者のインタヴューを流していた。「サウスポール」世界初演でアシスタントを務めていたというから、現在グラーツの監督をしているリニヴの後任のフランス人ジャコーである。女流ばかりになるのだが、コンサート活動もしていて、丁度現代の音楽もクラングフォーフムで振り慣れているらしく、世界初演には役に立つ助手だったのだろう。大体どの程度のアシスタントが選ばれたかは、彼女らのその後の経歴を見ればよく分かる。どこかで見た顔だと思えば昨年の座付管弦楽団のカーネギーホール初公演の時にも同行していて、プレプログラムなどを振っていた。

ペトレンコのアシスタントは、「全てが音楽に向けられていて、どこが良いのか駄目なのか、殆ど授業のような感じで、今でもその教えに感謝している」と話す。もともとトロンボーン奏者として楽団でも吹いていたようで、28歳の若さにしては経験豊富な感じである。力があれば直ぐにコンサート会場でも馴染みの顔になるかもしれない。

「フィデリオ」再演の批評が二種類出ている。再演としては話題だ。一つはDPAの通信社で流されたもので誰が書いているか分からない。内容は短く、簡潔としても報告を超えていて批評をしているのでなぜ匿名扱いのなるのだろう。もう一つは地元紙であり、その名前にも記憶がある。

このあまりにも厳密に行う指揮者が初めて指揮をするとなれば、十二分に考慮したと考えられるわけだが、それもこの特別な多面的な作品「フィデリオ」となればとなる。となると、この再演に当たって、特に性格的に特別でなく作品に向かうとすれば少し驚きとなるとして、レオノーレ三番が序曲におかれた導入においても、過剰に重く深刻になることなく軽妙さを失わずに、無重力なヴィヴァ―ツェと、彼のいつもの流れの早いテムポを保ったとなる。

絶えず弦を張りつめながら、管楽器の音色が輝き、「フィデリオ」のオペラ的な開始に見合う。しかしそれがこの作品の傷でもあり、喜劇的なその導入からの管弦楽の力強い叫びへと、ペトレンコの仮借なさはこの作品において限定的なあり方とされる。

また穴掘り強制の希望の無い場面からフィナーレへと暴力的にとげとげしく解放されるのではなく、ペトレンコの帰来の音楽性によって無理なく繋ぎ合わされたとしつつも、この断面が平坦化されたとも書く。

若いペアーの魅力的なミュラーとパワーを誉め、グロイスボックのベルカントのその総唱でも低音が浮かび立つほどの声はロッコ役には期待されないほどとして、ナズミの信頼置ける以上の歌と評価する。そして、カウフマンがセンセーショナルな声のコントロールで無からの不信の叫びへと歌い上げたとした。そうした最高度の歌で、パートナーのカムペの歌を望まざらず難しくして、声自体が高い領域で厳しそうなのを、賢明なフレージングと表現力豊かなセリフで部分的にのみ対抗するに至ったと書く。

コッホの不安定な低音でドンピッツァロを疲れた事務職にしてと、この再演の落ち着かない暗い要素を、声楽的にも管弦楽的にも軽くしたように思えたと、ジャーナリスト的な報告としている。恐らく当晩の公演からその満足度六点中五点を含めて、批評できることはざっとしているかと思う。詳しくは各々の読者に問うか、若しくは何回か続けて聞いてからで、早々に結論じみたことをいうというのは早急で、これぐらいが正しい纏め方だろうと思う。



参照:
飛ぶ鳥跡を濁さずの美 2019-01-25 | 音
やはりライヴに来て 2018-12-11 | 音
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする