カウントダウンにはリースリングのゼクトを開けた。とても辛口でとてもよかった。但し泡ものの怖さは喉越しでどんどん飲んでしまうことで、殆ど開けてしまった。元旦から朝寝したのも当然である。それ以前にフィラデルフィアからの放送を流していたものだから三時ごろまで音が流れていた。ネゼセガンがまたマイクを握って話していたことは覚えがあるのだが、後は記憶にない。録音を聞き返ししてみないと分からない。流石に皇帝円舞曲などはおかしなところはなかったがやはりピン惚けな感じだった。
年末のゼムパーオパーの「こうもり」は面白かった。技術的にはZDFのいつものショー番組の延長で、日本の紅白と変わらない。規模と技術力が異なるだけだ。だからマイクロフォンの設置の制限もあるが、結構オフになったりオンになったりの繋ぎも悪かった。何よりも司会の爺さんのデュモンはよしとしてもそれを慕う女の価値は全くなかった。あれぐらいならば局アナで十分でドレスデンにでもいくらでも人気者がいたと思うが、彼女には別の視聴者層を誘うパーソナルとして白羽の矢が立ったのだろうが、どうみてもそれほど人気があるようには思えない。とても程度が低かった。
しかし演奏はとても良かった。何よりもシュターツカペレの演奏は嵌っていて魅せた。同じ座付管弦楽団でもちょろと弾く捌きが堂にいっていて、ヴィーナーフィルハーモニカーよりもいいところが散見された。ベルリンも悪くないがあの色気は無い。ああした会場でいつもピットに入っているとあれが出来るようになるのだろう。ここ最近はティーレマン指揮でしかそれもコンサートしか聞く機会がなかったので改めてその本領に気が付いた。
そして指揮のメストが昔からすると経験を積んで自信を付けたのか見事に振っていた。それもヴィーナーでは曖昧にしかならないところがとても微妙に表現されていて、もう後任者はこの人しかいないと思わせた。ヴィーンよりもドレスデンでこそ活躍してもらいたい。ティーレマンとは年代が同じだがそのキャリアからしても一ランク以上違うとはいっても、あれぐらいの人が指揮すると全く管弦楽が変わる。この人がゼムパーオパーでやるようになったら是非出かけたいと思った。
特に感心したのはスター歌手たちがあのようなコンサート舞台でも場を作ることだった。カウフマンなどはオペラよりもああした興業がお得意だから当然と言えば当然なのかもしれないが、カメラに向かって合図をするところまでエンターティメントを極めている。あれぐらいの歌ならば、技術的に全く以って馬鹿にならないと言っていたが、なんら非難されることもなく簡単に稼げるのだ。逆に言うとあそこまで苦労してオペラで歌っても散々けなされるので、全く割に合わないのに偉いと思う。ペトレンコの第九でアルトを歌うクールマンの持ち歌にも大変満足した。あの人なら技術的以上に可成り詰めてこれるだろうと思う。ソプラノのペーターセンと女声二人の歌だけでもどうなることか。上限がないと思う。
コピー録画の音声を96kHzにしてみた。述べたようにZDFの仕事であるから如何にもレヴュ―のような録音なのだが、素晴らしい音楽を楽しめた。これと出払っている主のティーレマン指揮のノイヤースコンツェルトを比較するというこれまたこのプロジェクトの裏の意味があって、好き嫌いの問題ではなくて、その世界でのキャリアやポジションの差がどれほどの違いかを誰にでも分からせた。ティーレマンの指揮の音楽の躍動感とかそうしたものを求める人はいないのだろうが、指揮者が何をしなければいけないかということで明らかではなかったか。兎に角格が全然違う。なにも音楽が一流の技術で一流の趣味で演奏されなければいけない訳ではないが、もしこうしたヴァルツァーにも美学的な価値があるとすれば - まさに昨秋のアンコールで「南国の薔薇」にそれを確信した -、演奏を精査しなければその美が聞こえてこない。
元旦になってから、ダブルブッキングで観れなかったミュンヘンからの中継録画を流した。指揮者のヤンソンスは元気が回復したようで何よりだが、指揮は相変わらずで、雀百までで当然変わるようなことはない。自慢のプロレリアートのための教育からのその管弦楽団がまるで映画音楽のようにしか響かなく、あの会場が惜しくて仕方がない。今回初めて気が付いたのは、どこかで同じような音響の管弦楽団を聞いた覚えだ。ベートーヴェンなどはつるつるの音であってもラトル指揮の音はまた違うのはデビュー当時から知っている。そうである、あのバイロイトの「トリスタン」で下された日本の指揮者大江の管弦楽の音である。後者の方が脂っこくて米国的だと思ったが、そのサウンドの単純さがとても似ている - その単純さから超えるところで初めて音の芸術が始まる。そうかと思ってみていると、管弦楽団員が詰まらない寸劇をやっている。これはあの楽団は阿呆になるだけだと確信した。同じ放送管弦楽団でも最も老舗のベルリンのそれが充実した響きを出しているのとは大違いである。指揮者の程度以上の音楽は儘ならないのである。
参照:
花火を打ち上げる奴 2019-01-01 | 暦
新支配人選出の政治 2018-11-13 | マスメディア批評
年末のゼムパーオパーの「こうもり」は面白かった。技術的にはZDFのいつものショー番組の延長で、日本の紅白と変わらない。規模と技術力が異なるだけだ。だからマイクロフォンの設置の制限もあるが、結構オフになったりオンになったりの繋ぎも悪かった。何よりも司会の爺さんのデュモンはよしとしてもそれを慕う女の価値は全くなかった。あれぐらいならば局アナで十分でドレスデンにでもいくらでも人気者がいたと思うが、彼女には別の視聴者層を誘うパーソナルとして白羽の矢が立ったのだろうが、どうみてもそれほど人気があるようには思えない。とても程度が低かった。
しかし演奏はとても良かった。何よりもシュターツカペレの演奏は嵌っていて魅せた。同じ座付管弦楽団でもちょろと弾く捌きが堂にいっていて、ヴィーナーフィルハーモニカーよりもいいところが散見された。ベルリンも悪くないがあの色気は無い。ああした会場でいつもピットに入っているとあれが出来るようになるのだろう。ここ最近はティーレマン指揮でしかそれもコンサートしか聞く機会がなかったので改めてその本領に気が付いた。
そして指揮のメストが昔からすると経験を積んで自信を付けたのか見事に振っていた。それもヴィーナーでは曖昧にしかならないところがとても微妙に表現されていて、もう後任者はこの人しかいないと思わせた。ヴィーンよりもドレスデンでこそ活躍してもらいたい。ティーレマンとは年代が同じだがそのキャリアからしても一ランク以上違うとはいっても、あれぐらいの人が指揮すると全く管弦楽が変わる。この人がゼムパーオパーでやるようになったら是非出かけたいと思った。
特に感心したのはスター歌手たちがあのようなコンサート舞台でも場を作ることだった。カウフマンなどはオペラよりもああした興業がお得意だから当然と言えば当然なのかもしれないが、カメラに向かって合図をするところまでエンターティメントを極めている。あれぐらいの歌ならば、技術的に全く以って馬鹿にならないと言っていたが、なんら非難されることもなく簡単に稼げるのだ。逆に言うとあそこまで苦労してオペラで歌っても散々けなされるので、全く割に合わないのに偉いと思う。ペトレンコの第九でアルトを歌うクールマンの持ち歌にも大変満足した。あの人なら技術的以上に可成り詰めてこれるだろうと思う。ソプラノのペーターセンと女声二人の歌だけでもどうなることか。上限がないと思う。
コピー録画の音声を96kHzにしてみた。述べたようにZDFの仕事であるから如何にもレヴュ―のような録音なのだが、素晴らしい音楽を楽しめた。これと出払っている主のティーレマン指揮のノイヤースコンツェルトを比較するというこれまたこのプロジェクトの裏の意味があって、好き嫌いの問題ではなくて、その世界でのキャリアやポジションの差がどれほどの違いかを誰にでも分からせた。ティーレマンの指揮の音楽の躍動感とかそうしたものを求める人はいないのだろうが、指揮者が何をしなければいけないかということで明らかではなかったか。兎に角格が全然違う。なにも音楽が一流の技術で一流の趣味で演奏されなければいけない訳ではないが、もしこうしたヴァルツァーにも美学的な価値があるとすれば - まさに昨秋のアンコールで「南国の薔薇」にそれを確信した -、演奏を精査しなければその美が聞こえてこない。
元旦になってから、ダブルブッキングで観れなかったミュンヘンからの中継録画を流した。指揮者のヤンソンスは元気が回復したようで何よりだが、指揮は相変わらずで、雀百までで当然変わるようなことはない。自慢のプロレリアートのための教育からのその管弦楽団がまるで映画音楽のようにしか響かなく、あの会場が惜しくて仕方がない。今回初めて気が付いたのは、どこかで同じような音響の管弦楽団を聞いた覚えだ。ベートーヴェンなどはつるつるの音であってもラトル指揮の音はまた違うのはデビュー当時から知っている。そうである、あのバイロイトの「トリスタン」で下された日本の指揮者大江の管弦楽の音である。後者の方が脂っこくて米国的だと思ったが、そのサウンドの単純さがとても似ている - その単純さから超えるところで初めて音の芸術が始まる。そうかと思ってみていると、管弦楽団員が詰まらない寸劇をやっている。これはあの楽団は阿呆になるだけだと確信した。同じ放送管弦楽団でも最も老舗のベルリンのそれが充実した響きを出しているのとは大違いである。指揮者の程度以上の音楽は儘ならないのである。
参照:
花火を打ち上げる奴 2019-01-01 | 暦
新支配人選出の政治 2018-11-13 | マスメディア批評