Wein, Weib und Gesang

ワイン、女 そして歌、此れを愛しまない輩は、一生涯馬鹿者であり続ける。マルティン・ルター(1483-1546)

小澤征爾による杮落とし

2024-04-15 | 
1986年10月30日のサントリーホール杮落とし公演中継映像を観た。ベルリナーフィルハーモニカーがカラヤン以外で初めて外国公演で振った時だった。個人的には二日前の初日のブラームスを聴きに行った。

この生中継はラディオは録音をしたが、映像を観た記憶はなかった。会場の雰囲気が面白い。音楽評論家らも座っているのだが、一般の招待客らしきはいかにもカラヤンではないので不満な表情が隠せない。若い皇太子が来ているがその程度のものだったのだろう。小澤はそれぐらいにしか扱われていなかった。しかしその指揮は立派で、現在でも客演でこれだけ振れる人はいないだろう。

八艇のコントラバスの大編成でのシューベルトは当時のカラヤンサウンドを彷彿させる。それでもお客さんのウケは今一つだ。後半は昨年のペトレンコ指揮による初ツアー時と同様に「英雄の生涯」が演奏された。これに関しては当時の放送から違和感があった。今回、旧年中にペトレンコ指揮を1979年のカラヤン指揮に続いて聴いたこともあって、その問題はよく把握できた。

先ずは冒頭の「英雄の主題」の出し方からして問題があった。これはどのようなテムポを取ろうがとても勢い感が重要なのだが、三連符を三拍四拍で二分音符へのリズム取りが悪い。これが全てで、小澤に限らず如何に斎藤がシステム化しようともこれを上手に振れないのだろう。要するに律動によって音楽が流れないに尽きる。斎藤秀雄がこの曲に全てがあるといったのはそれをも含んでいたのかもしれない。

なるほど大編成での多層に渡る音情報を取り出すのは管弦楽団指揮技術の極地なのかもしれなく、実際に音響のプレゼンスを第一に演奏させている。同時にカラヤンの影響を受けてか、テムポルバートなどの歌い込みで、そしてそのフレージングを活かすために余計に拍子感が鈍ってくる。流石にカラヤンはそこがその芸術だったのだ。無関心なお客さんも知らずにその差を感じ取ったに違いない。そこが一般的に日本で謂われる「小澤指揮は内容がない」の内容なのである。

曲間に当時のカラヤン追っかけのおばさんと楽団員やマネージャーへのインタヴューなどがあるが、そこで「小澤は20年来の楽団の友達のようなもの」としていて、その友好関係の中で日本の指揮者へのそして独管弦楽団への称賛を期待したい。」と語っている。このことはペトレンコが執拗に繰り返し発言している昨秋の「英雄の生涯」のツアーでの成功と事前に語っていた「(ダイシンを)日本人が誇りに思う。」との発言に対応していて、この映像を確認していた可能性がととても強い。因みにコンサートマスターの安永は取り分けここではソロの準備をしていた様で上手に弾いていた。

急遽のツアープログラムだったからか、オーボエも前半は若手に任せていて後半だけロータ―・コッホが吹いている。そして、楽屋に戻ると誰を立たせるかマネージャーに確認している。下げた指揮台に楽譜を置きながら全く見ない格好をつけているのもカラヤン譲りで、更に劇場でも振っていない当時の新進指揮者にありがちなお馬鹿な態度を貫いていたからだ。

これは、新たに編集されて楽団のメディアとの共同制作となっているので、いずれハイレゾでDCHにアーカイヴ化されるだろうか。但しテープヒスの入ったアナログ録音で、映像もあまり良くないようだ。しかしサントリーホールは反射板の改修前は跳ね返りがなくて演奏はし難かったのだろうが、マイク乗りは良くとても素直に響いている。
Seiji Ozawa & Berliner Philharmoniker 1986 at Suntory Hall / Schubert: "Unfinished" Symphony

R.Strauss: Ein Heldenleben / Ozawa · Berliner Philharmoniker




参照:
カーニヴァル前に棚卸 2024-02-12 | 雑感
現代的過ぎた小澤征爾 2024-02-11 | マスメディア批評
コメント (2)
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