寒い、山では雪になるようだ。激しいものではないが、ワイン街道でも雹が降る。寒いとは思いながらも雨が上がったので朝から一っ走りする。冬の上着をもう一度着るのは嫌なので裸で走る。陽射しがあると暖かいが、影に入ると秋である。風が吹くと震える。
収穫されるワインに与える影響はなんとも言いかねるが、影響を受ける筈だ。車中のラディオが独公共放送網のオペラ中継番組第一弾に今復活祭にバーデンバーデン祝祭劇場で収録された新制作「エレクトラ」が20時からSWR2をキー局に放送されるとアナウンスしていた。
録画は編集制作されて秋に放送されることは知っていたのだが、ラディオ放送に関しては確信はなかった。その理由に初日にはマイクが入っていなかったように思えたからである。例えば昨年の「影のない女」の中継録音は最終日が生中継され、映像は他日の録音と編集された。今回はカメラは二日間しか入っていなかったので、総稽古時の素材などからも編集されて、音声に付けて制作される。
つまり今回の放送録音はその映像制作の基礎になるものである編集済みである筈だ。しかし、バイエルンの放送協会のサイトには初日の録音となっている。実際はよく分からないが、三日間の特徴は分かっているので、本当に初日の編集無しものであれば、主役のニナ・シュテムメの熱唱とそしてフィナーレの盛り上げ方で分かる筈だ。聴いてのお楽しみとなる。
なによりもマイクでの収録で、実際の視覚でのテキストの理解度をどのように補っているのかなど興味深い点も多い。特に今回は奈落から出てベルリンで舞台上で演奏されたものは一様に喧し過ぎると批判されていたので、全くそのようなことはなかった祝祭劇場での録音も決定版としてとても重要になる。
少なくともあれだけの大規模な管弦楽団を精密に演奏させて、尚且つ声が通るように演奏された例は歴史上ない筈で、昨年の「影のない女」以上に上演の規範となる録音となるだろう。
作曲家のアシスタントの様なこともしていた指揮者のベームがいつものように正確に回顧しながら発していた言葉は、リヒャルト・シュトラウスの楽劇において歌詞が通って理解できることが最大の目的であるというようなことで、その見識はこの作曲家の楽劇が舞台に架かる限りされる限り微動だにしない金科玉条なのである。
そして劇音楽というのは劇場空間という前提があって創作されている。そこに芝居があって劇空間が初めて現出される。
コロナ期間に多くの人が改めてあれほど迄に独立した世界を描いていた音楽も演奏行為という事では聴衆無しには中々成立しないことを身を以て体験したのだが、音楽劇場においてはそこになければ音楽形式ともならないような大きなドラマテュルギーが発生する。
参照:
無意識下の文化的支配 2024-04-04 | 文化一般
音響のドラマテュルギー 2024-04-01 | 音
収穫されるワインに与える影響はなんとも言いかねるが、影響を受ける筈だ。車中のラディオが独公共放送網のオペラ中継番組第一弾に今復活祭にバーデンバーデン祝祭劇場で収録された新制作「エレクトラ」が20時からSWR2をキー局に放送されるとアナウンスしていた。
録画は編集制作されて秋に放送されることは知っていたのだが、ラディオ放送に関しては確信はなかった。その理由に初日にはマイクが入っていなかったように思えたからである。例えば昨年の「影のない女」の中継録音は最終日が生中継され、映像は他日の録音と編集された。今回はカメラは二日間しか入っていなかったので、総稽古時の素材などからも編集されて、音声に付けて制作される。
つまり今回の放送録音はその映像制作の基礎になるものである編集済みである筈だ。しかし、バイエルンの放送協会のサイトには初日の録音となっている。実際はよく分からないが、三日間の特徴は分かっているので、本当に初日の編集無しものであれば、主役のニナ・シュテムメの熱唱とそしてフィナーレの盛り上げ方で分かる筈だ。聴いてのお楽しみとなる。
なによりもマイクでの収録で、実際の視覚でのテキストの理解度をどのように補っているのかなど興味深い点も多い。特に今回は奈落から出てベルリンで舞台上で演奏されたものは一様に喧し過ぎると批判されていたので、全くそのようなことはなかった祝祭劇場での録音も決定版としてとても重要になる。
少なくともあれだけの大規模な管弦楽団を精密に演奏させて、尚且つ声が通るように演奏された例は歴史上ない筈で、昨年の「影のない女」以上に上演の規範となる録音となるだろう。
作曲家のアシスタントの様なこともしていた指揮者のベームがいつものように正確に回顧しながら発していた言葉は、リヒャルト・シュトラウスの楽劇において歌詞が通って理解できることが最大の目的であるというようなことで、その見識はこの作曲家の楽劇が舞台に架かる限りされる限り微動だにしない金科玉条なのである。
そして劇音楽というのは劇場空間という前提があって創作されている。そこに芝居があって劇空間が初めて現出される。
コロナ期間に多くの人が改めてあれほど迄に独立した世界を描いていた音楽も演奏行為という事では聴衆無しには中々成立しないことを身を以て体験したのだが、音楽劇場においてはそこになければ音楽形式ともならないような大きなドラマテュルギーが発生する。
参照:
無意識下の文化的支配 2024-04-04 | 文化一般
音響のドラマテュルギー 2024-04-01 | 音