Wein, Weib und Gesang

ワイン、女 そして歌、此れを愛しまない輩は、一生涯馬鹿者であり続ける。マルティン・ルター(1483-1546)

飽和するぬるま湯環境

2024-06-19 | 
今回の旅行の目的はヘルクレスザールでのBR交響楽団であった。今迄何回も機会を狙っていたが中々都合が合わなかった。日本で取り分け人気のある同放送交響楽団は何度も聴いているが満足した演奏会は殆どない。精々コリンデーヴィス指揮の演奏会ぐらいだったか。それにしてもプログラムすらあまり記憶にないぐらいでその演奏の質が知れていいたことになる。

そして創立以来のこの楽団を育んだホールでの演奏を初めて聴いてとても多くのことが分かった。それだけでも大きな価値があった。新ホールが云々されている今日その意味をもう一度考えてみたい。

先ずホールの響きは抜群だ。しかし同時に直ぐに音が飽和しまうことが分かった。要するにサチッてしまうのである。ピアノソロぐらいなら何とかなってもバロック編成までで、大き目のピアノ協奏曲ではもう使えない。要するに放送交響楽団では使い物にならない。

そういう所で名演奏の歴史を重ねてくるとどのようになるか。それがこの交響楽団の独自のアンサムブルである。何故前任の故ヤンソンスが楽団にも聴衆にも人気があったのかの背景事情もそこにあったのだろう。

似た例では合衆国のビッグファイヴの一つクリーヴランドの楽団が指揮者セルによって育てられて唯一無二のアンサムブルを形成している背景事情に取り分け似ている。あそこのホールも直ぐにサチッてしまうようだ。だから所謂ハモることで音が飽和して仕舞って大きな編成の演奏が出来なかった。それを如何に可能にするかでその伝説のアンサムブルが可能となっていた。セル指揮のそれは今でも日本で一種のカルトとなっていて、その音楽が尊ばれているのである。

同様な現象がこのレジデンス内のホールで演奏してきた放送交響楽団にあって、そして同じように日本の音楽愛好者から専門家までが共通して評価する音楽となったのである。そこの残響の在り方は量感も時間も充分であるが美しく濁りはない。舞台上での跳ね返りのように客席では聴こえないという事象もあるようなのだが、そうした条件が音を乗せていくようなアンサムブルとなっていて、がっちりと拮抗させるような合奏とは全くなっていないのは歴史的である。

そういう合わせ方はまさしく同じレジデンス内の歌劇場で為されるべきもので、管弦楽では精々全古典派迄の音楽でしか当て嵌まらないのである。歌劇においては飽く迄も声に合わせることが最優先なのだが、管弦楽ではそれによって何かを表現しなければ全く意味がないのである。そうなるとその表現力では限界がある。

そして親方日の丸的な楽団運営で、事務方も現場もぬるま湯感が甚だしく、世代交代も順々にしか進まない。今や劇場座付き楽団でもそのようなことでは全くなくて、世界一を守る為には可也の意欲が見られる。明らかに放送交響楽団という存在が時代遅れの回顧的なものになりつつある好例である。そのような楽団には新しい音楽すら演奏は不可能だ。



参照:
ブラームスのセレナーデ 2024-03-15 | 音
陽が射すうちに一仕事 2023-10-20 | 暦
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