「ファウストュス博士」第七回の放送は、1913年、1914年から第一次世界大戦の終わりまでである。ミュンヘンの社交場で重要な三人の登場者に光が当たる。その三人は、ブライザッハー博士、イネス・ローデ、太陽に照らされる月のように反転シルエットの描写ながらルドルフ・シュヴェルトフェーガァーの三人である。
ヴァイオリニストのシュヴェルトフェーガー自体は、主人公の懇意な男友達であり、社交界の花形として、既にここまでで詳しく扱われているが、その音楽性を逆転させた形で主人公がそのロマンティック性を反論する形で語られる。
特にここで注目したいのは、ロマンティクもしくはセンチメンタリティーを以って大衆に訴えかける所謂娯楽芸術もしくは音楽U-MUSIKが、芸術音楽E-MUSIKに対応させられる箇所である。この伏線としてブライザッハー博士の単旋律音楽から多声音楽そして調性音楽への移行への見解が既に述べられているのである。
番組前回の後半に登場していたのが、ミュンヘンの社交界における参事官の娘である二人の姉妹である。重い髪と笑窪のある手に、長い首の上のは拗ねたような口元がある、少なからず魅力的な女性イネスである。この女性の娘らしい不安定性はこの物語の中で重い意味を持つことになる。この女性にとって良い人間とは倫理観に富んだそれであり、美的なバランスに富んだものではないと語られる。彼女のその感情に留意しながらも、彼女が結婚するだろう男性への外見や清廉さについて語るとき、その理性的な基礎を信ずることが出来ないとしている。語り手は、不安で根無し草の彼女へのアドヴァイスは容易ならざると述懐する。
そして語り手は、結局は愛の無いつまり至極普通の結婚をして三人の子供を有するイネスと愛しあう若いヴァイオリニスト、シュヴェルトフェーガァーのディアローグを想像する。自らも含まれる社交の表面的な人間関係や場を批判し、不信感を募らせるイネスに、「こんなに沢山の不幸せ」とその終局を示唆する「道行き」の精神が、この架空のシーンをドイツ社会一般へと反映させる。
数限りない厭世的な芸術文化人の自害が横行していた時代精神を垣間見せる場面展開で、それをまた麻薬へと奔るこの女性の性格付けに見事に反映させている。しかしここでは、当時多く創作されたアルトュール・シュニッツラーなどの破局ものとは、理性の面で一回りも二回りも異なる次元での展開となっている。
実は、その前にきついプフェルツ方言で大演説をするブライザッハー博士の独善が描写されている。それは、なんと俗物主義の蔓延る社交会の人気なのある。語り手は、その洗練されたプファルツ人らしいお人好し振りは、文学サークル分野では殆ど話題ともならなかったものであろうが、その多岐に渡る教養にはみるべきものがあったと語る。相手が文化を「終焉へ向う」としない限りは、必ずや敵を攻撃する文化哲学者であり、軽蔑を込めて放たれる「進歩」こそが、彼をサロンに喜んで受け入れさせる保守主義としている。例えば、遠近法を無視した抽象絵画は、彼によって進歩の平板な「野蛮」とこき下ろされる。また音楽調性の発展もローマから離れた英国やフランスの野蛮の中から生まれるとする。そして、その終焉にアイゼナッハの大バッハが関与するとして、その平均率の発明者でもない作曲家がその意味も分からずに異名同音性を理解したのだと言う。
更に挑発的な発言が続き、本人のユダヤ民族としての本元にある旧約聖書へ至り、いよいよ辛辣な保守主義と相成る。終焉と黄昏と喪失の感情は、必ずやそこここに存在して、夢見ることを許さない。そしてソロモン王を宗教的本質を語る。本物の儀式と現実のカルトは抽象的には決して一致しないと説く。勘違いから大きな不幸を導くと、ハープに現を抜かしたダヴィデ王の誤りから輸送中の人身交通事故で「契約の箱」にウザを触れさせてしまい*と、サミュエル記二部に描かれる。その神の怒りによる病弊や死によるダイナミック民族人口統計**の怖さを知り得なかったことから、「民族とは、一部が全体となるような、そうした機構的なシステムを決して持つことが出来ない」との民族の「業」の結論へと導かれる。
その「罪業」と「刑罰」は、神学的には未だに倫理的な原因からのみ生じて、そこでは事故や誤りの原因こそが問題となるのである。倫理が宗教と並べられるのは、先ず最初に終焉が提示されるときであり、「あらゆる倫理は、儀式への純粋な精神的不理解である」と結論付けられる。要するに、「祈り」は「物乞い」であり、「嘆願」でしかありえないと、仮借容赦ない。
二十八章から三十一章へかけてのミュンヘンの社交界を含む人物や社会情景は、実際にその渦中にいたトーマス・マンならではの描写で、人物描写を含めてその内容の凝縮度は、ここに極まっているようだ。
* 2.Samuel.6
**2.Samuel.24
参照:
硬い皮膚感覚の世界観 [ 文学・思想 ] / 2007-11-15
微睡の楽園の響き [ 文学・思想 ] / 2005-02-22
脅迫観念一杯の列車旅 [ 雑感 ] / 2007-11-17
ヴァイオリニストのシュヴェルトフェーガー自体は、主人公の懇意な男友達であり、社交界の花形として、既にここまでで詳しく扱われているが、その音楽性を逆転させた形で主人公がそのロマンティック性を反論する形で語られる。
特にここで注目したいのは、ロマンティクもしくはセンチメンタリティーを以って大衆に訴えかける所謂娯楽芸術もしくは音楽U-MUSIKが、芸術音楽E-MUSIKに対応させられる箇所である。この伏線としてブライザッハー博士の単旋律音楽から多声音楽そして調性音楽への移行への見解が既に述べられているのである。
番組前回の後半に登場していたのが、ミュンヘンの社交界における参事官の娘である二人の姉妹である。重い髪と笑窪のある手に、長い首の上のは拗ねたような口元がある、少なからず魅力的な女性イネスである。この女性の娘らしい不安定性はこの物語の中で重い意味を持つことになる。この女性にとって良い人間とは倫理観に富んだそれであり、美的なバランスに富んだものではないと語られる。彼女のその感情に留意しながらも、彼女が結婚するだろう男性への外見や清廉さについて語るとき、その理性的な基礎を信ずることが出来ないとしている。語り手は、不安で根無し草の彼女へのアドヴァイスは容易ならざると述懐する。
そして語り手は、結局は愛の無いつまり至極普通の結婚をして三人の子供を有するイネスと愛しあう若いヴァイオリニスト、シュヴェルトフェーガァーのディアローグを想像する。自らも含まれる社交の表面的な人間関係や場を批判し、不信感を募らせるイネスに、「こんなに沢山の不幸せ」とその終局を示唆する「道行き」の精神が、この架空のシーンをドイツ社会一般へと反映させる。
数限りない厭世的な芸術文化人の自害が横行していた時代精神を垣間見せる場面展開で、それをまた麻薬へと奔るこの女性の性格付けに見事に反映させている。しかしここでは、当時多く創作されたアルトュール・シュニッツラーなどの破局ものとは、理性の面で一回りも二回りも異なる次元での展開となっている。
実は、その前にきついプフェルツ方言で大演説をするブライザッハー博士の独善が描写されている。それは、なんと俗物主義の蔓延る社交会の人気なのある。語り手は、その洗練されたプファルツ人らしいお人好し振りは、文学サークル分野では殆ど話題ともならなかったものであろうが、その多岐に渡る教養にはみるべきものがあったと語る。相手が文化を「終焉へ向う」としない限りは、必ずや敵を攻撃する文化哲学者であり、軽蔑を込めて放たれる「進歩」こそが、彼をサロンに喜んで受け入れさせる保守主義としている。例えば、遠近法を無視した抽象絵画は、彼によって進歩の平板な「野蛮」とこき下ろされる。また音楽調性の発展もローマから離れた英国やフランスの野蛮の中から生まれるとする。そして、その終焉にアイゼナッハの大バッハが関与するとして、その平均率の発明者でもない作曲家がその意味も分からずに異名同音性を理解したのだと言う。
更に挑発的な発言が続き、本人のユダヤ民族としての本元にある旧約聖書へ至り、いよいよ辛辣な保守主義と相成る。終焉と黄昏と喪失の感情は、必ずやそこここに存在して、夢見ることを許さない。そしてソロモン王を宗教的本質を語る。本物の儀式と現実のカルトは抽象的には決して一致しないと説く。勘違いから大きな不幸を導くと、ハープに現を抜かしたダヴィデ王の誤りから輸送中の人身交通事故で「契約の箱」にウザを触れさせてしまい*と、サミュエル記二部に描かれる。その神の怒りによる病弊や死によるダイナミック民族人口統計**の怖さを知り得なかったことから、「民族とは、一部が全体となるような、そうした機構的なシステムを決して持つことが出来ない」との民族の「業」の結論へと導かれる。
その「罪業」と「刑罰」は、神学的には未だに倫理的な原因からのみ生じて、そこでは事故や誤りの原因こそが問題となるのである。倫理が宗教と並べられるのは、先ず最初に終焉が提示されるときであり、「あらゆる倫理は、儀式への純粋な精神的不理解である」と結論付けられる。要するに、「祈り」は「物乞い」であり、「嘆願」でしかありえないと、仮借容赦ない。
二十八章から三十一章へかけてのミュンヘンの社交界を含む人物や社会情景は、実際にその渦中にいたトーマス・マンならではの描写で、人物描写を含めてその内容の凝縮度は、ここに極まっているようだ。
* 2.Samuel.6
**2.Samuel.24
参照:
硬い皮膚感覚の世界観 [ 文学・思想 ] / 2007-11-15
微睡の楽園の響き [ 文学・思想 ] / 2005-02-22
脅迫観念一杯の列車旅 [ 雑感 ] / 2007-11-17
ゲットーにおいても、シオニズムにおいてもオーソドックスなユダヤ主義は大きな意味を持つ。
しかし虚無的と言うことでは、プロテスタンティズムドイツがここに裏返しに描かれているのでしょう。
たとえば:
”He who learns must suffer. And even in our sleep, pain that cannot forget falls drop by drop upon the heart. and in our own despair, and aginst our will, comes wisdom by the awful Grace of God."
Aescnylus
既に発言したようにその裏返しの関係はこれからまだ語られて行きます。
そのあり方が話題であり、その追求は、この作品がマックス・ヴェーバーを部分否定したりアドルノらを否定する以上に、現代のドイツ人にとっても厄介な作品であり、「愛されない」原因ともなっています。
なぜならば、部分的な教えではなく、本質的なプロテスタンティズムの態度を指しているからです。ラジオの回を続けて聞いて行きます。
そして同時に「近代」の大きな元凶になっているのもプロテスタンティズムで「今日の危機」の源にありますね。
それは、このBLOGの三桁近い数の記事で触れられている内容でもあります。