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昨晩は、夜更かしをした。天気予想通り、湿った大気が入りこんで、温度は上昇して、セントラルヒーターにサーモスタットが掛かり、夜中はあまり暖房が効いてはいなかった。そして、朝になると教会の鐘に天窓を叩く音が重ねられた。霙まじりの大きな湿った雪が降り出した。梢の霜は細り、木々は黒々として来て、すると今度は地面や屋根が雪で白くなった。
古い白黒番組などのシーンをネットに見つけると、その生放送時代の記憶に残っているだけのTV番組などに見入ってしまう。なにも映像が、永六輔の作や演出としてまたは映像技術として面白い訳ではない。子供の頃の記憶はやはり鮮明のようで、そのような番組を観ている自分の状況を曖昧ながら少しづつ思い出してくるのが興味深いのである。
古い自分の写真などを見ていると、写されているときの主観的な心境のようなものが幾らか辿れるときもある。その多くは明文化できない感情のようなものである事も多いかも知れない。
以前は、カメラを写している取り手の視点からそうした感情を辿って見て、その状況を想像してみた。つまり、写真としての映像記録を記憶として読み解いて見たのだが、写されている自分は元来その視点にはなく、被写体としての記憶しかない。つまり、その記憶を記録として脳のどこかにしまいこんであるかどうかに興味がいくようになった。
ここでの記事においても、試飲やその他の記憶は、なんらかの記録によって特定できる時刻と場所などを徐々に思い出して行くことで、それに纏わる自己の感覚的なものを思い出して行くことがある。これは特に試飲と言う一種の感覚的に研ぎ澄まれた記憶が、その状況の具体的な記憶に結びつく例である。
簡単に申せば、印象に残ることは必ず覚えており、漫然と記録されている記憶に対するなんらかの特定が出来ればそれはかなりの程度呼び起せる。その時は、推測や状況の判断よりも、心理的な面に注目すると糸が解れるように記憶が新鮮に蘇ってくる。
しかしこうして記憶を辿るのは、コンピュータのハードディスクの圧縮してあるデータを開くようなもので、役に立つ選別された記録から、強制的にしまいこまれた記録を呼び出すようなものである。だから、開いたものも結局は用が済めば、再び圧縮してしまい込んである必要がある。その場合、新たな関連性などをつけることも出来る反面、必要がないと判断されたものは消去してしまうことも出来るかもしれない。
年末の雪では、アルペンスキーのメッカ、ザンクトアントンからの帰路、二百キロ以上もスケートリンクとなった高速道路を帰ってきたことを何度も思い出し、経験として人にも伝える。家近くまで来て、ヘッドライトが暗くなっていることに気が付き、ほっとしてワイン畑横の道端に停めた車を見て驚いた。車は、滝の落ち口のような五センチ以上の硬い蒼氷の中に包まれていたのであった。
天候と寝不足が祟って頭が重いので、雪見酒と洒落こんだ脳の解凍作業は、これまた楽しい。
古い白黒番組などのシーンをネットに見つけると、その生放送時代の記憶に残っているだけのTV番組などに見入ってしまう。なにも映像が、永六輔の作や演出としてまたは映像技術として面白い訳ではない。子供の頃の記憶はやはり鮮明のようで、そのような番組を観ている自分の状況を曖昧ながら少しづつ思い出してくるのが興味深いのである。
古い自分の写真などを見ていると、写されているときの主観的な心境のようなものが幾らか辿れるときもある。その多くは明文化できない感情のようなものである事も多いかも知れない。
以前は、カメラを写している取り手の視点からそうした感情を辿って見て、その状況を想像してみた。つまり、写真としての映像記録を記憶として読み解いて見たのだが、写されている自分は元来その視点にはなく、被写体としての記憶しかない。つまり、その記憶を記録として脳のどこかにしまいこんであるかどうかに興味がいくようになった。
ここでの記事においても、試飲やその他の記憶は、なんらかの記録によって特定できる時刻と場所などを徐々に思い出して行くことで、それに纏わる自己の感覚的なものを思い出して行くことがある。これは特に試飲と言う一種の感覚的に研ぎ澄まれた記憶が、その状況の具体的な記憶に結びつく例である。
簡単に申せば、印象に残ることは必ず覚えており、漫然と記録されている記憶に対するなんらかの特定が出来ればそれはかなりの程度呼び起せる。その時は、推測や状況の判断よりも、心理的な面に注目すると糸が解れるように記憶が新鮮に蘇ってくる。
しかしこうして記憶を辿るのは、コンピュータのハードディスクの圧縮してあるデータを開くようなもので、役に立つ選別された記録から、強制的にしまいこまれた記録を呼び出すようなものである。だから、開いたものも結局は用が済めば、再び圧縮してしまい込んである必要がある。その場合、新たな関連性などをつけることも出来る反面、必要がないと判断されたものは消去してしまうことも出来るかもしれない。
年末の雪では、アルペンスキーのメッカ、ザンクトアントンからの帰路、二百キロ以上もスケートリンクとなった高速道路を帰ってきたことを何度も思い出し、経験として人にも伝える。家近くまで来て、ヘッドライトが暗くなっていることに気が付き、ほっとしてワイン畑横の道端に停めた車を見て驚いた。車は、滝の落ち口のような五センチ以上の硬い蒼氷の中に包まれていたのであった。
天候と寝不足が祟って頭が重いので、雪見酒と洒落こんだ脳の解凍作業は、これまた楽しい。
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