Wein, Weib und Gesang

ワイン、女 そして歌、此れを愛しまない輩は、一生涯馬鹿者であり続ける。マルティン・ルター(1483-1546)

挑戦を受けながらの武者修行

2010-09-14 | 試飲百景
ルネッサンス時代の建造物と雰囲気に囲まれてその時代の音楽で始まった二十周年式典であった。父親の死亡後に息子のハンスイェルクが学校を出るまで母親が醸造所を預かっていたレープホルツ醸造所が、樽売りワインしか出来ないような南ワイン街道のやせた雑食砂岩のリースリングで有名になったのはやはり現在の当主ハンスイェルクの力によるどころがおおいのだろう。

顧客代表として挨拶したハイデルベルクの地質学女教授は、その当時を思い出しながら語った。まさにこの女性が現在のテロワールを反映した要するに土地のミネラル風味を活かしたワインつくりに大いに基礎知識を与えたようである。当日のワイン地所案内を引き続いて行ったハンスイェルクの弟もノイシュタットのワイン研究所に勤めているらしく、過去二十年ほどの葡萄の酸と糖比重の表をもって示唆に富む話を披露した。特に、今年つまり2010年の酸は現時点では二十年前に遡るほどの量感で、今後の天気に大きく左右されるとあり、実際にたまたま採取した葡萄がエクスレ61度しか示していなかったことでもそれは十分に理解できた。

あと六週間ほどの間に、例えばグローセスゲヴェックスに要求される95度に近づくかどうかは大変緊迫する状態になってきた。やはりこの程度の醸造所では、そうなれば酸を弱める醸造方法なども視野に入ってくるのが、まさに一流の醸造所との大きな差異ではないだろうか。必要な収穫と出荷は、例えば2006年を思い出せばよいように他所からでも葡萄を購入してきてでも売らなければ生計に係わるのである。当然の事ながらそうなればそれなりの極辛口リースリングは提供できてもそれ程の質が望むべくもないことは明らかなのである。

高級車で乗りつける古くからの顧客も多いのか、年齢層は平年に比べても高かったが、その中で本当にレープホルツ氏の目指すリースリングを本当に評価できているものは決して多くはないことが今回も知れた。要するにあまりリースリングの深みなども分からない者はむしろ名門の大手醸造所よりも少なくないと感じた。

もちろんのことすっぱくて旨みのないリースリングなどはお付き合いであって、香り豊かなムスカテラーや赤ワインなど、リースリングに於いてもプファルツでは唯一のロートリーゲンデス地所の味のあるそれを選ぶ人が少なからずいる。むしろ、本物の本物であるガンツホルンや今年からの新商品「ナテューアウシュプルング」の価値の分かる者などは殆ど居ない。

こんな所でブルグンダーやバリックのそれを愛でているぐらいなら南ワイン街道のどこの醸造所にでもそのようなワインは幾らでも安く転がっている。目が節穴なのか、なにかおかしな知識が彼ら彼女らのワインの選択眼を鈍らしているのかは分からないが、レープホルツ氏が言うように「お客さんがあってこそ遣りたいことが出来る」と言う感謝の弁には高尚なものを売る有名な古本屋の老舗が売るエロ本にも似ているところがある。

地元出身でシュトッツガルトに在住のおばさんと話をしていたのだが、ブントザントシュタインのそれは微炭酸が気に食わないが、「ナテューウアシュプルング」にはそれがないから良いと言うと、「微炭酸はあまり気にならない」と仰る。そうなると、ロベルト・ヴァイルで叱った話までしなければいけなかったのだが、「同じ金を出してなぜ炭酸割のようにステンレスで作って炭酸が抜けていないワイン」を買わなければいけないかという批判が分かっただろうか?

つまり口当たりの良い清涼感のある飲み物が欲しくて高い金を払っているのではないのである、ワインはワインの味がしなければいけないのである。こんな初歩的な話も分かっていないならばキャリフォルニアヴァインでも飲んでいれば口当たりが良かろう。

残糖で騙していた2004年産より良年2005年産ピノノワールを吟味していると、親仁が話しかけてきた。要するにその吟味である。最近は多くの趣味人から「挑戦」を受けるようになってきた。彼に言わせるとナーへはやはりデンノッフが良いらしい。「あんなのは甘いもの特化と違うのか」と正すと良い辛口も作っていると言う話であった。「辛口のリースリングはミッテルハールト」と決っているのは何時も繰り返しているのだが、上のおばさんがゲオルク・モスバッハー醸造所のことを知りたがっていたので推薦しておいた。恐らく彼女にはレープホルツのそれよりも遥かに好ましいリースリングに違いない。



参照:
VDP グローセス・ゲヴェクス試飲会 2010 (1)
VDP グローセス・ゲヴェクス試飲会 2010 (2) (モーゼルだより)
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三十年ぶりのザイルの購入

2010-09-13 | アウトドーア・環境
本日ザイルを注文した。三十年ぶりに新しいザイルが手に入る。三十年前のザイルは殆ど使うことがなかった。その理由は色々とあるのだろうが、歴史的に考えるとクライミングのあり方が変わってきていた時で、丁度フリークライミングでシングルロープ化しているときと重なっている。
 
今回購入したそれもそうした歴史を反映していて、所謂一本のロープで登るシングルロープでも、二本のロープを架け替えていくダブルロ-プでも、また二本を同時に中間支点に掛けていくツインロープのどれでも使える商品である。六十メートルの長さは、半分に折って懸垂下降をすれば三十メートルしか降りられないが、もう一本のザイルがあれば六十メートルを一挙に下降出来る。登る長さは六十メートルで十分であり必要ならば二重にして二人を同時に後続させたり、倍の安全性やザイルの流れを良くする工夫が可能である。

さてこのザイル、前から狙っていた商品であるがなかなか手が出なかった。しかし今回一割引で二十ユーロ安くなっているので、流石に色までは選ぶ余地はなかったが早速飛びついた。現在ドイツで販売されているもので最高級の価格帯であるが、割引で中級価格帯になった。新製品がミュンヘンの見本市で出るのか、もしくは古い商品の棚卸かは知らないが、その価格で軽量で機能性の高いそれを買えるとなると、暫くだけ真剣に使うものとしてはもってこいであった。この辺りの買い時はネットでこそのものだ。

先日直しの出していたクライミングシューも戻ってきた。大体予想通りに直っていた。暫く使ってみて問題がなければ新しいペアーの底の張替えもしてみたいと思っている。
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支部長の妹さんの角笛の響き

2010-09-12 | 
先ずはルネッサンスの作曲家ゲオルク・フォルスターの曲集「ドイツの新しい曲集」の中の曲を聞いていただこう。カモシカと呼びながら実は牛の角笛を吹いてリーダーを務めるのが、VDPプファツ支部長レープホルツ氏の妹さんである。
  
レープホルツ二十周年に隣接するお兄さんの土地の一角で朝十一時から演奏されたものである。因みにお兄さんの娘さん、つまり支部長の姪御さんは九月に地元のワインプリンスに選ばれて臨席されていた。

ここでは角は、ビオデュミの栽培を採用する醸造所のようにそれが土地の一角に埋められるのではなくて、とても丸みを帯びた素敵な音色を響かせる。
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「北枕もしくは四十九日」を聞く

2010-09-11 | 文学・思想
フランカ・ポテンテの朗読CDを今日受け取った。早速、十のショートストーリーズのお題目に目を通した。先ずは目に付いたのが先日ベットの周りを片付けながら頭に浮かんだ言葉「北枕」である。なぜそうした言葉が浮かぶようになったかと言うとまさに彼女の書籍の一節「千の米一粒一粒に宿る」のところに新鮮な驚きを覚えてからである。

「北枕」も風水と考えると中国のそれはまさに北枕を奨めているのであり、インドのそれではなるほどあまり良くないのだろう。いづれにしても迷信と言うかジンクスと言うか一種の巷の信仰であったり諺であったり、知らないうちに文化化しているもので、同一文化圏に住んでいる者ならば分からない人は居ない。

さて、上の物語は銀行の頭取を祖父に持つような「立派な家庭」の娘が交換留学でロスに一年間過すことになる話で、その間のちょっと上等なホームスティーの雰囲気やボーイフレンドなどとの日本の厳しい家庭の社会から解放されたティーンエイジャーの生活観や、太平洋の距離感をジャンボ飛行機の高層の旅で簡潔に過不足なく、そしてあまりにも肌理細やかな叙情で示している。こうした簡素な朗読(記述)を聞くだけで、おかしな音楽が耳元で鳴るような「ノルウェーの森」などよりも遥かに繊細で上質な世界であると誰もが納得する筈である。決して少なくない者が、こうした上質な質感の文化を共有出来ると疑って止まない。

味をしめて三枚目のCD最終トラックから一枚目のCDの冒頭「神風」へと移る。するとシュライバーと称する水産学者と東京の下町の扇子屋の四十六歳の未婚の娘店主との触れ合いがこれまた決め細やかなタッチで描かれていて、まさに扇子に一筆書きで細やかに描かれる日本画のようである。ミュンヘンからの外人学者の見せる機微に富んだ態度は、そのものこの作者が日本で見た機微であり、こうした描きようからこれまたとても「高品質な文化のありよう」を表しているかのようであり、昨今では珍しい高貴な文化を描いた高貴な文学である。

しかし、決してそれが経済的に裕福であったり、特別な社会に宿っているのではないと言うことで、それを例えば下町のお店屋さんの庶民的な営みや環境の中に観察すると言うことは、同時に一種の人情落語に通じるような小話として描かれていることでも分かるだろう。要するに文化と呼ばれる本質的なものがそこに抽出されていると言っても過言ではない。

例えば、「北枕もしくは四十九日」における乱気流を乗り越えて成田に到着して、祖父の告別式の喪服で迎えに来る母親に会う前にトイレに駆け込み、目前の鏡にまさに数ヶ月前に日本を旅立ったときの服装で「日本の少女」が写っているのを発見してはっとする情景などはとても素晴らしく、やはりハリウッド映画であるよりはフランスの青春映画の一コマを観ているようで、読者までをはっとさせる ― まるで「トルコ女性」がイスタンブールの飛行場のトイレでドイツに飛ぶ前に頭巾を被るような光景だ。

もちろんのこと、日本が舞台となっている限りは、人情話のような湿気った趣とナイーヴでメランコリックな侘び寂の世界がそこにないわけではないが、これだけ突き放して殆どエッセイに近いようなザッハリッヒでありながら肌理細かな表現の日本文学を私は知らない。そしてこのCDの作者の決して娘ではないドイツ女性らしい太い声ではあっても硬質の磨き抜かれたそれが殆ど清涼感を与えてくれるほどの快さはなんとも魅力的である。



参照:
Franka Potente „Zehn“ – Kitamakura oder 49 Tage, Götterwinde, 3CDs (Osterwold)
ラーメン屋の掘り炬燵での風情 2010-08-17 | 文化一般
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ヴルストマルクト初日の夜

2010-09-11 | 生活
昨晩はヴルストマルクとの開幕であった。銀行に小銭を取りに行ったら警察が閉鎖していた。それでも強引に進入しようとすると、警官に阻止された。事情を話すと一時間掛かるというではないか。馬鹿らしいが仕方が無い。ワイン女王様だけでなく、クルト・ベック州長らの挨拶するメイン会場に車で突っ込むとなると車両制限も仕方ない。

石切り場は濡れてはいなかったが、未だ乾いていなかった。練習にはなるのかもしれないが、面白くない。靴の関係もあるが気にせず登るような者もある。彼はアルプスでの経験が豊かそうで、なかなか実力がある。登り方を観ていると、アルプスでのそれの経験のある無しは直ぐに分かるのである。

ヌルヌルしたところはパスしたのであまり登らなかった。体の動きは悪くは無いのだが、気持ちの動きが悪い。引けて九時前には真っ暗である。ワイン街道に出て外に座ったが、誰かが持ってきていたパン以外には殆ど何もあたらなかった。その代わり今年最初の濁酒甘酒を飲めた。季節のものでカロリーも高くこれもなかなか良かった。

六月に訪れた友人がスペインでの学会へとフランクフルトから飛ぶ前に早朝近所で購入して行き、現地で集合した看護婦さんたちに振舞ったことを思い出した。その話をすると、「何時頃のこと?」と、なるほど最近では蓋を閉めれない発酵中の液体を機内に持ち込むなど不可能である。

隣で飲んでいた現在トップで登る練習に励んでいる家族グループのリーダーである看護婦さんが、「新酒濁酒は酒の認識が無く飲むから危ない」と言う。「それでも今晩は全ての警官はバード・デュルクハイムだから」と杯を重ねていた。
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月曜に続いてもうそこに金曜日

2010-09-09 | 生活
今日は忙しかった。普段よりは忙しいことは予想していたので迷っていたのだが、朝早く走れて、それ故にか四十分以上かかる所を三十五分で走破出来たのはことは良かった。それでも疲れが残るのは分かっていた。 

それどころか取ってきたパンを齧るだけで二時近くまで手が離せず、十分に腹が減った。それから六時半までまた動き通しであった。先日来のアーカイヴの整理が引き続いて、そこに急ぎの用件が入るとてんやわんやである。

それでもなんとかなったと思えば、まだ手付かずの用件が残っているのを思い出すとどうしようもない。そうこう思っているともう金曜日である。雨がちで野外活動は月曜日に続いて本日朝のひと時を行っただけであるが、それでも時間が足りないと感じるのはどうしようも無い。幸か不幸か、注文した三枚組みの朗読CDが未だ届いていないだけでも助かっている。

夕方店仕舞いの前に肉屋に飛び込んで、何とか血のソーセージにありつけた、ついでに手持ちの金二ユーロの中からソーセージのかけらを購入した。もう一つの欠片が残っていたので親仁さんがそれを呉れた。何とかこれで栄養を補給出来そうである。
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神秘的な性的虐待の真実

2010-09-08 | 
徴兵制度の廃止が首相からも語られ、より効率的な国防軍の構築へと進めるツ・グッテンベルク大臣である。その奥さんでステファニー・ツ・グッテンベルク夫人が本を出した。子供への性虐待の財団の名誉会長としての活動から纏めた書籍であり、十分に話題となっている。

当然ながら教会的な立場をこの問題においては採用出来る訳ではないので、大変社会病理学的な視点に立脚しているようである。正直、信頼置ける人物からの性的虐待が八割がたであるとなると、とてもこの問題は難しい。

なるほどネットにおけるそうした映像が、そのまま性虐待の証明資料であるとすると、それは罰せられなければいけないのは当然であり、そうしたものが市場を生んでいるとすればやはり厳しく対処していくほか無いであろう。

しかし、身近な者からの背虐待の実体はとても容易に批判の対象として議論できるものではないことは確かであり、そもそも家庭の愛情とかそうした社会的なものが性的な前提無しには成立しないものである限り、グレーゾーンがそこに存在することは間違いない。またそこに宗教的な思考が善悪の前提として置かれると大変困難な問題となるのは、宗教家の起こす性虐待の実態でいやというほど知らされている。

面白いのは、性虐待をそうした身近なものから受けた被害者は善悪でしか対人関係が成立しなくなるなどの問題が生まれることなど、いかにこの性的な問題に断定的な結論が出せないかの傍証となっているような気がする。

現実の生活に於いてももしくは小説や映画などの表現においてもそのグレーゾーンこそが重要な要素となっているのだが、これは一種の究極な到達点というものが存在しない神秘がそこに横たわっていることと良く似ている。
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暇で忙しいアーカイヴ整理の日

2010-09-07 | 雑感
雨が断続的に降る肌寒い日、暇な様で忙しい日を過した。手が空くとどうしても片付けなければいけない場所が気になった。埃を被った雑多な書類の山でアーカイヴにしては乱雑で整理がなっていいない。所謂アーカイヴならば直ぐに必要なものに手が届き目が行くことが出来ないと意味がない。要するにアクセスが出来なければ塵の山である。

満を持してその山に手をつける。先日の寝室の個人的な資料集に比較すると「記憶のもの」が少ない分「記録のもの」が多いのは当然で、その点では御しやすい分類整理である。それでも自分が係わっていたプロジェクトの公な評価などはどうしても気になり当然ながら容易に処分はできないのは当然として、自らの記憶や体験と深く結びついているのを見つけ、やはり取捨選択して整理整頓する必要性を強く感じた。一種の過去の清算というかそうした作業無しには次へと進めない。まさにそうした所にアーカイヴの価値がある。

今日は疲れた体に良く熟れたオーメドックの1998年物を開ける。シェリーのようなまさにオーメドックの味が楽しめればそれで満足である。
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ダイナミックなザトペックそう法

2010-09-06 | 生活
週末は片付けものなどに勤しんだ。ボーズのサブシステムが寝室に置いてあるのだが、そのダイナミックスピーカーが埃を被って必ずしも良い状態ではなかった。先ずは掃除をしながら置き方などを工夫してみた。まるで嘗てのオーディオ趣味のような按配だが、所詮システムがシステムであるからこちらが求める要求に合わせるだけである。それでも大分鮮明度が増して、ラジオのジャズの演奏は十分にバスレフのバスが効きだした。放送交響楽団の実況録音がどうしようもなく下手なテンポを刻まない演奏をしていて明らかに指揮者の責任であり、また他の放送のモーツァルトのピアノ協奏曲では如何にベルティーニ指揮といえども大した生演奏を出来ていないことも確認できた。最近は家では生放送を聞いていないのだが、聞くに堪えない演奏も流れるのがラジオである。その点制作録音は聞けば聞くほど味が出るものが殆どである。

月曜は朝から八キロ、七千歩を五十分で片付けてきた。そのうち走っている時間が二十五分であるから大分の距離を走ったことになるが本当だろうか?前回よりも十分も早くなっているのは、走る区間を制御できて、その後の山登りを無理なく登れるようになったからだろう。そして気温摂氏一桁台の涼しさが体の燃焼を促進したようで、夕方まで体中が火照っている。エミール・ザトペックのような体の使い方が出来ているだろうか。しかし我ながらついでにとは言いながら良くも動機付けが出来ているものだと感心する。

クレッターシューが壊れてきたので、一つ前の同じ製品の左足を直し屋に送った。いつも左足の先端の内側の場所が裂ける。今回は一年しか使っていない。新しいのを買うのも手であるが、同じ靴を再度購入するなら、一度手を入れてみるのも悪くは無いと思った。少なくとも大分安く、もう一つ左足が使える。右足は底を張り替えるには余りに奇麗に磨耗していて、現在使っているものの方が痛みが激しく、もったいなく思ってもう少し使ってみようと思った。前回使っていたときと、今使っているものでは全く同じ製品にしても使い方が大分変わって来ているようだ。出来れば次はもう一つ上級用の靴が欲しい。

ベルイマン作品第二段は、「処女の泉」を楽しんだ。現在からすると少し視点が異なるように思えるが、作品としては「野いちご」よりもオリジナリティーは高いかもしれない。黒澤の羅生門を思い起こす場面もあるが、内容については他の映画と比較して改めて考えてみよう。
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ヴィルヘルム・ヴァイルのワイン

2010-09-05 | 試飲百景
今年は仕事仲間の未亡人を誘ってラインガウで試飲した。今年から数ヶ月に渡って数回行われたロベルト・ヴァイル醸造所の最終日の土曜日は今まで以上に盛況であった。もちろん最終日はグロセスゲヴェックスが購入出来る。

2009年産の特徴はやや量感も薄い酸であるが、逆に醸造法の進展によって、上のクラスに行くほどその酸が丸みを帯びながらも良いミネラルとのバランスを見せることになる。そしてそれは今までに無い風味の豊かさとなってきており、州立醸造所で酸化醸造法へと大きく舵を切った昨今のラインガウの傾向が顕著である。つまり、これでももって漸く、ミッテルハールトのグランクリュとなんとか比較に価する品質に達したとしても誤りではないだろう。

つまり、この醸造所のリースリングも2008年度までは鼻抓み状態のモノトーンな香りしかなかったのが、2009年度から一転して華やかな香味を放つ素晴らしいリースリングとなっていた。それも辛口のみならず、アウスレーゼなどの貴腐ワインにも波及しており、中間クラスのシャルタヴァインや半辛口の一部を除いては格段とその魅力が増大した。同時に屑のワインが少なくなったことも特筆に価する。

そして今年度からはビュルクリン・ヴォルフ醸造所が導入したブルゴーニュシステムの、グランクリュ、プリュミエクリュ、地所名付き、村名付き、ハウスヴァインとクラス化が明確となった。最後のグーツヴァインはバランスも取れていて酸のマイルドでなかなか良いのだが、十ユーロはないでしょうという気持ちが強い。それに比べて、十四ユーロのキードリッヒのリースリングはミネラル風味も立派で、シュロースザールシュタイン醸造所の九ユーロのグラウシーファーと比較してもその価格に偽りは無い。しかし、その対抗馬の価格が割高で、それよりも五ユーロも高い価格はやはり高いだろう。それでも味の純度は高く、密度も十分である。これを基準とするならば、ビュルクリン・ヴォルフ醸造所のゴールトベッヒャエルやランゲンモルゲンの十六ユーロなどは格安である。

その上のPCに価する三種類の地所、つまりクロスターベルク、テュルムベルク、グレーフェンベルクからの所謂ラーゲンヴァインは、価格も二十ユーロと飛躍するが、流石にどれも各々十分なキャラクターを出している。最初のものは石灰がかった味質であり、最後のものはなかなあ芯が強く十分な熟成が期待できる。そして中間のものこそが今年のこの醸造所の特徴であり話題であろう。新しい葡萄からの収穫らしいが、昨年までとは打って変わって激しい特徴を放つ。つまり、殆どソヴィニオン・ブラン同様のリースリング味でこれは今まで経験の無い味覚であり、まさに州立醸造所が推し進める酸化醸造所の成果と見た。

「これは全くソヴィノオン・ブランだよ」と聞いた隣の親仁が「お前なんだ、サントリーの人間か」とかかって来た。どうもヴィースバーデン出身のエンジニアのようでデュッセルドルフで技術部長をしているらしい。趣味でワインを造っているというからもともと家業に関係があったのかもしれない。そこから、ミッテルハールトのグランクリュの話や取って置きの話をしてやると、熱心にメモを取り、本気でこちらに訪ねて来るという。特に先日来ブログで話題になったベクサーの問題を話し出すと、こちらの肩を突いて来た。なぜならば彼の知識では樽から樽へと移す事でそれを除去する方法は遣っているのだが窒素によるサーキュレーションはそもそも設備が無いと出来ないことでもあり毛頭頭に無かったからである。2009年産の天然酵母醸造の成果はどうしても確かめたくなったようである。しかし、健康な葡萄で無ければ上手く行かないことを実感で知っているようでこれはこちらもなるほどと感じた。

さてこうなると最高級のグラーフェンベルクのエルステスゲヴェックスが悪いわけが無い。今年のそれは香りも華やかでいよいよ本格的なグランクリュになって来たと実感した。それどころかアウスレーゼなども充分に酸が効いていて、これはヴァイル氏のコンセプトとそのマネージメントがいよいよ製品に活きて来たと感じさせる出来である。
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秘密結社フライマウワーに肖る

2010-09-04 | 雑感
アルペン協会の月例会の場所が先月から変わった。昨晩石切り場の帰りに初めてそのノイシュタット市内のワイン酒場を訪れた。二階に別室があってさまざまな集まりがそこを使っているようである。車の駐車さえ問題なければ雰囲気は悪くはない。壁を見ると目に付くのがフリーメーソンの集まりのそれであり、更にユダヤ人のそれもあってなかなか興味深い。

フランスの山岳協会支部との今後の催しや活動の話がされていたが、より本来のスポーツティーな方向へとより若い層に訴えかけようとしているのが大変好ましい。石切り場からの帰りの我々以外にも、アルプスの氷壁ルートの話やアンナプルナ山群でのトレッキングにおける高度順応の話題が出るなど一時とはそれほど顔ぶれは変わっていないのにも拘らず大分まともな話になってきている。

特に一人は、ピッツバリューなどやベルナーオーバーランドも熟知していて、それまでにも顔は見ているのだがなぜ今までその話を聞けなかったのかと不思議に思ったほどである。やはり今まではそうした本格的な話を披露する「場」が無かったのだろう。ヴェッターホルンやアイガーの日本人ルートの話となると、やはりこちらは頭に入っていることが多い。特に加藤兄弟や今井通子などの粘り強い攻撃で開かれた北壁のディレッチシマは、今や大分がフリー化されていて冬の最も興味深い対象となっている。また最近は頂上から崩壊が進む西壁を降りるのではなくて南壁を降りるのが推奨されているとは知らなかった。

三月頃のアルプスの高峰での活動など興味深い話が聞けた。そして共通の体験として、頂上稜線でのナイフエッジでのザイルパートナーが落ちたら、反対側に飛び込む実践とその経験談は緊迫した状況以上に殆どスプラスティックなコミック化されてしまうのがとても面白かった。要するに釣る瓶状に左右にぶら下がった二人が今度は声を掛け合いながらどのように同時に二人が稜線へと戻ってくるかという情景である。

ワイン街道という場所柄必ずしもその層が厚いとは思われなくとも、潜在的には十分な面子が揃っている筈なのだが、今まではどうも活動の流れが淀んでいてそうしたアクティヴなものを十分に掬い出せなかった会組織の問題点は、自分自身が最も体験している所である。
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IQの低い移民とその社会

2010-09-03 | 歴史・時事
「在日朝鮮人の暴力団組織率が高い」と然るべき数字を挙げて公にするとやはり大議論となるだろう。ドイツでのサラツィン騒動は政治問題となってきているので、日本などでも取り上げられてきているようで、しぶしぶこうしたタブーにも言及しなければいけない。

ドイツ連邦銀行の理事である著者の著作は発売前から話題となったが、その内容を確かめ吟味する必要などはない。出版や言論の自由と主張すれば触法しない内容である限りそれは致し方ないどころか、名門出版社が念入りに準備した出版であることで更なる議論も呼んでいる。

連邦政府はことの是非を裁判で争わないように、世界的な大事にならないように自主退職を促しているがさてどうなるだろう。そこに大統領の判断などが絡んでくると本当に馬鹿らしいこととなる。それも、本題であるドイツ連邦に住む誰もが思っているタブーよりも、ユダヤ人問題を取り上げて処置するほか無いという有様である。

「ユダヤ人は特殊な遺伝子を所有している」という主張は、合衆国にいるそれも東欧からのアシュケナージ社会が生み出した自らのユダヤ人としてのIDを強化するための議論であり、実はそれを問題視するとまた面倒である。しかしこれを以って人種主義者と呼んで差し支えない。

しかし、よりその議論の中心にあるのは文化的人種主義と呼ばれるもので、要するにそのタブーに触れる訳にはいかないのである。基本的にはドイツへとEUへと入ってくる移民の質に係わる議論であり、今年になってからもドイツの政治家の「IQの高い人間を優先して移民させろ」とした馬鹿げた意見がこうした問題の背景にある。

そもそも本国で職が無く外国に可能性を求めてくる人間などに「まともな人間」はいない。それは有資格者であろうとも無くとも全く同じで、上のようなセレクションをしようとする感覚自体が「IQ程度の低い政治家」の存在を際立たせ、そのようなドイツ人は追放してしまおうということだろうか?

ここに国籍や居住の自由の問題をいよいよ世界的な議論として始める契機がある。それを進めると将来的には国境の無い地球へと近づくに違いない。しかしそこでもやはり遺伝子的な問題と歴史文化的な問題は必ずや議論されるのであり、その両方が相まって様々な共同体や文化に潜むタブーに光が当てられることになる。

その書籍は、決して安物の暴露本のようなものではなくて少なくとも連邦銀行最高幹部の仕事にふさわしく様々な資料を提示しての主張に他ならず、それはまさに学問的科学的とかの給う修正主義者のそれにも似ているが、それ以上に結論がみなの心にある声であるだけに厄介なものとなり、そこに学術的主張ととして取り上げられたチューリッヒの研究所の女史がインタヴューに専門家として応えている。彼女も主張するように「なん世代にも渡って繰り広げられる遺伝子的な進化や衰退以上に、社会にとって重要なのは教育やその構造」であるとするのが本質である。

そして上のようなテーゼが確認されてそれが社会問題とするならば是正する方法はあるに違いない。しかし、ここで更に問題を複雑にしているのは、失業問題や教育の問題を議論する以上に、そうしたプロテスタンティズム的な世界観が絶えず批判にさらされる必要があり、こうした真っ当なユダヤ教を含む一神教的な世界観を自己批判する難しさであり、それに必要とされるIQ程度を所持しているドイツ民族がまるで日本民族のそれのように少ないことである。
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空中でぶれない体の芯を作る

2010-09-02 | アウトドーア・環境
今年の冬にたてた目標に達しようとしている。昨日も石切り場で三時間以上登っていた。力が入るようになったことは既に触れているが、体の軸がとても安定してきて、危ういバランスを取るときにも十分に対応出来るようになってきた。これはランニングの成果に他ならなく、こんなに早くそれが出てくるとは思わなかった。

プロ野球の投手が走りこめと良く言われているが、その事情はとても似ているような感じがする。やはり足腰が定まって重心の移動が速やかになるのだろう。恐らく今年スキーを再開したとすれば可也外足加重が上手く行くに違いない。これならば全くエッジの切り替えに不安を感じない。

岩登りにおいては、エッジの切り替えが速やかに行くというのは閉脚姿勢に於いて、つまり体を閉じた状態で重心が安定することで、上体が自由に使えるようになり、手掛かりを探すのに大変功を奏する。手掛かりをジックリ探すことが出来れば、最も良い姿勢で課題を越えることが出来、そうなるとまた重心が安定する。相乗効果を生む。

ランニングにおける下半身の強化と呼ばれるものの中に開脚した上体での空での体のバランス感覚が含まれており、出来るだけ歩幅を大きくして走りたいというのは、このバランス感覚を最も容易に養えるからと考えたからである。そしてその効果は顕著である。もう少し走りこみたい。現時点で最も欠けているのは爆発力なのであるが、集中力を絶えず養っているので、恐らく必要なときにはアドレナミンと共に出るだろう。

さて、体を解しに早朝走った。6キロ、五十分、四千七百歩であったが、その中で走った時間全部では二十分ぐらいだろうか。それでも、舗装道路を三百メートルほど、弱い登り気味の道を、何時もの下りを一気に空中でのバランスを考えながら走った。走り始めて三ヶ月ほどしか経っていないのに、内臓の機能強化を目的としてコンディション作りから強化トレーニングへといつの間にか推移して、思いのほか速効が表れた部分がまさにこの点であったとは大変驚いている。心肺機能やその負担はなんともいえないが、呼吸法やテンポ感も大分洗練されてきており、継続性が問われるような厳しいトレーニングではなくても、徐々により大きな負荷に耐えられるようになって来ているようだ。
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甘酸っぱい野いちごの風味

2010-09-01 | 文化一般
イングマル・べルイマンの「野いちご」を観た。子供の時からその荒筋や内容には並々ならぬ関心を持っていたものである。初めてそれもスェーデン語のそのものが観れるとあって、早速堪能した。英語の字幕なのでどうしてもそこに目が行ってしまって、スェーデン語は結局分からなかった。これが字幕が無いとかドイツ語の字幕であったならもう少しは理解できただろう。それでも思っていたほどスカンジナヴィア語は理解できなかった。やはりオランダ語とは大分違う。

冒頭の場面はライオンを下肢付かせ書き机に向う聖人ヒエロニウスそのものである。そして、それは有名なデューラーの絵を思い起こさせ、さらにハインリッヒ・マン原作マレーネ・ディートリッヒの「青い天使」無しには語れないだろう。要するにそこへと繋がる文化的な背景がこの映画監督四十歳前の大成功作の大前提となっているからこそ、この映画の価値があると判断しても間違いなかろう。

例えば、カトリックとプロテスタントの論争などはスェーデンのデンマークとはまた違う独自の気風を見るようであり、基本的にはここではプロテスタント的なエゴの「主体」が検証される ― まさに先日逝去したシュリンゲンジーフに言わせるとロマンティックなそれとなるのだろう。

想像してもいなかった素晴らしい軽やかさは、後年の更に苦渋をなめたような作風と比べてもこの映画の人気の一つとなっているのだろう。それが悪夢のシーンでの、殆ど月並みと感じるようなエピソードと良い対象をなしているようだ。霊柩馬車から滑り落ちた棺の中から自らの手が伸びてくるシーンに於いても、街灯の足にその車輪が引っかかる情景は圧巻で、針の無い時計やのっぺらぼうの町の人よりも効果が高いように感じられた。

「針の無い時計との再会」もそこでは伏線となっているのだが、如何にもありそうな悪夢の情景はとても上手く仕組まれていている。そうした情景にも通じるのが、この映画の最も優れた表現である情感の肌理細かさであると合点した。ああした抑えた情感の表出は中欧ではあまり見られないものであり、なるほどスカンジナヴィアがそれもスェーデンが舞台においても名役者を多く輩出しているのはこうした文化的環境があるからだろう。

比べてはいけないかもしれないが、そうした細やかさに比べるとなんとドイツのそれは大雑把なのだろう。しかし、ここで扱われている材料は、まさに批判的なプロテスタンティズムでしかなく、そしてその視線があるからこそ、演技のもしくは情感に深みと共に軽妙さを与えている。

なるほど小津や黒澤の映画が如何に優れていても、機微の細やかさと呼ばれるものの奥行きが定まらず、如何にもセンチメンタリズムと背中合わせになっているかは改めて指摘するまでもないだろう。この老教授を扱った映画に於いても、制作者の若気の至りか、夢の情景の月並みな表現が適度な塩胡椒とはなっているが、主演のヴィクトル・シェストレムの名演技に依存している面は少なくない。それゆえかオスカーや金の熊の映画賞を受賞する一般受けを達成している。

さてこれまで気になり続けていた映画であるが、まさに今年の秋の風情にふさわしい映画鑑賞となった。もし十年ほど前にこれを観ていても、あのシベリウスのトレモロの漣のような針金細工の肌触りはなかなか理解できなかったに違いなかったと、自らの加齢以上に欧州での生活の長さをそこに感じるのである。



参照:
アトリエのアルブレヒト・デューラー/Albrecht Duerer in Gehaeus 2005-01-10 | 文化一般
まだ言論の自由がある? 2006-02-17 | BLOG研究
改革に釣合う平板な色気 2008-01-18 | マスメディア批評
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