Wein, Weib und Gesang

ワイン、女 そして歌、此れを愛しまない輩は、一生涯馬鹿者であり続ける。マルティン・ルター(1483-1546)

教育がナットラン!

2017-05-17 | 
床屋に行った。どうも二月以来でまたまた三か月経過しているようだ。子供のころは毎月行っていたような気もするが、こちらでも二月間隔だった筈だ。本当に三ケ月於きになったとすると何かが変化している筈だ。髪の伸び方が遅くなったのか?それとも常時短くするような傾向になっているのか?なるほど最近は美容院なのでバリカンを思い切り入れて貰っているので確かに短いところはかなり短く刈り込んでいる。いずれにしても暑くなると髪が鬱陶しい。今秋は気温が摂氏30度近くになると言われているので、刈り込んでおくと安心だ。

朝一番で出かけたのでヤリ手婆さんに「助っ人はどうなった」と尋ねた。その言葉も可成りのプフェルツァー訛りで恐ろしいが、要は一度は見つけた助っ人は駄目だったので、辞めたということだった。結局口を聞かされるのだが、中々よい人が見つからなくて、需要供給が違っていて、応募する方はネットで情報を交換するから怖いというのだ。

つまり誰かを辞めさせると、直ぐにネットで「あそこの婆」はなんだかんだと書かれて、いいことは殆んど書かれないと愚痴する。つまりお客さんの前で揉めるようなことをするのが経験の無い二十歳から二十五歳ぐらいの子で、教育がナットランという。年代からすると1990年代に育っているのでなんとなくその感覚は分かるのだが、いつの時代も何処でも同じではないかとも思う。

それでも新聞で読んだところでは、職人にへのなり手が無くて困っているというので、現在ならではの問題もあるのだろう。婆は、「インダストリーパン」しか食べられなくなるしということで、これに関しては全くお話しが合うのだ。なるほど婆の主張である「街の美容室」に勤めれば残業も増えるしというのは結構反論になっていて面白かった。



参照:
ヴァレンタインの朝の夢 2017-02-16 | 女
これもヤリ手婆の腕捌き 2016-11-24 | 女
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1861年版のドイツ語上演とは

2017-05-16 | 文化一般
承前)週末はやくざな上演モンテカルロからの録画「タンホイザー」で腹立たしい思いをした。結局三幕まで通して観て、楽譜に目を奪われていて観ていない演出動画は美しそうだが、短縮のヴィーン版というものをフランス語で上演したものと理解した。ヴィーン版とやらを改めて調べないでも良さそうで、そこで上演されているように折角新たなに筆入れした音楽があっても、あのような上演形態と質ならばほとんど何も効果を上げていないことも確認した。寧ろその管弦楽の演奏からバランスが悪いような思いは強く、なるほど死の直前、ヴァ―クナーがコジマに「この世に借りを残したままだ」と気にしていた理由も分かる。あれほどの楽匠でも長い期間をおいての古い作風への筆入れが面倒な課題だったことがよく分かる。

それにしてもあれだけの綺麗な舞台を制作していて、態々ヴィーン版をフランス語上演しなければいけなかった理由は納得できないのだが、最終的には音楽的な趣味の悪さということになるのだろうか。ストッツマンという女性指揮者は歌手として成功していて小澤指揮で最近までアルトで歌っている映像があるが、そのような清潔な音楽が出来るような指揮ではなかった。管弦楽団だけでなくて指揮者にも責任があるのは間違い無さそうで、拍節がはっきりしないでも完全にアンサンブルが崩壊してしまわないのが見事である。それはタンホイザーを歌うホセ・クーラの歌唱も指揮者の責任だけではないのは明らかだった ― 昨年のザルツブルク復活祭で「何を歌っているのか皆目分かっていない」と非難された歌の伴奏がティーレマン指揮だったのも偶然ではなかった。

小節を利かした歌唱をも包み込んでしまうような拍節が無くなるような音楽運びが、所謂「オペラ指揮の妙技」というものなのだろう。このような塩梅だから音楽愛好家はオペラ劇場などというものには足を運べなくなるのである。タイトルロールがマグロのように横たわっているのを見ると村芝居にもなっていない。

うんざりしてそうこうしているうちに、ベルリンでの1861年版らしき上演のヴィデオが見つかった。序曲から流してみたが、流石に座付き管弦楽団でも同じ首都でも流石に質が月と鼈の違いである。バレンボイムの指揮はいつもの通りだが、これは全曲聞いてみなければいけないと思った。
Richard Wagner - Tannhäuser HQ


ミュンヘンの「タンホイザー」の新たなヴィデオが公表された。「弓と矢」の象徴らしい。矢に射抜かれるのはいつもタンホイザーらしい。ハープと弓の関係は面白いが、個人的にはやはり矢の運動性だろうか?
TANNHÄUSER – Castelluccis Bildwelten: Episode 2 "Pfeil und Bogen" (ger/en)


ヴィーン版をフランス語で上演するのに対して、ミュンヘンではパリ版をドイツ語で上演するのだという様子なのだが、ベルリンのそれとはどのように異なるのかの方が関心事になって来た。(続く)



参照:
「タンホイザー」パリ版をみる 2017-04-27 | 音
美学的に難しい話し 2017-04-25 | 文化一般
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モンテカルロのやくざな上演

2017-05-15 | 
承前)モンテカルロの「タンホイザー」は偉大な詐欺公演だった。パリ版と銘打ってフランス語上演されたそれはどうも後年短縮されたヴィーン版をフランス語で歌っただけというお粗末なものだったようだ。勿論フランス語の歌詞はヴァークナーが1861年のパリでの上演のために翻訳を依頼して、それに合わせたアーティキュレーションを変えたものがパリ版と呼ばれるようだ。そしてそれがこの上演で期待された訳だが、序曲からヴィーナスの丘へのみならず多数の短縮がある。つまりフランス語に翻訳された箇所も全部歌われていない。そもそも真面にフランス語で歌った歌手は殆んどいないようで、少なくともドイツ語版の楽譜を見る限りヴィーナス役のフランス人だけが真面に歌っている。それでもフランスの評ではスタイルが一人だけ異なると言われているので、なにか楽譜上の問題もありそうで、楽匠が苦心したそれが活かされているようには思い難いのである。
“Tannhäuser” de Wagner en français à l’Opéra de Monte-Carlo

"Tannhäuser" de Wagner en français - Live @ l'Opéra de Monte-Carlo

どの歌手も管弦楽もいかにも場末の演奏水準であったが ― 嘗ての首都の関係からかボンの劇場が共同制作しているので、斜陽のボンのみならず連邦共和国の音楽劇場の文化程度の問題が浮き彫りになる ―、フランス語が充分に歌えていないと評される主役の歌の通りに記譜されているとは誰も思わないだろう。

折角録画したのだが、三幕を続けて観てから消去するしか意味がなさそうだ。結局はネットではシノポリ指揮のパリ版だけが1861年版で、それが最も来週演奏されるミュンヘンの「タンホイザー」に最も参考になるようだ。(続く)

色々と言いたいことはあるが、そもそもマフィアのマネーロンダリングなどの泡銭で高度な芸術を期待する方が間違いで、幾ら財力があっても結局は「健全なる精神は健全なる身体に宿る」のように、カジノ経済などは文化を一切支えない。カジノへの横の入り口から400人の劇場に数十人が集ってのオペラが呆れる。関係者を除くと数人しか物好きが来ていない勘定になる。こんな劇場と関係を結んでいるボンの劇場とは一体どのような劇場だ。

朝の雨の後に峠を攻めた。調子は一向に上がらないが、気温摂氏15度ほどで雷雲の下で汗びっしょりになった。若干胸元も苦しい感じもある。今年初めて初夏の陽射しを感じた。今年は新緑をあまり感じられなかった。このような年はどうなるのか。少なくとも暑い日は今までなく、今日が最も暑い日と感じる位だからである。ここまで気温が落ち着いていると夏も涼しくなるかもしれない。それを期待する。


参照:
様々なお知らせが入る 2017-05-13 | 文化一般
美学的に難しい話し 2017-04-25 | 文化一般
高額であり得ぬ下手さ加減 2016-03-25 | 文化一般
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新たなファン層を開拓する齢

2017-05-14 | 
承前)ブルックナー交響曲の版にまでは話は及ばない。しかし三楽章のスケルツォでどうしても、今回は演奏会前半に演奏された変ホ長調のそれを思い起こしてしまうのは仕方がない。ひき続けて交響曲演奏会などに出かけると、どうしても古典派から後期ロマン派と呼ばれる交響曲までの大きな流れの中でしか一つ一つの創作を認識出来なくなってくる。交響曲という形式の宿命であり、それ故にこうした古典的な演奏会形式というものが200年以上の長い期間催されていることの根拠でもある。

抽象的な表現の為には自ずから形式が存在しないことには、創作自体が自己完結することもあり得ないのだろうが、管弦楽団という同じ楽器を使って演奏されることで更にその形式の枠組みが定まって来るということだろう。四分の三拍子であり、三部形式であり、ソナタ形式であり、それが形骸化しても腐っても鯛なのかもしれない。

今回のブルックナー交響曲四番の演奏はやはりヴィーナーホルンに否応なく耳を傾けることになるのはそのホルン主題からして致し方ない ― そして初めて補強のホルンが第二ホルン者とソロホルン奏者を囲むようにして、テューバの横に座ることを知った*。前回この曲を聴いたのはサイモン・ラトル指揮ベルリナーフィルハーモニカ―の演奏だったが、流石にピッチの高いヴィーンの響きは華やかで、ベルリンの抑制の効いた音響とは対照的で ― ラトルはマーラーよりもブルックナー向きのデジタルに媒体する指揮者だと思うが ―、作曲家は本当にこんなに派手な音響のバロックオルガンのようなものを想像していたのかと思った。調性の関係もあるかもしれないが、前回八番ハ短調をメータ指揮で聞いたときは感じなかったのはなぜだろうか?

ブロムシュテットの指揮はここでもとてもリズミカルな軽やかな足運びで驚愕するしかない。あのよれよれリズムのヴィーナーフィルハーモニカ―がこれ程軽やかなリズムを刻むのを聞いたことが無い。2013年に85歳でヴィーナーフィルハーモニカ―定期公演デビューというが、オペラ指揮者でないからヴィーンに呼ばれることも少なかったのだろう。

当夜は七割ぐらいの入りだったので、前半に目星をつけておいて、二階正面バルコンの前から数列目の真ん中近くに座ってみた。左右は分かっているが真ん中は初めてだった。ブルックナーの場合には想定通りその音響効果は大きく、テューバとトロンボーンを挟んで右にトラムペット、左にホルンの掛け合いはステレオ効果満載で、作曲家はどこまで意図したのだろうかと感じさせる。勿論右奥のヴィオラの旋律が圧倒的で、これも管などとの合いの手がとても効果満点に聞こえる。

さて、今回演奏された1878/1880年版と呼ばれるファクシミリ整理番号19476はハース版として手元に東独ブライトコップ社のものと同一である。しかし細かく見ると二楽章の強弱などは手書きには今回演奏されたように書かれているようだ。指揮者ブロムシュテットはファクシミリを参考にしているのか新しい校訂版を参考にしているのかは分からないが、可成り調べて正確に演奏しているのは間違いない。リズムをはっきり明確に切っていて、16分音符のスピカートが動機を刻むようにつけられていて、ブルックナー動機のゴリゴリした動機の形状が音化されている ― まことに残念ながらブルックナーを得意としたカラヤン指揮ではリズムが暈けてしまって全くそのようになっていない。当然のことながら弱拍に付けられたアクセントなどがとても活きる。

そのように主旋律と対旋律や動機などの組み合わせがとても上手く噛み合っていて、これが座付き管弦楽団の演奏であったことを忘れさせて見事というしかない。当然ながらスケルツォの躍動感も驚くほどで、同時にテュッティーでもギュンター・ヴァント指揮のように音像が野放図に解放されてしまうことが無くコントロールが効いていて多声の造形が崩れない。気になっていたルバート気味にトュッティに移行する傾向はブルックナーの場合は殆んど全休止の意味と同じように使われているような感じで上手く嵌まっていた。

そのような指揮のお陰で ― 真ん中の席のお陰だけでなく ― ブルックナーの交響曲における声部間の掛け合いや合わせ方がとてもよく分かる演奏だった。一般的な評価のように必ずしもブルックナーの管弦楽書法が不器用なだけとは言い切れず、ヴィオラの中声部の活かし方やファゴットなどの残留音などなるほどと思わせた。

そして、最終楽章のフィナーレコーダに至るのだが、これが如何にも後年の曲に比較するとストンと終わるのは良いが物足りなさを感じることになる。それでも、前記した金管楽器の掛け合いなどはとても「見応え」のあるものだった。このコーダーを含めて全体的にこの版の形でそれなりの均衡は保っているというのがこの版に関する感想で、これ以上制御の効いたシックな演奏となると前回のラトル指揮ベルリナーフィルハーモニーの求心的な響きしか対抗できないと思った。

最後に付け加えておかないといけないのは、当日の会場は今まで見たことが無いほど押し車などの補助無しに動けない爺婆たちが来ていたことだろう。売れ残りがあったので、身障者に券を配ったかどうかは分からない。しかし少なくとも90歳になろうとする同年輩の爺さんの指揮姿が健康への動機づけになることは間違いなく、この指揮者には新たなファン層が開拓されるのを感じた。秋にはゲヴァントハウス管弦楽団とのブルックナーの第七交響曲が楽しみで、出来ればまたヴィーナーフィルハーモニカ―でも聞いてみたい。(終わり)
Wiener Philharmoniker - Andreas Großbauer - Digitale Rose


参照:
ブルックナー交響楽の真意 2017-05-08 | 音
聖金曜日のブルックナー素読 2017-04-15 | 暦
モーツァルト:交響曲第25番/バーンスタイン=WPh (Zauberfloete 通信)*
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様々なお知らせが入る

2017-05-13 | 文化一般
戦後西ドイツを代表する音楽評論家ヨアヒム・カイザーが亡くなったようである ― アドルノやシュテュッケンシュミットはについては今ここには含めない。詳しくは改めるとして、確かにエッセイストとして文章は上手いが ― 吉田秀和よりはましかもしれないが ―、なぜか音楽評論というのは美学的に程度が低い。その理由は分からない。結局文章の上手さではなくて技術的に本質にまで迫れる才能が居ないからだろう。また再現芸術が評論の対象になってしまっているので創作の機微に中々触れることが出来ていないというのもあるかもしれない。
Friedrich Gulda im Gespräch mit Joachim Kaiser, 1986


漸くミュンヘンからお便りが来た。「タンホイザー」新制作初日へのお知らせである。週末には先駆けのお披露目マティネーが開かれる。総稽古の準備が出来たということだ。先ずは版の説明があって、これはパリ版採用なのだが、それのドイツ語版としてのヴィーン版に準拠しながら、更に遺言に忠実に従うということだ。つまり1861年版をドイツ語化してゼンガークリークの場面のヴァルターの歌などが補正されるということなのか。新しい響きを生かしヴィーナスの丘の場面の強調とそれに見合った修正が採用されて、短縮されないということなのだろう。
TANNHÄUSER – Castelluccis Bildwelten: Die goldene Scheibe

TANNHÄUSER: Podcast (German)


それに演出家は金の円盤を象徴的に取り入れて、日の出などタンホイザーの覚醒の度に表れてくるようで、仏陀の後光のようなものらしい。正直成功するのかどうかは疑わしいが、フォイヤーバッハの肉欲からショーペンハウワーの救済へと根拠は充分に用意されている。言うなればそもそものロマンティッシェオパー題目自体がヴァークナーの最終的な創作意図に合わない。要するにドレスデンでの初演を終えた後の楽匠自身の変遷そのものである。

この週末に「タンホイザー」のお勉強を一通り終わらせないと時間が無くなる。場末のオペラ劇場モンテカルロからのネット中継録画を観始めた。最初の生中継の時はこれはどうしようもないと思ったが、なるほどユダヤ人女性指揮者の無理な指揮や歓楽地の管弦楽団にはうんざりしながらも、とても価値のある上演であるようにも感じだした。とても貴重な記録で誰も見る人がいなかったのか殆んど完璧に録画できたのが幸いだった。

SWR放送交響楽団からプログラムが届いていた。シュトッツガルトとは関係はなくもなかったがバーデンバーデンとのような関係にはなっていなかった。だからなぜ届いたか分からなかった。中を見るとなるほど仲間が指揮をしている。最近はメールも来ていなかったので分からないが、他の関係ではないと思う。中を見て面白いのは、新しいメムバー表で、先ずは横滑りして合弁した形になっていて、両放送交響楽団が合わさった形になって総勢170人以上のメムバーである。どのように削減していくのかは知らないが、何年かのうちに普通規模になるのだろう。恐らくドイツで現時点で一番大きい管弦楽団だろう。

亡くなったと言えば先日名クラリネット奏者エドアルド・ブルンナーの訃報があった。一時は最も有名なクラリネット奏者だったと思うが、そのレパートリーなどから個人的にはあまり興味がなかった。バーゼル生まれのスイス人で享年77歳あった。
(1/8)21Marzo-Chiesa di Orsanmichele - Inaugurazione stagione


参照:
老練の老齢なレトリック 2008-10-22 | 文化一般
時代の相対化のサウンド 2015-12-08 | 音
時間の無駄にならないように 2017-05-09 | 文化一般
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現時点最高の2015年リースリング

2017-05-12 | ワイン
先日購入した「ハルガンツ」を開けた。これはグランクリュ「ハレンベルク」のセカンドワインとなる。2015年のこれは昨年の秋の試飲会でも評価は高かったが、結局「フリュータウ」を購入した。理由は、そのファーストである「フリューリングスプレッツヒェン」が買えなかったからである。結局そのフリュータウも殆んど飲み干したが、若干物足りなさを感じて来ていた。

そこで今回これを試飲してお客さんが皆気が付いた。2015年の「ハレンベルク」は偉大だったと。三本は購入しているので先ずは安心だ。業者に買い取られてしまった「フリューリングスプレッツヒェン」よりも「ハレンベルク」の方が価格相当に価値があるということだろう。

そして今回購入したセカンド六本は素晴らしい。若干こなれて来るのが早いぐらいだが、力の均衡は最近にはないナーヘリースリングで、20年ぐらいはヘコタレないかもしれない。名前が示す通り、「ハレンベルク」だけでなくレープホルツ醸造所の「ガンツホルン」を想起させても恥ずかしくないリースリングである。

先ず何よりも酸が綺麗に熟れていて、酸が突出するどころか旨味がある。最高の酸であり、暑い夏の力強さに拮抗しているので、驚くべき軽やかさと丸みがあり、静けさまであるリースリングである。パイナップルの香りもしゃしゃり出ることなく、均衡があって、ワインらしいワインである ― 残念乍らコルク臭で香りは判断が出来ない。それでも現時点では2015年産リースリングの最高峰であることは間違いない。

その前に2016年「ミネラール」を開けた。これは当日お披露目だった2016年産の中で「ハルガンス」に続いて最も味が確りしていたもので、価格差ほどの品質差はなかった。要するに2015年の「ハルガンツ」と2016年の差が甚だ大きいということになる。若干お茶を濁す形になったが、2016年のグローセスゲヴェックスの為にも自宅でゆっくり賞味したかったのである。

結論からすると、どれもこれも塩気の効いた「アウフデアライ」以外はそれほど魅力はなかったのだが、「フリューリングスプレッツヘン」のミネラルの清々しさが熟成を期待させたというぐらいである。つまりこのミネラールもリンゴの香りや土壌感は強く出ていても、酸が弱いので苦みとして感じる位で、本当のリースリングの美味さがあまり感じられない。

それでも先日購入した南仏のロゼから飲み変えるとなんともおいしく香り立つ自然の恵みだと感じさせる。若干の押しつけがましさを厭わなければ一本14ユーロのこれでも充分に楽しめるのである。如何にドイツのリースリングがフランスのワインに比較して高価で高品質になったかは言うまでもない。少なくとも白に関しては比較の対照ではなくなってしまった。恐らくEU内でのマーケティングを含めてフランスの方が動いてくると思う。



参照:
2015年産の売れ残りを購入 2017-05-07 | 試飲百景
検問逃れの試飲会帰り 2016-09-11 | 試飲百景
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「白鳥の歌」は常動曲の主旨

2017-05-11 | 
承前)ブルックナーの交響曲の前にモーツァルトの交響曲を置いたプログラムであった。90歳になる指揮者ブロムシュテットは、この組み合わせで方々で客演しているようだ。来シーズンもベルリンで同様なコンサートを行うようである。秋にも生誕九十歳記念として、極東ツアーの前に、欧州ツアーの一環としてバーデン・バーデンにもゲヴァントハウス管弦楽団と演奏するが、その時はメンデルスゾーンの協奏曲とブルックナーとなっている。九十歳記念に世界旅行をするというのは聞いたことがあるが、30日ほどの間に各地で20回ほどの演奏会を指揮するなどは聞いたことが無い。

そのモーツァルトの交響曲の演奏自体がとても生半可なものではなかった。ラディオ中継でも聞いたように何よりも細部まで目が行き届いた指揮を心掛けていて、それをヴィーナフィルハーモニカ―も無視できない形にはなっていた。その39番変ホ長調の妙は、天才作曲家モーツァルトのセンスの良い、細やかな筆使いにあると思う。そうした細かな筆入れとか、その前後の楽章を睨んで記譜している時の細かな動機の扱いやアクセントやフレージングの妙が感じられるときに、私たちはこの天才作曲家の実体に初めて触れる気持ちがするのである。

モーツァルトの「白鳥の歌」と呼ばれるこの交響曲を読み込む文字通り暗譜する90歳になろうとする指揮者にとっては、当然のことながらそうした芸術的な動機付けが無し通常の管弦楽団レパートリーとしての演奏会など出来る筈がない。そうした隅々に亘る配慮がなされていた。なによりもスケルツォなどでもテムポがしっかりと弾むのが素晴らしく、その指揮ぶりを見ている限り二十歳代の指揮者でもこれ程生き生きしたリズムを刻めるだろうかと思わせる。

更に立派なのは終楽章の繰り返しが確りと常動曲になっていたことである。全ての繰り返しを行っているのはもとより、スケルツォのリズムに続いてこうして終楽章の最後で元に戻ることで初めて納得させられるものは可成りこの曲の本質である。因みに模範的な演奏であるカール・ベーム博士の演奏は常動曲にもなっておらず、スケルツォは固いリズムで遅い。勿論キリル・ペトレンコのモーツァルトのように表情がついたジョージ・セル指揮と比べても遥かに純音楽的であるのは言うまでもない。

「白鳥の歌」と呼ばれて室内楽版などが19世紀にはとても売れていたようだが、この常動曲にはチャイコフスキーの五番の終楽章や悲愴交響曲の三楽章に匹敵するぐらいの終結感とその続きの関係が感じられる。常動曲の主旨は、チャイコフスキーの「白鳥の歌」とは異なるが、「フォアエヴァー」効果である。

先日ツィッターを見ていて、「進歩などはない」という安易な反進歩主義観が引用されていたが、なるほど啓蒙思想花盛りの19世紀的な、音楽で言えば「魔笛」の、「今日よりも明日の自己の方が啓蒙されて居る」という進歩はないかもしれない。しかし、例えば2013年のミュンヘンでの「影の無い女」新演出上演の「明日が今日より良くなるかどうかは分からないが」少なくとも不可逆な時間軸に沿って「前へと一歩進みでている」ことには間違いないのである。

もしそうした不可逆の時間軸を無視するとすれば少なくとも上の常動性などは意味を持たなく、そもそも音楽などは芸術でもなんでもなくなってしまうことだけは間違いない。(続く



参照:
鼓動を感じるネオロココ趣味 2017-04-10 | 音
天才の白鳥の歌と呼ばれた交響曲 2017-04-29 | 音
感動したメーデーの女の影 2017-05-03 | 文化一般
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身を焦がすアダージェット

2017-05-10 | 
承前)日曜日に録音したキリル・ペトレンコ指揮フォアールベルク交響楽団演奏マーラーの第五交響曲を流している。不思議なことに繰り返し聞くと目立つ筈のあらよりも音楽的な構成や作曲の真意が聞こえて来る。更に不思議なことに繰り返し聞いているうちに実況録音の音質まで改善されているように聞こえる。放送の時よりは録音したものを再生する方がアップサムプリングされていることはあるが、繰り返すうちに改善される理由は無い。あり得るとすれば再生するときの音量などが適格に設定できるようになるからだろうか。しかし技術的には、同じファイルを再生するのでPCにキャッシュとして上手に残ることで、HDDとの受け渡し時の読み取りエラーが減るということだろうか?

この交響曲の演奏は、東京公演や台北公演に先立って、6月6日にミュンヘンで行われされて中継放送されるので、詳しくは改めることにする。それでも行進曲の密なテクスチャーのところの見通しや普通は余りに技巧的になって音楽的な意味を取りにくい箇所もとても音楽的に処理されている。今までテンシュテット指揮のものも含めて何度か実演でも聞いている曲であるが、バレンボイム指揮パリ管やシカゴ交響楽団よりもあの圧倒的なショルティー指揮のそれを想起させるのが面白い。それほど徹底して微に入り細をうがつ ように指導しているからで、超一流の管弦楽団でなくても楽曲の本質に迫る技は今までの経験の賜物だろう。弦合奏が充分に芯のある音を出せないでも誤魔化しをしていないことで成果を上げている。流石に管楽器などはソロが怖いので助っ人がボーデンゼー沿岸から集まってきたようで、芯を形作っている。

そして鬼気迫るような指揮のアダージェットは、殆んどあのバーンスタイン指揮を想起させるが、どんなに強く歌い込んでもリズムが滞らないので、今まで聞いたことのなかったような焼けつくような愛の歌になっている。恐らく今まで演奏された中で最も燃え上がる歌ではなかったろうか。終楽章ロンドにしてもチェリビダッケ指揮のように拡大鏡で覗くようで、バレンボイム指揮ではなされ得なかったことがここで実現している。それでも殆んどのユダヤ系指揮者がフォームを崩して独墺系の聴衆に嫌悪されるようなグロテスクにはならない。とても清潔で清々しく客観的な面を決して失わない。そのテムポ設定に関しては6月に再び検証してみないといけないだろう。

「若人の歌」で感じた特別な雰囲気は、ここでもいつもの客演の枠を超えないながらも、必死で棒を振ってテムポが甘くなりそうなのを鼓舞している様子が聞こえる。「故郷の管弦楽団」でなければ業界基準として下手な演奏がキャリアー上で不利になるようなこの程度の管弦楽団では指揮をとらせないのだが、多感な時代に「労働移民」の父親がそこで弾いていた裏側を見ていた天才指揮者としては尋常ではない思い入れがあるのは当然だろう。そうしたあらゆる要素がマーラーの交響曲の隅々にまで表現されていて、そうした要素が、通常はどんな名指揮者でも音符と格闘するだけに終わっているものが、過不足無く過敏に表現されいたのがこの演奏だ。



参照:
ストックの石突きを購入 2017-04-30 | 生活
入場者二万五千人、占有率93% 2017-04-21 | 文化一般
インタヴュー、時間の無駄二 2016-07-24 | 歴史・時事
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時間の無駄にならないように

2017-05-09 | 文化一般
週末は天候が悪く、重い空気の中で汗を掻いた。相変わらず調子が出ない。毎年この時期は運動能力が落ちている。理由は分からない。

キーボードを発注した。25鍵盤のMIDI鍵盤である。二オクターヴで和音を鳴らすには充分だろう。従来使っていたROLANDのシンセサイザーにMIDI変換ケーブルで繋げるかどうかは分からないが、ブルーテュース仕様なのでUSB以外にも電池で電源を取っている。

ケーブルが無く、膝の上に乗せても音が出せるのは嬉しい。PCのソフトシンセサイザーを使ったことが無いので真面にハモるような音が出るのかどうかは分からない。それほど時間的なずれはないということなのでストレス無しに使えるのではなかろうか?なによりも紐付きではないので、必要な時だけ手元に引き寄せるような使い方に向いているのではなかろうか。

もう一つ良さそうなのがLINUXでも使えるということで、将来性もあるような気がした。

音楽のお勉強もこれで再び歌劇「タンホイザー」に戻ることになる。初日まで二週間を切ったが、まだ公式のお知らせが出てこない。産みの苦しみがあるのだろうか。

ハムブルクのエルブフィルハーモニーの来シーズンのカレンダーが発表された。結局昨シーズンと変わらず態々出かけるまでのものは、ニューヨークに飛ぶ前のキリル・ペトレンコ指揮のコンサートしかなかった。そしてそれも、忘れていたが、バーデン・バーデンでの舞台神聖劇「パルシファル」の初日が重なっている。あとは態々遠くまで出かける必要のあるそうなものは皆無だった。精々クリーヴランドの交響楽団演奏会ぐらいである。フランクフルトのアルテオパーのカレンダーを見ると殆んど同じようなもので、如何に非芸術的な興業こそが商売になるかということしか感じさせない。ケント・ナガノは盛んにコンサートを振る機会が与えられているようだが、座付き管弦楽団を幾ら振っても詮無いことである。

お陰で無駄な交通費も掛からない、動かないことで環境も守れるので助かる。なによりも時間が無い。年に三回ミュンヘンに出かけて、バーデンバーデンに数日出かけるだけでも、お勉強している時間が無い。なんら準備せずに出かけていたものの多くが忘却の彼方に行ってしまっていて、プログラムなどを発見しない限りすっかり忘れてしまっているものが多いのである。如何に無駄な時間と金を費やしたことだろうと反省するのである。

以前はそれにアルコールなどをオペラや音楽会前に引っ掛けていたものだから、まさに娯楽つまり時間の無駄でしかなかったのだ。そのような時間があるぐらいならば生産的ではなくとももっと快い時を過ごしたいものである。



参照:
復活祭音楽祭のあとで 2017-04-13 | 生活
復活祭音楽祭の記録 2017-01-21 | 文化一般
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ブルックナー交響楽の真意

2017-05-08 | 
ブルックナー交響曲4番「ロマンティック」を聴いた。今年90歳になるヘルベルト・ブロムシュテット指揮ヴィーナーフィルハーモニカ―の演奏だ。19世紀後半を代表するブルックナーの交響曲は、その後のマーラーの交響曲に比較すると、今でも世界的には充分に理解されていない。理由ははっきりしているのだが、それよりも先にブルックナーの本質的な要素に触れたのがいつものようにシマンスキー氏の公演前のオリエンティーリングだった。

第九番のときにもそのスケルツォをして、蒸気機関駆動としてのイメージを挙げていたのだが、同じ主題の交響曲を書き続けたこの作曲家の場合、当然ながらそれを遡る形でここでも産業革命時代を代表する交響作曲家としてのブルックナーを読み解くことになる。しかし、当然ながらそれだけではないのは当然で、まさしくこの交響曲四楽章コーダーに、一挙に再起する主題群つまり、弦のトレモロの機械のカムの回転音、ホルンの日の出、呼び出しの主題と各々が三位一体をなしていることになる。

自然主義の日の出や鳥の囀りなどは、ブルックナー自身が当時の聴衆に説明した霧の中に浮かび上がる中世のお城の騎士の世界や狩りのホルンのロマンティックな夢想と決して相性は悪くが無いので、比較的馴染みのある純粋音楽へのイメージであろう。しかし、呼び出しの主題、つまり第一楽章でのホルンの響き自体が呼び出しであり、ストラヴィンスキー作曲「春の祭典」とあまり変わらないことになる。その後半の三連符の上昇もまさにそのものとなる。そして何を呼び出しているかになるのだが、この作曲家のスヴェデンボルグ同様に神との遭遇を記録している神秘主義で密教的な書付けから、それは明らかとなる。つまり本人のビーダーマイヤーの世界観に訴えかけた解説では充分に言い尽くされていない部分である。

しかし恐らく一番問題になるのは、産業革命後の蒸気機関の響きがどこまでメカニックな形でこの交響曲作家の音楽主題になっていたかということであろうか ― それがなぜベートーヴェン的な動機処理ではなくなるのは容易に理解できるであろう。マーラーに至っては市電に乗り続けていた所謂てっちゃんであったことは知られているが、寧ろ音楽的にメカニック的なところはブルックナーの交響曲のようには目立たない。勿論ブルックナーの創作過程を見るときには、同時に例えば「タンホイザー」におけるヴァークナーとその後の「ジークフリート」のかなとこの音楽などを並行して観察することが助けとなるに違いない。つまりこの交響曲が作曲されたときにはまだまだヴァークナーはそこまでの近代的な創作をしていなかった。

いずれにしても産業革命の蒸気機関に代表される圧倒的な力こそが、密教的な感覚からしてもカトリック信仰の見地からしても、最も重要な時代の鼓動だったことには間違いない。そのメカニズムもエンジニアリング的な発想であればあるほど本質的となる ― それはコペルニクス的な発想に近いかもしえない。そうした意味で、ブルックナーの動機の扱いこそがデジタル的であり、アナログ的なマーラーの主題とは対照的とする考えは半世紀ほど前からよく知られていたが、それは強ち間違いではないであろう。(続く



参照:
ブルックナーの真価解析 2013-12-17 | 音
「大指揮者」の十八番演奏 2014-03-18 | 音
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2015年産の売れ残りを購入

2017-05-07 | 試飲百景
ナーヘのシェ―ンレーバー醸造所に試飲に行った。例年は秋に行くのだが、今年は都合が悪そうなので、予約価格でグローセスゲヴェックスを注文出来ることでもあり、先ずは駆けつけた。ジュニア―の家族が増えたこともあり立派な新居が出来ていた。所謂二世代家族が同じ敷地に住むという日本にあり勝ちな家族環境である。流石に屋根だけは別になっている。未だに先代が醸造所で権威を保っているからだろう。

その先代に霜被害の話をすると、「それは止めて2016年を楽しもう」と言うので、そのダメージの大きさを窺い知れた。実はその前に先代の奥さんと話していて事情はよく分かっていたのだ。斜面御中腹がやられていて、ハレンベルクは全滅している。そのあとの芽が果実をつけるかどうかは分からないという。バーデン・ヴュルテンベルクでは、ワインと果実栽培の被害を補償するとあったが、ランプファルツも珍しいほどの大きな被害となったようだ。

先代の奥さんに歓迎ゼクトについて尋ねると、最後の瓶詰め以外は完全にシャンパーニュ方式であることが分かった。するとその価格が極安であることが分かって、二本購入しておいた。じっくり一本呑んでその評価をしてみたい。

我々のすることは、いいワインを早めに購入しておくことで、少々財布のひもを緩めても購入しておくことが、業者に儲けさせるのではなく、醸造所も助けることになるのではなかろうか。さて、2016年の出来はどうだったか?

正直、酸が効いていない。水っぽく、想定したような果実風味も少ないのはナーヘでは仕方がないのかもしれない。そこで見直されたのが売れ残っていた2015年産である。この日のヒット商品は、2015年「ハルガンツ」だった。昨年の秋の試飲時にはまだ買えなかったが、こなれて来ていて、その濃くが素晴らしく、殆んど「ハレンベルク」のように楽しめる。二年ぐらいかけて楽しむか、購入してした「ヘレンベルク」のパイロットワインとなろう。

それに比較すると、2016年のそれは水っぽく中抜けしたような塩梅だ。酸も薄く、飲み易いが本当に楽しめるリースリングとはなっていない。それ故にどちらかというと、「ミネラール」や「ハルガンツ」、「ハレンベルク」の方が「レンツ」や「フリュータウ」、「フリューリングスプレッツヘン」よりも楽しめる。逆に力が弱いので、樽試飲の「フリューリングスプレッツヘン」のミネラル味は、開花した時の楽しみを期待させた。その意味ではオークションワインの「アウフデアライ」における塩味は秀逸だった。

総論すると、ナーヘにおける2015年は決して悪い年ではなかった。酸も充分で、下位のワインでも将来性がある。逆に2016年は上位のワインでもそれほど長い保存は考えない方が良いワインである。

ザールから来た夫婦と最後まで話していたのだが、ザールワインよりもデーノッフ醸造所の方が美味いということで、またファン・フォルクセム醸造所が2013年以降良くなったことも知らなかった。灯台下暗しのようである。

何時ものアールのアデノイヤー醸造所の最高級のGGシュペートブルグンダー2012を飲ませてもらったが、初めて満足のいく赤だった。上の夫婦はナーヘの赤には懐疑的だったが、これは出汁に合う赤ワインと理解した。33%の樽以上にシーファーの味がにじみ出していた。



参照:
検問逃れの試飲会帰り 2016-09-11 | 試飲百景
雨のナーヘの谷を回遊 2014-09-14 | 試飲百景
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LEKIの皿留め部品を入手

2017-05-06 | アウトドーア・環境
シュヴァルツヴァルトに発注していたLEKIの部品を入手した。早速ストックに嵌めてみる。先ずは一番細い内径10ミリの留めを差し込んだ。予想に反して、恐らく力を掛けて差し込んでも3㎝ほどしか刺さらないようで、皿から下がそれだけ短いと雪渓でも使い難いのではないかと思った。勿論冬のスキーには口径の大きな皿を付ける予定なので、これではほとんど役立たずで、雪面に先端だ刺さらない。

次に一番大きな11ミリ径のを差し込んでみる。これは予想通り、8㎝ほど上で固定されて、皿から先端までがあまりに長過ぎて、これまた先端が刺さり過ぎる若しくは皿が殆んど用をなさないことになる。

そこで真ん中の10.5ミリ径を差し込むと、先日購入した先端付きのものとほぼ同じ先端から5㎝ほどのところに皿が固定されることになる。また、以前使っていたものもほぼその位の位置に皿が付いていたので、先ずはこれで良いだろうと思った。

意外な結果で、最初からこの大きさだけを選定することは不可能だった。三つを同時に発注したのは正解だった。さて、同時に発注した夏のアルプス用の皿は62ミリ径で、以前アルパインスキーで使っていたものに近い。普通の山靴で歩くような積雪ならばこれでも充分だと思う。

さて肝心の重量は、留めプラスティックが約2グラム、皿が約6グラムで、想定を可成り下回り、ストック共々240グラムにしかならない。つまりLEKIの通常のものよりは軽く、今まで使っていたものよりも6グラム軽量化している。

更に良いのは皿が回転しないので、立ちながらで、皿を使って作業が出来ることだろう。勿論冬のツアーになると、そこで締め具の登行補正角度を変え易くなる。今までは面倒だからあまり変えられなかった。そして深雪の為に大きな皿に付け替えられる。重量も軽量化が果たせるので、投資の価値は充分にあったと思う。

新品を購入すればそれで終わったのだが、カーボン素材の方が折れるときは折れやすく、それほど目立った大きな傷がないアルミ製は簡単には折れ難いと考えた。先ずは夏山で思う存分使いたい。



参照:
ストックの石突きを購入 2017-04-30 | 生活
スキー場をかすめるツアー 2017-02-27 | アウトドーア・環境
小屋から出でて小屋に入る 2017-02-06 | アウトドーア・環境
ドロミテ行備忘録四日 2006-07-25 | アウトドーア・環境
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芸術の行つくところ

2017-05-05 | 文化一般
新聞に新しいドレスデンのコンサートホールが紹介されている。旧民主主義共和国文化宮内のホールが、ワインヤード型に一新されたようである。多目的に使われるようだが、ドレスデン市の名門フィルハーモニーカーがそこを本拠地としているらしい。そして興味深いのはエルプフィルハーモニーのそれとは正反対の音響を備えているということで、ユリア・フィッシャーのソロと管弦楽団は分離して聞こえても、全奏となるとプルームになるらしい。そもそも上手な管弦楽ではないのだから演奏が下手なのか、はたまた会場が悪いのかは分からないのではないか。所謂19世紀の和声の響きを美しく導き出すとすれば、現存の指揮者としてはハイティンクなどが有名なようだが、管弦楽団が超一流でなければただの場末のバンドになってしまうからどうしようもないのではなかろうか?

フラッターエコーなども目立つということで調整は必要であり、土間席では頭上を音が過ぎていくので、ベルリンのように舞台の高さを低くしなければいけないと書かれている。現在の指揮者ザンデルリンクは契約を延長しないことには変わりない。その名前の親父のインタヴューを偶々見た。エフゲニー・ムラヴィンスキーについて語るインタヴューである。キリル・ペトレンコの指揮台に落とされる視線を見ていてどうしてもムラヴィンスキーの指揮ぶりが気になったからである。そしてチャイコフスキーでも譜捲りをしているのを見て、全く同じだなと思った。執拗に練習する時間もとれたのであり、それだけの権力を持っていたのだから、その芸術の行きつくところが恐ろしい。
Tchaikovsky Symphony No 5 E minor Yevgeny Mravinsky


そのペトレンコは、来シーズンベルリンでプロコフィエフの協奏曲以外にリヤードフ、シュミットのプログラムを指揮するらしい。それぞれコーミシェオパーとケルンの放送管弦楽団での録音でYOUTUBEでは御馴染みである。四月にニューヨークから帰ってきて殆んど勉強する時間が無いのだろう。興味深いのは協奏曲にシナ人の若い女性をソリストとして迎えていて、まるで追い出すランランの代わりにシナでの市場でも反感を買わないように配慮しているかのようだ。

会見でサイモン・ラトルは、キリル・ペトレンコが後任として選ばれて、「とても幸せだ」として「彼は大物で、素晴らしい音楽家」と称賛した。そして、今後も自ら指揮台に登場することを示唆して、またブリクズィットについては、「破局、百難有って一利無し」と正直に言明している。現時点でもそのような声が出ることがやはり英国の苦悩はまだまだこれからと思わせる。来年六月にサイモン・ラトル監督のお別れ興業として欧州ツアーが組まれている。どうしてもそのあとのザルツブルクとルツェルン音楽祭のプログラムが気になるが、2018/2019年シーズンの初日と同じになる筈で、一体誰が指揮者でどのようなプログラムになるのだろう。
Sir Simon Rattle announces the 2017/18 season of the Berliner Philharmoniker


今最も請われている実力派指揮者と言えばルツェルン在住のあの人しかいない。来年91歳を超えるヘルベルト・ブロムシュテットである。初めてのその指揮ぶりを楽しみにしているのだが、さてどうだろうか?先週末の録音を繰り返し聞く限り、ここぞというところで一息入れて貯めて棒を振り下ろすような感じである。フルトヴェングラー、トスカニーニ、ヴァルターの影響を受けたという指揮者であるが、実演ではその癖はどのように聞こえるのだろう。折角正確に譜面を読み取っているのだから、ペトレンコのように律動を維持しながらアクセルとブレーキを自由自在に掛けられれば問題ないのだが、さてその真意はどこにあるのか。
Bruckner: Symphony No. 6 / Blomstedt · Berliner Philharmoniker


参照:
エルブの容赦無い音響 2017-01-16 | 音
地方の音楽会の集客状況 2017-01-23 | 文化一般
インタヴュー、時間の無駄四 2016-08-03 | 音
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2016年産の果実風味への期待

2017-05-04 | ワイン
本格的な試飲会シーズンが始まる。その前に情報が集まって来る。速報としては先月20日から24日にかけての寒気の霜で大分やられたようだ。少なくともブルグンダーは壊滅的だろう。リースリングも収穫量が落ちそうである。霜が降りる場所と風通しが良くて寒気が溜まらない場所があるが、厳しい年度になるそうだ。水浸しの春と初夏だった2016年の果実風味に賭けた方がよさそうで、来年はまた価格が上がるだろう。インフレである。

その2016年産は、ミネラルにはあまり期待できないとしても余り黴臭くなければ良しとなろう。そしてフォンフォルクセム醸造所のように天然酵母を重視するとどうしても瓶詰めの時期も遅くなる。ビュルクリン・ヴォルフ醸造所のように一年遅れが通常の瓶詰め時期になっていくかどうかは分からないが、こなれたリースリングが益々評価されるようになっていくのであろう。

そのヴァヘンハイマーオルツリースリング2015年を試飲した。はじめであるが、まだまだ若過ぎるとしても、あの暑い夏のお陰で、例年のように酸が表に立ちはだかりミネラルが後ろについていくようなものではなく、ミネラルが先に出てくる感じで清涼感は比較的少ない。それならば綺麗に熟して葡萄らしくられば良いのだが、半年以上もしくはもう一年寝かさないといけないかもしれない。但し、決して重くはないので、酸が強く出ないのでリースリング指向以外の人にも勧められるかも知れない。

2016年グーツリースリングも試したが、こちらは若過ぎて酸が前に出て、どちらが高級ワインか分からないような塩梅だ。それでも充分に酸が効いているので時期が来れば表彰されるかもしれない。半年ぐらい待たなければいけないが、同じように2015年グーツリースリングが既に売り切れているので業者のように先行投資するだけの目利きが必要となる。少なくとも現時点では、一年前のオルツリースリングの方が飲みやすいという奇怪な現象になっている。

その意味からは2015年ダイデスハイマーオルツリースリングは嘗てのバッサーマン・ヨルダン醸造所ののラーゲンヴァインを想起させるようなテロワールが楽しめて、14ユーロはなかなかお得な価格だと思う。

予約していた2014年フォルスターオルツリースリングのマグナムを回収した。残念ながら通常のスクリュー瓶は売り切れていてパイロットワインは数少なくなってしまった。二年が我慢できないと駄目である。マグナムとなると少なくとも5年から10年は寝かしておかないと綺麗に開かない。それでもグランクリュの半額以下の価格である。

2015年産に比較すると2014年産は色々な意味でお得だと思うが、2016年産は酸がどれぐらい聞いているかが購入の目安だと思う。基本的には安物のワインほど酸が効いていないようで、雨の影響が早摘みワインにより多く表れているということではないだろうか。



参照:
なにか目安にしたいもの 2017-04-22 | 雑感
まろみが嬉しい自然な呼吸 2017-03-05 | 試飲百景
三分咲はまだかいな 2017-02-07 | ワイン
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感動したメーデーの女の影

2017-05-03 | 文化一般
メーデーの晩は、楽劇「影の無い女」を観た。手元にヴィデオは保存してあるので、折角のARD中継だからと、小さな画面を観乍ら録音だけをした。出だしの景と染物師バラックと嫁さんのいい場面を観ていて気が付いた。今まで観ているものとはカメラアングルが異なることに気が付いた。嫁さんの美しくないお尻を掴む場面で、そのあとにキリル・ペトレンコの指揮姿が映っていたのが、放送では綺麗な角度でそのまま舞台が映されていた。

調べてみると、ARD-Alfa放送のHPには12月1日の上演録画となっている。初日が2013年11月21日であるから、いつものように初日シリーズの最後の方で生中継録画されている ― 初日はラディオ放送があったのだろう。通常は劇場のネットストリーミングだけなのだが、このときは劇場再開50周年並びに音楽監督初新制作ということで通常のARDチャンネルで生放送されたようだ ― 残念ながらオペラなどには関心が無く、TVも観ないので全く記憶にない。つまり、今回放映されたのは、手元にあるフランスで生放映されたものとは、一部異なり、画像のみ編集されているのだろう。

音質は、最初の幕開けのPAを通った演出上の音は割れているが、今まで気が付かなかったようなプロムプターの声がひっきり無しに聞こえる位で、倍音成分も伸びていて、臨場感溢れてとても新鮮であった。だから今までのヴィデオに比して大分良好で、高音質録音した甲斐があった。個人的には劇場中継版で充分であり、演出作品を態々観ようとも思わないが、確かにカメラアングルがすっきりしていた。

今回改めて通してみて、歌手陣は2014年暮れの再演の時からすると初日シリーズは当然良い。そしてこの7月にも再演されるようだが、ティケットがまだ余っている ― 昨年「家庭交響曲」を学習してその影響が活かされる筈だ。少なくともコッホのバラックとパンクラトーヴァの嫁さん役だけでも間違いなく聴きものである。今回も名場面を観ているとこちらも感情が昂るほどの素晴らしい舞台である。そして先ごろ亡くなったボータの皇帝と乳母役のポランスキーが皇后を演じるピエチョンカを更に引き立てていて見事である。

こうして繰り返し観てもやはりペトレンコが「他のシュトラウスのオペラと比べて複雑で多面的で、見落とされがち」と語っている通りに、模倣の作曲家もここで「ばらの騎士」のエンターティメントから抜け出そうと戦っている。そして、7月のティケットが完売していないのにもみられるように、やはり多くの聴衆にとって難しい作品ということであろう ― 「モーゼとアロン」のイデオロギーでも無く、知的程度の高さでも無く、大地に根を張ったような文化やその教養が試されているからかもしれない。偶々予定があるので出かけられそうにないが、これだけ美しい音楽を三時間も楽しめるならば出来れば再訪したいと思う。音楽劇的にも全く古びておらず、内容的にとても新鮮だ。

それにしても久しぶりに三幕まで通して観て ― 三幕だけは天井桟敷の最前列で舞台が見たが、こうしてより新鮮な音質で聴いて、三年前のそれへの記憶が遠くなっているのに気が付いた。こうして良い音色で聞き返さないと感覚的に記憶を呼び起こされなということだろう。しかし視覚的には殆んど覚えていなかった。どうも初めてみる指揮ぶりばかりを眺めていたのに違いない。

Video Magazine DIE FRAU OHNE SCHATTEN – Conductor: Kirill Petrenko

参照:
竹取物語の近代的な読解 2014-12-31 | 文化一般
入場者二万五千人、占有率93% 2017-04-21 | 文化一般
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