Wein, Weib und Gesang

ワイン、女 そして歌、此れを愛しまない輩は、一生涯馬鹿者であり続ける。マルティン・ルター(1483-1546)

ネット署名の楽友協会

2020-09-15 | 雑感
ネット署名をした。シュトッツガルトの友人から回って来たメールには、ベラルーシの反政府運動の女性が拉致されたとある。劇場のHPには、メルケル首相宛ての文章に七日にミンスク市内で拉致されたとその状況が書いてあり、仲間はウクライナに護送されて、彼女マリア・カレスニコヴァはパスポートを破くことで退去を逃れたが、ベラルーシの秘密警察若しくはKGBに拘束されたとしている。

彼女はシュトッツガルト在住で、Eclat音楽祭をオーガナイズしていることで、彼女の仲間として拷問もあるとされるベラルーシでの彼女の身柄に危惧している。EU各国と共に彼女の安全を図るように求めている。

実はベラルーシの実態はよく調べていないので、ウクライナの時よりも分からない。しかし、危険なことになっていることは理解できたので、先ずは署名した。

なぜかシュトッツガルトの劇場は、例の有名な演出家の時にも活動していたが、こうした活動の割には演出などでそれほど事件になっていない。長く出かけていないので様子は分からないのだが、地元の人にはそれほど評判が良くない。

キリル・ペトレンコの嘗てのインタヴューからの記事には知らない事が書いてあった。その原稿は、ペトレンコがミュンヘンの座付管弦楽団と初めて凱旋公演をしたヴィーンの楽友協会の機関誌のようだ。だから2015年4月号である。その20日に、ゲルハーハーがハルトマン作品を歌い、ラヴァルスで初めて幻想交響曲で終えるというフランスものが演奏されている。翌月に「ルル」の初日があったのだが、そのプログラムの放送があったのかどうかも記憶にない。

それは兎も角、新情報は、ペトレンコがフェルドキルヒに移った時は、当地の音大ではまだピアノ科に通っていたという事実である。実際にはそこで指揮をして経験を積んでいたようだが、ヴィーンのウロス・ラソヴィッチ教授の所で一から指揮を勉強したという事だ。20歳だろうか?これは大きな盲点で、そこ記事に書いているように、ペトレンコ曰く「僕が僕として認識してからは殆ど毎日フィルハーモニーに居て、指揮台を下をそして指揮台をウロウロしていた」というのだから、指揮は早く始めていたと思っていた。

ラフマニノフに心酔してそればかりを弾いていたというのは知っていたが、また指揮云々も書いてあったので、てっきりミドルティーンでは基礎的に習っていたと思っていた。それが20歳となると大分異なる。しかしそのあとでビュシュコフの所では教えることは無かったとされていている。

ソ連ではなかった自由な教育に目覚めて、図書館などでCDを借りて散々聞いていたようだ。そしてピアノをフェルドキルヒでも一生懸命練習していたのは指揮者の仕事が無かった時の為の職業訓練という事で、指揮者以外には考えていなかったという。

実はそのペトレンコ、楽友協会でのデビュー公演は1997年で指揮科の卒業試験の時のコンサートだったとあるそのコンサート情報は以前に見たことがあった。そして当該記事は2009年のフランクフルトでの「パレストリーナ」新制作指揮と繋がっている。因みにその節の実況録音はCDとして発売されている。(続く



参照:
音楽劇場化へと集中 2019-10-19 | 文化一般
不適切な「ポジティヴな移民」 2019-10-27 | マスメディア批評

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ザルツブルクのブラームス

2020-09-14 | 
午前中はヴィーンからの中継録音を聴いた。ザルツブルクで八月末に演奏されたベルリナーフィルハーモニカーの演奏だった。例年の様に二種類のツアープログラムから最初のベルリンでのオープニング演奏会と同じプログラムが放送された。

この演奏会に行かなかったのはベルリンの翌日の当日移動でどれほどの演奏がなされるか、また音楽祭の先行きが不明だったからである。そして何よりも遠い。そして最低このプログラムは11月にはフランクフルトで聴ける。

なによりもこの放送に期待したのはミュンヘンから出かけたバイエルン放送協会での評とその触りの音がとても良かったからだ。そして、ベルリンでは不満のあったシェーンベルク作曲「浄夜」が想定通り扇型の祝祭大劇場で良く鳴る。ベルリンのフィルハーモニーはワインヤード型で音の分離は良いのだが今回の様に間隔を空けた合奏ではマイクからは頑張っているコントラバスなどが不自然に響いた。

放送でも紹介のあったようにマイクロフォンの設定も考えたようだが、何よりも舞台で綺麗に響いていなければマイクでも駄目である。一番の良さは微妙な交わりで、それに関しては嘗ての見本とされた大阪のフェスティヴァルホールに通じるものがある。音の重なりが重要で、未だに神戸で聴いた岩淵良太郎指揮のそれがイメージにあるので、今回は漸くそれに匹敵するものが聴けた。勿論シカゴ交響楽団をダニエル・バレンボイム指揮の録音とかの精度とか響きとかは別格だと思っていたが、特別な間隔でもそれに劣らない響きをライヴで聴かせたのは見事だった。そこには強調された神秘主義も恍惚感もそれほどないのだが、なによりも本来のプログラムであったヴェーベルンのパッサカリアに代わるだけの意味は明白になった。どうしてシェーンベルクが12音を使った作曲技法へと進んで行ったか、同時にそれはブラームスの四番交響曲のシェーンベルクからの視座が明白となった。恣意的なプログラミングとは大違いのまさしく演奏実践としてのそのプログラミングである。

そして愈々のブラームスだ。ミュンヘンで大変な演奏を聴いてから、ヴィーンでの似ても似つかぬ実況中継を聴いて、ベルリンでの開幕演奏会で溜飲が下りた。同時にミュンヘンの座付楽団とは異なり技術的特に管楽器などが確りと弦と合わせてくる。これだけは管楽器の一人一人の力量の差が如実に出ていてどうしようもなかった。しかし、ベルリンでは第一楽章でも上手く噛まず、三楽章でも傷もありとなっていて、格別楽器間のバランスとタイミングが難しそうだった。

その分、音響の差異を利用して若干ゆったりと指揮していて、その管と弦の受け渡しが見事だった。前日にペトレンコが珍しく自画自賛しているのを観て、ここまで翌晩には直して来るかと驚愕した。まさしくブラームスのこの交響曲にあるイデーは、新古典主義として片づけてしま得ない。そしてこの特別な条件で演奏されたことは恐らく歴史的な意味を持つと思う。

ネットで調べ物をしていて、キリル・ペトレンコに関する新たな記事を見つけた。その内容は一部知らなかったことに触れていて、とても興味深かった。その内容についても改めて紹介したい。

胸がすかすかする。明らかにコロナ症状である。なぜ急にとは思う。近辺で流行っているようだが、陽性者は少し増えて指数6になっている。季節の変わり目で咳をする人が多いが、これがコロナ症状である。一週間ほど経って徐々に回復してきているが、五月と同じように綺麗に抜けきってくれるだろうか。



参照:
衝突する伝統からの確立 2020-09-04 | 音
マスク禁止運動を展開! 2020-09-02 | 生活
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怪しくなる10月の予定

2020-09-13 | 生活
十月の演奏会の開催が怪しくなってきた。既に開催地ブレゲンツ、フェルドキルヒは其々新感染者指数が52、60とドイツにおける要警戒数値50を超えてしまった。それが継続して下がらないとロックダウンとなる。それどころかその間の泊まるドルンビルンは何と118である。残念至極だ。両地域ともに特に指揮者ペトレンコの第二の故郷では細心の注意を払ってホールを運営している。それがこのような数字になってしまっている。

オーストリアの西端のボーデン湖に繋がるフォアアールベルク地方は相対的に国境のドイツ側との差はなかった。しかしここまで高くなると国境線でも注意しなければいけない。現時点では反対側リンダウは14.7と落ち着いている。

先週までは50を超えるところはなかった。しかし東端の首都ヴィーンを閉鎖しない内にここまで感染が広がってしまった。インスブルックも悪かったが、第二期においては徹底的にクラスターを叩いて行かなければいけないのだ。その為のPCRテストであって、オーストリアは延べ百三十万件の検査を実行していて、数からは国民の二割へと近づいている。因みに同規模の大阪府は今でも一日に2000件も検査していないので百日経過でも二十万件にしか至らない。

依ってクラスター潰しを徹底的に出来る筈なのだが、ヴィーンは新感染者指数が154と桁が違う。政府自体は危険信号を黄色からオレンジへとしようとしたようだが反対が多くて制限強化へとは至っていない。ポピュリスト首相がショックドクトリンを宣言するのも警戒されている。やはり34歳の若い首相クルツは政権を掌握していないのだろう。

100を超えたところは二週間の時限付きで弱いロックダウン掛けるしか数値を抑える方法が無い筈だ。既に隣国のベルリン政府にはクルツ首相はロックダウンをしても床屋とかは開けたままにするとしていたが、学校が大きな問題になるだろう。今回の感染の六割以上は家庭内感染になっていて、当然感染者の高齢化が進むと死亡率も上がって来る。その辺りが当然の決断を余儀なくされるところだが、感染から二週間で陽性者数となり、更に死亡者が増えるには二週間かかる。死亡者数を抑えるためには六週間ほど前の政治的決断が要求される。

コンサート迄、丁度今五週間ほどだ。要するに緊急的な処置がそれまでの間に下される可能性があって、安心できなくなってきた。一方クルツ首相が第二のロックダウンに言及して二週間ほど経つので警告効果は殆ど表れていない。

殆どオーストリアと変わらないスイス連邦はヴィーンを旅行危険地域にフランスの9の地方と共に指定した。ここは早めに強い対処処置を取って欲しい。

最後の残暑だ。ここ数日摂氏30度近くになる。だから床屋の予約をとった。残暑最終日辺りには気持ちよく過ごしたい。そして山道を走っていて気が付いた。足元が急に悪くなった。走り乍観察していて分かった。道が痩せてきている。なにかというと乾いて凸凹が目立ち、石が表面に尖ってでてきている。秋の特徴かもそれないが、今年激しい。理由は乾燥だ。ワインは今のところ期待出来るが、来週以降どうなるか?



参照:
最後の交響楽演奏会 2020-08-25 | 文化一般
無いよりはまだ益し 2020-09-10 | マスメディア批評
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要らないと思っていた

2020-09-12 | 雑感
ここに来て体調が悪い。失調症に、喉が傷んだり、咳が出たり、微熱感があったりで明らかにコロナ症状だ。パン屋の売り子など可成り同じような症状が広がっている。地元の指数も6にまで上がっていて到底零行進に戻らない。コロナ2.0だと思っている。胸のスカスカ感も気持ち悪い。

九月一日の演奏会の中継がDCHアーカイヴに入った。有料なので中味は見ていない。しかしインタヴューを無料で見た。コロナ禍以降のキリル・ペトレンコのインタヴューはどれも意味深い。今回の話しは、間隔を取っての演奏の難しさ、そしてその成果、コロナ禍始まって以降の個人的な変化、今後の十月までの計画とそのプログラムなどについて18分ほど語られた。

先ずは、「弦楽奏者がプルトを組まないことで肌感覚の合わせ方が難しくなって」とチェロのマイニンガーが話すと、それには同意せずに指揮者からの感覚を強調した。弦には全く問題が無くて、先日からここでも言及している副指揮者としてのコンツェルトマイスターを通してということで極力楽団の事情には鼻を突っ込まない。恐らくこれはラトルなどからの引継ぎとして、内側に関与するような公私混同な言動を取らないという基本姿勢だろう。

飽く迄も指揮者は管弦楽団を指揮する。だから、間隔を取った指揮の難しさは各々から戻って来るフィードバックをどのように捉えるかであって、最も遠くなるテムパニーとの距離感などがとても慣れなければいけないものとされている。

これに関して、この間隔を空けた合奏で楽団員が言うようにとても多くの事を学んで、今後に繋がるという見解と同時に、要らないと思っていた指揮者がこれ程必要だとは思っても見なかったと大笑いにする。見ていて吹き出してしまったが、この人は話に身が入るとなに偽りの無い言葉がポンポンと出て来るのがよく分かる ― この人と個人的に十分も話せば、思わず吹き出すような会話になるだろう。

個人的な質問では、この間にロシアの文学を含めて読書してと、普段は出来ないと言っていた読書も出来たようだ。それ以外ではベートーヴェンの弦楽四重奏曲をお勉強した様である。親父さんがヴァイオリンを弾いていても自身はピアノなので四重奏曲自体はそれほど身にはついていないのかも知れない。

シュトラウスは何度でも指揮していて幾らでも振れるが、ドヴォルザークの第五は初めて指揮するのでリスクがあるとしている。話しの切り方からすると、10月末の公演と11月のツアーとは異なるような感じもする。状況が変わらなければ其の侭で、つまりプランBで、11月はやはりプランAがある。発表は再来週か。

プライヴェートでは七月に旅行に出たといっていたが、どこに出かけたか。美術館とか言っていたから、ミュンヘンのコンサートの後だろう。自宅の引っ越しもあったろうから、どこに向かったか?当時の状況としては、イタリア、フランスも難しかったので、スイスだろうか?もしかするとパリか?ベルンとかのあまりコンサートツアーの無い地域の美術館ではないか。恐らく同時に音楽関係の興味もあったと想像する。

日曜日の午前中にザルツブルク公演初日の模様が放送される。初日の明くる日にザルツブルクに富んでその夜の公演である。準備させておいた山台に乗っての演奏で、とてもではないがまともな演奏が出来ないと予想していた。だから最初から安い券が余っていても行く心算もなかった。勿論11月に最低同じプログラムはフランクフルトで聴けるからだ。しかしバイエルン放送協会の評がまた番組のそこで背後に聞こえる音が全然悪くなかった。

ベルリンのワインヤード型とザルツブルクの扇形では全く音が変わるが、今回は距離を空けていて更に所謂通常の上手にヴィオラが配置されている。合わせ易いからだが、例年ならばくっついてしまう音が綺麗に聞こえる可能性が強い。勿論合せ易かった可能性がある。とても期待している。



参照:
衝突する伝統からの確立 2020-09-04 | 音
マスク禁止運動を展開! 2020-09-02 | 生活
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女声につける女性指揮者

2020-09-11 | 
承前)2018年新制作の「清教徒」を体験した者ならより分かるだろう。今回コロナ規制での舞台に関してはこれだけ見ていても、オリジナルとの差異はよく分からなかった。しかし冷静に考えると、これだけ男女などでも離れてくっつかない演出は無い事に気が付く。しかし、それが演出にしか思えなかった。新制作時のプログラムも秀逸で、この手のものとして一級の出来だと思う。残念ながらラクロワ―の衣裳の写真は十六ページ程でそれほど多くはないが、少なくともドラマテュルギ―の人が今回YouTubeに出していた内容よりも上質だった。

上の修正演出ではエルヴィラとアルトューロの再会の情景が、その距離感から ― 恐らくそれ以前の距離との繋がりで ―、とても緊張をはらんでいた。その部分「僕の胸においで」はこの作品のハイライトで、そこからフィナーレの黒ロマン落ちへと流れ落ちるところだ。メロドラマ効果となっている。少なくとも今回は墓穴のようなものを挿んでそれを越えて対峙する形がとても効果的だった ― 幸いにもそこの場面はアルテューロを歌ったフランツェスコ・デムーロが練習場面をフェースブックに上げている。

この場面をシュツットガルトの演出で見るとエリヴィラが後半はおもちゃの家に入って仕舞っている。幾つかYouTubeでその場面を見ると面白い。役を間違っているエルサ・トライジークやどうにも下手な指揮とか色々と出てくる。
I puritani - "Vieni fra queste braccia"

Javier Camarena & Elsa Dreisig, 'Vieni fra queste braccia', I puritani (Bellini)

Juan Diego Flórez and Nino Machaidze sing Vieni fra queste braccia

Javier Camarena & Pretty Yende, 'Vieni fra queste braccia', I puritani (Bellini)

Dmitry Korchak, Venera Gimadieva. Vieni fra queste braccia. I Puritani, 10.01.2018

Javier Camarena & Diana Damrau, 'Vieni fra queste braccia', I puritani (Bellini)

I Puritani | Diana Damrau & Javier Camarena "Vieni fra queste braccia" (DVD & Blu-ray excerpt)

VIENI FRA QUESTE BRACCIA, MERRITT & DEVIA, ROMA ' 90

SALVATORE FISICHELLA "Vieni fra queste braccia" I Puritani



因みに当夜歌ったそのデムーロの歌であるが、高音も良く出ていてなるほどこの役で世界を回っているのはよく分かった。その反面、終演にでもそれほど受けていなかったのは、明らかに声のファンダメンタルが弱いからで、下が上手く響いていないと音楽作りの幅が狭まる。それで漸く昨年の復活祭におけるカッシオの歌唱を思い出した。まさにそこが弱く性格付けが薄かったのだ。偶々イヤーゴも代役となっていたのでそれほどの個性は持っておらず、主役のスケルトンも安定を欠いていたので男声陣は弱かった。

この場面が際立っているのも他の場面は絶えず他者の目があるというのが味噌らしい。つまりディアローグがあったとしても公衆の中で行われたり、またはアリアに続いて其の侭群衆の掛け合いに成ったりで、疑問に思っていた書法、つまり群衆にソリスツを意味なく重ねているという場面になる。ドラマを音楽で語らせるという以上に、登場人物をしっかりと社会の中に位置づけるとなる。リヒャルト・ヴァークナーに言わせると、イタリアのアレグロの管弦楽のごった返しの対極にあるのがベルリーニとなる。

上のヴィデオを聞くと分かるように、ブレンダ・レイの歌唱は矢張り練れていて、他の歌手陣のそれと比較してもレパートリーとしてものになっている。また指揮のリニヴもダイナミックスを付けながらも歌手に寄り添って、とても巧妙な指揮をしている。やはり彼女の一番いいところはペトレンコなどと同じスラ―の中で音楽の出来る東欧圏の音楽家のリズム感だろう。この点で完全にバレンボイムの指揮を引き離している。

ここでも男声から女声に代わってリズム取りが変わるとしっかりとそれにつけてきていて、もうこれはペトレンコにも出来ないもので、ミュンヘンでのニナ・シュテムメへの伴奏だけでなく管弦楽の協奏曲で示した音楽である。今まで誰も出来なかったような指揮をしている。

彼女は、ヘラクレスザールでBR交響楽団を振って、暮れにシュトットガルトで「蝶々夫人」、来る年の変わり目から四月まで「魔笛」を、二月にはヴィーンでドニゼッティ、五月にはミュンヘンで再演、そして六月にパリでアスミク・グリゴーリアンの「スペードの女王」を振る。(続く)



参照:
菜食男に負けない 2020-02-08 | 女
楽師さんの練習法 2020-09-03 | 生活
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無いよりはまだ益し

2020-09-10 | マスメディア批評
新聞に「蝶々夫人」初日の批評が載っている。流石に高級紙だけあって我々の様に雑魚は相手にしない。それでも最初に新音楽監督フィリップ・ヨルダンの事を書いている。先ずは、「マイヤーがメストがいなくなってから放っておいたものだからイメージだけでなく酷いことになっていた」と、「ヨルダンのお蔭で奈落に秩序が戻ったとしても大げさではないだろう」と始める。ジャーナリズム的だ。

パリのオペラ座元監督は、その正確な打でプッチーニの「蝶々夫人」に仏印象派風にアプロ―チして、音色の魔法使いとして、日本の音楽や後のアメリカ国歌を繊細な情景としてアマルガウにして入れ込んで、音楽的異国主義とはしなかったと誉める。一幕では雰囲気を、二幕ではもう少し細やかにそしてドラマティックにアスミク・グリゴーリアンの蝶々さんの歌を開いたとしている。

これだけだ。如何にも細かく言及すると面倒だというのがありありだ。しかし中立の読者には決して悪くはない紹介であり、プロの書き手の外交の見本のようなものである。

続いて歌手への重心が向かって、演出へと来ると先ずはやっと視覚的にも何もしなかったマイヤー時代が終わって何かをしたロズチッチの成果と評価して持ち上げておいてから、演出をキッチュと裁定、愈々本丸へと切り込む。

つまり新たな体制の始まりによりによってこの演出を他所から持ってきて、それもこの中身というのはどうだろうという事だ。つまりそのもの悪しき欧州の植民地主義をそのままなんらコメントも無しに舞台に掛けるというその神経を疑っている。

もうここまで書けば十分で、要するにマイヤー時代は最低、そしてロズチッチ体制も変わらずという事を語っている。すると、視覚、聴覚即ち舞台、奈落へとその状態が上手に語り尽くされていることになる。なるほどそれ以上は外国の新聞と言ってもヴィーンの人には書かせない。重要なのは、新コンセプトで海外からのお客さんなどが今以上に来るか、更に若い人に魅力あるものを提供できるかの邪魔になるようなことは誰も書かないという事だろう。

全体を読めば、音楽監督ヨルダンに関しては「誰もいないよりは益し」という事に尽きる。如何に何も書かないかという事にその真意が表れているという外交的なプロの文章だ。最近の指揮は知らないとヴィーナーフィルハーモニカーは語っていたが、その昔は分かっているので、決して未知の指揮者でもなかったという事だろう。だから我々の様にそれ以上の期待を誰もしていなかったという事になるのだろう。余所者としてもとても残念だ。

そしてこの記事の冒頭には、政府はヴィーンに警告度の低い黄色信号を出していて、実際にはマスクも離せない筈なのだが、法的な根拠が無くて、それどころか休憩には食事まで提供されていると。休憩時に183補助席を合わせて567席をその間隔をチェックしているとある。バイエルン放送協会の方では外している人も少なくなく、ザルツブルクでの様に目が光っていないという。

発足した新体制を含めて益々朽ちる方へと進んでいるヴィーンからの情景が描かれている。此の侭進展すれば首都のロックダウンは免れないと思われるが、コロナのワクチンのテストで副作用が出たとオックスフォードから伝わり、ワクチンは到底難しいと考えられる。

同時に週末辺りから近所でおかしな咳が広がっていて、昨日から私の体調も平衡感覚がおかしくなるなどコロナ症状が数カ月ぶりに表れた。恐らく新たなコロナだと思われる。弱毒化の印象があるので、それが確認された時点でコロナ禍はサドンデスで終わるのではなかろうか。



参照:
Für dich soll's lauter Lotusblütenblätter regnen, Florian Amort, FAZ vom 9.9.2020
縛られた「蝶々夫人」生中継 2020-09-09 | 生活
藤四郎の国立劇場 2020-05-31 | 文化一般
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縛られた「蝶々夫人」生中継

2020-09-09 | 生活
ヴィーンからの「蝶々夫人」初日中継は残念だった。録音は聴き直していないが、新音楽監督の指揮が悪かった。パリで人気のあったフィリップ・ジョルダンだが、放送のアナウンスの様にヨルダンではあまり成功しそうもない。そもそもこの人がチューリッヒで勉強している頃もその噂を聞いた覚えが無い。有名人の倅であるから少しでも才能があれば直ぐに注目されていたと思うのだが。

兎に角、バイロイトでの「マイスタージンガー」の初日は何もかも良くなかった。その後は修正されていったのだろうが、今回聞くとやはり具合が悪い。最も肝心な旋律を素直に上手に歌う事が出来ないので、ギクシャクする。どこかで聞いたことがあるなと思ったら、クリスティアン・ティーレマンの指揮に似ている。それで以って劇場を盛り上げようとするものだからヘンテコな音を沢山出して来る。まるでプッチーニ映画のサウンドトラックのようなセンスの無い音が出る。典型的な地方の二三流オペラ劇場の下手なカペルマイスターである。

この人達のお蔭で如何にオペラ作品の楽譜を音楽的に通して指揮することが難しいかを私たちは知る。それも劇場で長い間座らされて、飲み物を購入したり駐車料金を払って、暇を持て余した老人たちと一緒に過ごして、もう金輪際と思う手間が省けて、ソファーに座って類似体験が可能となる。本当にオペラ劇場なんて歌も音が外れっぱなしで、そんな歌に合わせるカペルマイスターたちの技を体験するのが劇場体験なのである。少なくとも一流劇場以外で音楽どころか作品なんて学ぶことは不可能である。

ヴィーンの国立歌劇場はその座付楽団がヴィーナーフィルハーモニカーとして人気があるので、その歴史に準じてもそれほど悪い劇場ではない。昨今の観光客商売としてもある程度の水準は保っているところで、新音楽監督にはもう少し上の実力者が欲しかった。成程、地元の御用評論家はそれなりに新支配人とひっくるめて上手に誉めてはいるが、余計に客観的な視点からするとその忖度は苦しい。

その視点は、音色とか今回は示せなかったリリックな面とかを挙げるのだが、そのように書いていることから評者の理解度がとても知れる。音楽が作れないから無理に突拍子も無いテムポや強調がなされるので後先が逆なのだが、下手に有名指揮者になっているものだからそれを無理して売ろうとする。悪循環の始まりで、その出来る限り職人的な技術を磨いて歌手に合わせる事だけに集中すればオペラ座の便利屋さんに成れるのだが、下手に成金になってしまっていて使い物にならない。

座付楽団は上手く帳尻を合わせてくるのだが、それ以上には鳴らせない。お目当ての「蝶々さん」のアスミク・グリゴリアーンもここという時に歌い切れないでやり難かったと思う。全体のしっかりした流れを出せない指揮であると彼女ほどの歌手でも上手く音楽のドラマテユルギーに入って来れないと思う。その点では、これまたそれほどオペラ指揮者としてはご無沙汰の人気の無いヴェルサーメストでも、そこは崩れないので、劇が形成される。同じグリゴーリアンが電光石火の一声でしっかりと組み込まれるのを聞けばその意味が納得できるだろう。同じ演出のメトロポリタン歌劇場などでの指揮者は、それほど有名でない人でも、その点はストレスなく歌わせる。そこにメトとヴィーンの実力差が大きく横たわる。なにも歌手のキャスティングの豪華さだけではない。

クリスティアン・ティーレマンがこの座を狙って裏で運動していたようだが、その人間性や政治的な問題さえ、そして何よりも人気の欠如さえなければ、後輩のヨルダンにこのポストを譲る道理はなかったと思う。それほど能力は変わらないと思うが、やはり少しだけ経験が違うのではなかろうか。もう少し歌手に合わせているような気がする。

兎に角、聞いていてストレスが溜まった。久しぶりに三流のオペラ劇場に出かけた思いだ ― 昨年のカールツルーヘの「賢い女狐」を忘れてはいけないが。翌朝ベットから起きれないほどに草臥れた。まさしくその辺りのオペラ劇場の椅子に縛られた疲れである。大きな期待は無かったが、ザルツブルクでヨアンナ・マルヴィッツが示したように、ヴィーナーフィルハーモニカーを振ればもう少し違うかとも思ってしまったのだ。



参照:
「笛を吹けども踊らず」 2017-07-29 | 文化一般
不可抗力に抗う肉感性 2020-08-28 | 音
藤四郎の国立劇場 2020-05-31 | 文化一般
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僅か八十人程の音楽会

2020-09-08 | 生活
朝八時前からPCを開いた。券取りがあったからだ。五分ほど前になって初めてそのサイトで以前に券を購入した事が無かったと思って、急いで登録作業をした。SWRの前身SDRから主催しているシュヴェツィンゲン音楽祭だ。嘗ては五月に通っていたこともある。それでも大分ご無沙汰している。

理由はその時期にワインの試飲会などがあってダブルブッキングになり易く、更に時節柄音楽会というよりもアウトドア―であって、折角の大庭園でもまだ寒いのでオープンエアーもあまりない。元々のマンハイマーシューレの夏のアカデミーが開かれた離宮で、モーツァルトがそこでカンナビヒなどから例のクレッシェンドなどの音楽を習った。実際に今回訪れるホールもモーツァルトザールととされていて、姉のナンネルと一緒にそこで演奏している。

今回は春の音楽祭がコロナで流れたことから特別に十日間でミニ音楽祭が開かれる。例年はオペラの新制作があるのだが、流石に今回は無理で、いつも使われるロココ劇場ではベートーヴェンなどの古楽演奏会が開かれるようだ。

既に言及したようにベルチャ四重奏団が大フーガ他を演奏する。他の楽曲を期待して行きたいと思った。しかし容れ物は上のザールで、コロナ基準では260平米に260席が基準なので最高半分で130席となるだろう。更に春の券が優先予約券になっていたので、難しいと思っていた。しかし毎年一般販売は悪い席を中心に出ていたので、また昨今の入りからするとと思って準備した。もし最初から百席と計算していたら諦めていたかもしれない。

もう一つザビーネ・マイヤーの演奏会も興味があったがこちらは二年前に訪れたロココ劇場で音響的にはあまり期待できない。

価格は、68ユーロぐらいから19ユーロぐらいだった。視界も効かないので、最前列とかで無ければ安い席でいいと思っていた。会場に入ることを目指した。上手に間引きしてあったら意外に視界はいいかもしれないとも思った。他日の空情報を見るとどうも76人しか入れない可能性もある。つまり前後列を空け、一列九人掛け九人掛けの十八人に十人、つまり二分の一掛ける九分の五答えは十八分の五は約27.77%だ。ざっと三分の一。正解、後ろの方の席だが通常とは異なって結構前が見えそうだ。

先ずは登録してパスワードも無しにログインしたままで中に入れた。すると一席だけが余っていた。27ユーロだった。手数料2ユーロで、29ユーロ。なにも考えるどころではない。兎に角買い物かごに入れて作業を進めると、カードで買えた。こんなことは予想しては出来ない。他日のエベーヌ四重奏団演奏会の空席状況などを見ている余裕などは無かった。

シュヴェツィンゲンのモーツァルトザールの写真をMDRのサイトでみた。舞台に居るのはクラリネットのオッテンザムマーのようだ。昨年ぐらいにリサイタルを開いていたと思う。

実は何日かシュヴェツィンゲン離宮の門前のホテルに住んでいたことがある。住まいを探していた時だった。車を物色に毎日のようにマンハイムの街中とをレンタカーで往復していた。あの時は、アウトバーンを走っていてそのアルファベットが全く読み切れなかった。同じことは日本から来ている人も話していたので、どんなに横文字に慣れていると言ってもやはり日本程度のローマ字から英語教育ではアルファベットすら読み切れていないのだとその時に知った。



参照:
年の瀬はロココ劇場へ 2017-12-13 | 文化一般
モーツァルトを祀り上げる 2006-10-03 | 音
生きてる内にもう一度! 2007-10-03 | 文化一般
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フランクフルト歌劇場再開

2020-09-07 | 文化一般
フランクフルト歌劇場の再開公演が良かった。先ずは座席のみならずピットの中も模範的な配置にしていたことだ。フランクルト市も一時は新感染指数20を越えようとしていたが、直ぐに落ち着いてきた。まだ高いが、このような市歌劇場が運営されている限り大きな心配はいらない。そもそもヘッセン州の人々はあまり人同士の接触の無い人たちだ。日本の都市に育った者には何でもないことだがドイツの普通の大都市圏の人にとってはよそよそしい人たちだろう。

ピットの中は21人が入って、弦は一人づつで、管との距離も充分に取れていた。トラムペットが上手の入り口に座るなど、ぎりぎりに入った。ある意味模範的な配置なのだが、ミュンヘンの様に客席側に出しても50人ほどが限界だという事もこれから実感できる。フランクフルトの場合は、他の殆どの州立歌劇場と同じであろう。この配置で出来る可能性は限られている、次の段階で距離間を縮めた時に、何が出来るとかという事である。

客席は350席ほどしか入っていなかったのでとても気持ちが良い。手洗いは一人づつ入るように整理していて、これまた気持ちが良い。だから動線の問題も殆ど無かった。パーソナルの人員はとても多い。初日は公演開始が十七分ほど押したようだが、この日は三十分前でもまだまだ余裕があり、会場に一番に入ってマスクを外していた。しかし今後人数も半数近く入れるようになると整理も大変である。

プログラムは問題なくいつものように購入出来て5ユーロ、駐車場は14時37分に入り18時4分に支払った。しかし払ったコインでは柵が開かなかったので管理者の所に行って実際に出たのは18時30分前になった。管理の爺さんは「時々ある」と言ってのけた。管理者がいてよかった。

その駐車場に下りる時の訪問客のおばさんの声を聞き逃さなかった。「正直言って退屈だったわ、音楽は綺麗なんだけど」、私にとっても自分自身の感想と同じぐらいこうした声を重要視する。だからその真意とその人を代表に会場の多くの人若しくは一部の人がそこで何を体験して何を感じたかが私にとっても最も大切なのだ。だからそこから色々と想像する。

恐らく感じからするとしばしばにオペラに通っている人なのだろう。但し定期会員の常連さんではないかもしれない。常連さんにはベルリーニなどの一通りの教育的なプログラムが準備されていて、当日の内容を退屈と思うのは当時の作品に馴染みが無いからか?それとも薄い編成の管弦楽では物足りないからか?ルントシャウの批評にはその点にも触れられていた。

劇場性という事では演出もとても良く出来たもので、「黒ロマン落ち」とそれを包み込む枠としたフィナーレの出し方も全然悪くはなく、新制作時の好評も理解出来た。恐らくフランクフルトでは成功した方の演出だと思う。

それならばその枠内で何が行われたか。結論からすると、エルヴィラを歌ったブレンタ・レェイは今回新境地を掴んだのではないかと思う。彼女のツェリビネッタをペトレンコ指揮で聴いた時はどうしてもその前に聴いたグルベローヴァのそれを思い出してしまうのでお話しにならなかった。しかし、少なくとも今回の歌はこの曲で世界を回るという一つ上の歌唱になっていたと思う。

この歌手と指揮のリニヴとはやはりミュンヘンで仕事をしたと思う。彼女の音楽と助言がその成功に寄与していただろう。第二幕の声の音色は恐らく彼女が今まで経験したものでは無かったと思う。それを引き出した指揮者は、予想を上回る指揮者だった。それも私までが「ペトレンコ一派」などという言葉に騙されていた。彼女がアシスタントとして身に着けたものと彼女の音楽は全く別なものだった。なぜペトレンコが彼女を重宝したか ― 邪推で彼女が彼のタイプの女性であることは分かるのだが ―、リニヴから影響されたペトレンコの音楽もあると思う。なぜ彼女がバレンボイム指揮のサブに入っているか?これはとても分かり易い。少なくともオペラ指揮においてはバレンボイムの指揮を彼女がより素晴らしく指揮するだろう。私なら彼女が振る晩に出かける。(続く



参照:
コロナ死者の為のミサ曲 2020-09-06 | マスメディア批評
社会的距離感への不満 2020-09-01 | マスメディア批評
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コロナ死者の為のミサ曲

2020-09-06 | マスメディア批評
ミラノからの生中継を聴いた。スカラ座の向かい側のドウオモでコロナ禍慰霊の演奏会が開かれた。ヴェルディの死者の為のミサ曲だ。指揮は音楽監督のシャイーで、歌手も二人は昨年聴いた復活祭での二人のもう二人の豪華キャストである。

先ずは、Rai3の中継の音が愉しみだった。とても長い残響が録られている。同じような状況はアルプス以北最大のスパイーヤ―のドームでも経験している。ショルティがブルックナーの交響曲二番を振ったのだが、いつものように安い席では中々はっきりした音像が得られなかった。だから疑心暗鬼だった。

結果は、思いがけず良かった。映像を後に見るとマイクも可成り立てていて、サイドに振った合唱団も良く録れていた。映像を通して見るとまた発見があるだろうが、演奏も残響を活かしながらの指揮で見事だった。やはり伊達に世界のオーケストラトレーナーではなく若しくは若い時にはアバドの為のアンサムブルを整えていただけの実力がありありだ。

残響で混濁して何が何だか分からなくなるところが、細かな音形などもキリリと出して、抑えるところと抑える力量はムーティのそれとはまた異なる。更にスカラ座の楽団がアバドやクライバーで聴いた時以来に良かった。映像を見ると弦楽奏者も全員マスクをしていてそれもサージカルのようなものでは無く防ウイルスで演奏している。息苦しくて十分もしていると嫌になる。本当に感心をした。

そしてそのソロなどを聴いていて、アッと思った。どこかで聴いた音でその歌い方を良く知っていた。写真で確かめると友人だった。以前はテュッティーでトップで弾いていなかった。これも良かった。その人物はフェースブックが始まって直ぐに誘ってきた人物であった。この座付楽団にはジュリーニ指揮時代にも期待していなかったが、これは次の機会に聴きに行ってもいいと思った。


同じスカラ座の録音で「清教徒」を聴いた。カラスの歌は1953年当時は自然に声が出ているだけでなく技術的にもとても安定していて、後年のような誰が聞いてものカラスの歌声ではなかった。共演のディステファノなどが声だけは立派でもかなり昔風で今では到底頂点にはいなかったと思わせる歌唱でその差異は大きい。リッカルドを後年ベーム指揮でアルフォンソを歌っていたパネライが歌っていて、こちらは逆にへえと思った。またセラフィンの指揮は素晴らしい。匹敵するイタリア人指揮者はそれほど多くはないのではないか。

但しこの制作録音の最大に問題点は大胆不敵な省略で、当たり一辺倒だけ演奏してあとは全てカットしてある。今回のフランクフルトのそれはこの辺りが参考になっているのだろうか。合唱がそりに重なるところはバッサリはいいと思うが、歌い込みの面白さが無いのでそれは問題が大きい。映像が無い録音だからこそ出来る削除だともいえる。

しかしこれでこの曲で以って歴史的にどこまでの音楽実践がなされてきたのかがよく分かる録音で、フランクフルトではどこまでの表現が体験できるのか、演出は短くなっても所期の目的を果たすのかなど興味は尽きない。

現在の座席状況は40席ほど余っているので、350人程の為に上演することになる。古い小劇場ならばあるが、大劇場での上演としては中々の贅沢である。当分は訪れないと思っていたフランクフルトのオペラのそれも今までで一番いい席に座ることになる。

I puritani: Sinfonia


Edita Gruberova y Simón Orfila - I Puritani

I Puritani - Son vergin vezzosa (Edita Gruberova)

Salvatore Fisichella "A Te o cara" I PURITANI

Edita Gruberova,Salvatore Fisichella,
Festival di Bregenz 1985

Bellini - I Puritani - Anna Netrebko (Vien, diletto, e in ciel la luna)

Anna Netrebko - I Puritani - Act 2: Madness Scene

A te o cara amor talora - Eric Cutler, Anna Netrebko (I puritani Bellini)

Bellini: I Puritani - Suon d'araldi? - Anna Netrebko


Bellini - I Puritani - Credeasi misera (Juan Diego Flórez) 2009

参照:
ラクロワに黒マスク集団 2020-09-05 | 文化一般
衝突する伝統からの確立 2020-09-04 | 音



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ラクロワに黒マスク集団

2020-09-05 | 文化一般
木曜日に燃料を入れた。1,17セントだから悪くはない。フランクフルト往復用に20lほど余分に入れた。エンジンオイルもザルツブルク行で足してから始めてチェックすると0.2lほど消費していた。漏れてはいないので、エンジンで燃えてしまう分だ。往復千キロ超えるの消費が大きい。

車で思い出したが、二年前にオぺルンフェストの帰りに写真撮影されて罰金を払った分の減点が消えた。今年になってから規制が厳しくなったので、「前科」関係無しに簡単に免停になる。それでも常習犯で無いことも大切。

あれ以降は無理して帰宅しないことにした。居眠り運転で全てが狂うからだ。実際に危険である。数十ユーロで命を落としても馬鹿らしい。更にタブレットに無料の最新のナヴィを入れることで見逃しを極力なくした。

発注した冬用のマスクが届いた。マスク着用は四月から始まったので冬は初めてだ。当然防寒用をそれに使える。前から使ってみたかった目出帽の目が開いていなくて頂点が開いている円筒形の生地である。ポリエステルなのでそれほど暑くは無く、更に暖かい。スカーフもつかれてきているので野外に出るときはいつもこれを持参できる。朝のパン屋や肉屋などはこれで充分だ。

急に暑くなった。摂氏28度になると今度は身体がだるくなる。残暑である。例年ならば試飲会などに出かけていると思うの様子が大分異なる。こうなれば出てくるであろう特売を待っていようかと思う。醸造所などでは生きているのか心配になるのではなかろうか?

初日の報告が新聞に出ている。ルントシャウのものはあまあまであまり参考にはならないが、入場に列をなして開演より17分も遅れて始まったようだ。四百人程度でも慣れていないと動線の整理が大変なのだろう。

これまたどこがカットされたか書いていないので不都合なのだが、二時間掛かっていてリニヴの指揮がテムピを落としていたからではないかとしている。楽団は半分の21人編成で、半数の合唱で24人体制らしい。そのような薄い楽団の為に室内楽的なラインで歌を裏付けしていたという事で、予想通りラインをクッキリ出していたようだ。個人的にはホルンの重奏とのバランスなど気になるところがあるが、処方箋としては成功しているに違いない。

兎に角、彼女の指揮に期待させられるのは丁寧さであるから、好調の歌手陣と共に喝采を浴びていたのは当然であろう。ミュンヘンの楽団のようには速やかには運んでいないようだが、繰り返すごとに良くなってくれればと思う。

また合唱団がクリスティアン・ラクロワの衣裳に予期せぬ黒いマスクをしていたというので注意点かも知れない。写真等を見ると、これは私もバタフライを着けて行こうという気になった。デザイナーの商品の写真を見てもう一度トレイラーを見ると、大体分かった。気温は再び下がるが、お昼であることやお天気であることを考えて、ここはマテリアルに少し凝ってみよう。



参照:
衝突する伝統からの確立 2020-09-04 | 音
大規模催し物の評価と対策 2020-04-16 | 文化一般



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衝突する伝統からの確立

2020-09-04 | 
「清教徒」二幕三幕と通した。結論は指揮者が良ければまだまだ音楽を出来る作品だ。歌手もしっかりすれば、それだけでは終わらない。

因みにまともな指揮者がこの作品を振っているのか調べてみる。有名なところではカラスの伴奏をセラフィンが振っている。実況の悪い録音で若いムーティがフィレンツェで振っている。それ以外ではあまり見付からない。勿論サザーランドの伴奏を旦那のボニングとかパバロッティと録音している。

今話題の女流指揮者レニヴがなぜこの作品をレパートリーに入れているのかはよく分かるのだが、同じ意味でムーティがこの辺りをレパートリーにしていたのは本当に賢いと思う。フィルハーモニアでも制作録音していた。実況盤はあっても制作ものはネットになかったのでセラフィン盤を使いたい。スカラ座の制作録音だが、出だしの所だけ聴いてもその作品の価値が全く異なる。
MARIA CALLAS Bellini I PURITANI Studio 1953 integrale


だから場末の歌劇場で二流指揮者の公演を聴いても作品の片鱗に一切触れることすら儘ならないのだ。何十回経験しても作品に触れたことにはならない。だからオペラ劇場通い程無駄なことは無いのである ― 芝居の方が経済的で価値がある。年金生活者の暇つぶし以上のものでは無い。欧州に住まなければ分からなかった最大のことである。

そのことはフランクフルトで今回の「清教徒」が全く売れていないことに関係している。初日は300人も入っていない様子だ。いい席が完売しているのでプレスの招待はあったのだろう。しかしさっぱりである。他日も売れていない。一昨年の新制作時には演出へのブーは出たようだがとても成功している。だから再演に入らない理由は無い。

やはり我々の様にリニヴが同じ女流のマルヴィッツがそれ以上に直ぐにでもドイツの音楽界で重要になる存在だとは巷の人は気が付いていないのだろう。玄人筋での評価付けはある程度定まっていても、まだまだ一般の市場にまで届いていないということだ。同劇場ではデビューであるから当然かもしれない。

劇場のヴィデオが出たが、残念ながら内容は薄かった。重要な点は王党派のアルテューロと作曲家が同一視されるということで、作曲家自身の周りの女性が共和派のエルヴィラに代表されていて、作曲家の自己矛盾がこの役になっているというのだ。演出は最後に暗転させてしまうような黒ロマンになっているのは批評にもはっきりと書いてあった。

二幕などは、恋仇のリッカルドとおじさんのディアローグでシュツットガルトでは殆どコメディーになっていた。なぜそうなるかは音楽のドラマテュルギ―を丁寧に構築していないからで、単純にジンタを刻んでいれば浅草オペラにしかならないのは必然ではなかろうか。やはり、以前はフランクフルトと交互に賞を取っていたような州立劇場でもまともな支配人がいないと簡単にその水準は下がってしまう。

ベルリンのシーズンオープニングのペトレンコへのインタヴューを観た。私が言及しているように「新たなブラームス像への確信」であるが、意外に評論家諸氏はそこにまで言及していない。それはペトレンコ自身が語っているようにベルリナーフィルハーモニカーには独自のブラームス演奏の伝統があって、場合によっては相反するからそう簡単には完成しないという事だろう。私はミュンヘンでやりたい放題の演奏実践を聴いているので、またヴィーンでは更に大きな壁があったのでその事情は分かっている。

そのことをここでペトレンコ自身が語っている。恐らく翌日のザルツブルク、そして二回目のベルリンでの演奏、更に11月での再演で徐々にその真価が知られてくると思う。もう個人的にはシェーンベルク編曲のピアノ五重奏曲どころの話しではなくなっている。ペトレンコのブラームスルネッサンスになると思う。そしてバーデンバーデンでも企画してくれると思う。しかし、マイニンゲンでの初演での伝統がどのように伝授されているかの具体的な話しが無かった。フリッツ・シュタインバッハ指揮が録音されていないのは当然として、パート譜への書き込み等が保存されているという事か ― シュタインバッハの弟子のノートには言及があるが、校訂版とはどう異なるのか。それをしてベルリナーフィルハーモニカーペトレンコのブラームスの確立と言っていたが、まるで私の書いたものを読んでいるかのような物言いだ。



参照:
ブラームスの交響曲4番 2017-10-08 | 音
楽師さんの練習法 2020-09-03 | 生活
マスク禁止運動を展開! 2020-09-02 | 生活
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楽師さんの練習法

2020-09-03 | 生活
お勉強を始めた。ベルリーニ作曲「清教徒」である。まともに聴くのは初めてなので最も手っ取り早い方法で始めた。先ずは楽譜を落とす。そして適当なヴィデオを探す。そして粗筋をネットで読む。この三つをどのように組み合わせるかだけだが、時間節約には、粗筋を読むか読まないかで、ヴィデオを流しながら楽譜を辿る。ちょこちょこと画面を観て、音を流していくだけだ。

嘗ての潔癖な頃ならば音を聴きながら知らない楽譜を追うなんてとか思っていただろうが、座付楽団の楽師さんのちょこちょこした練習法などを見るにつけ、やはりこれが一番早いという事を理解した。演奏するのではないから、パート譜の乗りの繋ぎを確認することも無いのだが、目的は全体像を一望することである。

先ずは一幕を流した。流したヴィデオはシュトュツガルトでの生中継を商品化したものの様で出しているのがナクソスであるから初めからその質は期待などは出来ない。実際に演奏もその程度のもので、指揮者も悪く、座付楽団も合唱も良くない。一寸聴けばフランクフルトのそれよりは楽員の質は高いようにも思えるのだが、指揮者が悪いとお話しにならない。
I PURITANI Bellini – Oper Stuttgart


台詞は、楽譜にはイタリア語が書かれているだけで、ヴィデオも英語がテロップになっているだけだ。その内容を詳しく読んでいる時間も無ければ演出も辿る隙も無い。目は楽譜に行っているからだが、それでもまあ何とか舞台の実感は得られる。

そのような塩梅での一幕を終えると、途中場面の変わり目に拍手が入り楽譜も五場から二部に変わる。全部で三時間を超えるのだが、フランクフルトでは三四半時ほどカットされるので、どこをカット出来るかも考える。恐らく技術的に問題な合唱を端折るしかないだろう。問題はフィナーレなどをどのように上手く繋げて行けるか。ザルツブルクの場合のように最初から短縮で演出するのとは異なって、大きく演出を変えることが出来ないとなると短縮の可能性も限られる。

印象は、アルテューロというエリヴィーラを愛する男がとても不審である。少なくともこの演出では変態に近い。それに比べて最初から登場する恋仇のリカルドが頭は悪そうながら一途に描かれている。

国王の未亡人のエンリツェッタはそれなりのキャラクターが与えられていて、議会の使いとなるヴァルトントの絡みなどは劇としても音楽的にもカットできないだろう。重唱は聞かせ所で重要なのは分かるが合唱にソリスツを絡ませている作曲意図がもう一つ分からない。言葉を聞き落としているのか聞こえないのか、恐らく指揮者が楽譜を読み込めていないのだろう。

どんな楽曲にしても指揮者が読めていなければ幾ら座付楽団が頑張っても駄目である。こうした音楽を聴く時にどうしてもミラノのスカラ座の音を思い描いてしまう。ヴィーンの座付がヴァクナーなどでルーティンに出来るようなことがミラノではこうした曲で出来てしまう。

楽譜を見ていると、オクサーナ・リニヴならここはこう振ってくれるだろう。ここはアンサムブルを引き締めてと色々と想像が出来る。二幕、三幕で重要な楽想が確認できるだろうか。

驚いたことにフランクフルト再開公演の9月3日初日公演が売り出された。殆ど売れていなかった。プレスを招くとかもあったのかもしれないが定期もとても少なかったようだ。全く良く分からないが、これでは3日の公演は本来の初日でもなかったのでまるでGPのようになるのだろうか?席を見て、平日上演だけに同じ席が若干安いだけだ。そしてもう一つの平日の水曜日も売りに出された。すると定期券を入れても、390席の五回で1950席しか出ない。初日の木曜日はもう完売は難しいだろうから1800人入るか入らないかだろう。つまり、たとえ安全策を講じて上演してもまた周知期間が短いということはあっても平常の五分の一ぐらいしか入らないという事は知っておくべきことだろう。― 更に他日もどんどん出るようになった。要するに定期で捨てた人が大分いて、最初に購入したのはあまりなかったと思われる。到底半分も出ないだろう。評判が良くならなければ千席出るかどうか?



参照:
フランクフルト劇場再開 2020-08-31 | 生活
注目が高まる女流の登場 2020-04-27 | 女
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マスク禁止運動を展開!

2020-09-02 | 生活
遅くなってからパン屋に立ち寄った。先におばさんがいて長い間片っ端から買い込んでいた。時間を掛けるのは良いがウロウロとして近づいてきて、喘息性の咳をするものだから、見たいならと場所を譲ると、色々見ているだけだから落ち着いてと、殆どぼけ老人だ。こういう人たちの為にこちらは不自由しているのかと思うと腹立たしいが、あの手のおばさんはコロナでは死にそうにもない。

こういう人とはあまり近寄りたくないと思う。恐らくそこで色々なものを買い漁っているという事は近所に住んでいて、他所には買い物に行かないとか、話しを聞くとそれはそれはと思うのだろうから余計に係りたくない。

しかしこれもマスク信仰の生んだ妄信が原因だ。マスクをして注意を呼びかける段階からマスクをしていれば全てが許されるようになってきている。そろそろ近郊公共交通機関以外ではマスク禁止へと動いて距離を取る方向へと舵取りをしないと、そのマスク着用自体が形骸化してくると思う。徐々にマスク着用禁止へと運動していきたい。

新たに批評を読む。全てに眼を通している訳ではないが、ザルツブルクでのベルリナーフィルハーモニカーはその旅行日程に関わらず予想以上にいい演奏をしていることが分かる。スタンダード紙のいつもの批評家はシェーンベルクではうまく行ったのがブラームスではその距離感が裏目に出たと書く。その苦情点を見ると、ペトレンコの画期的なブラームス解釈が伝わっていないことを知る。音が溶け合わない点に言及している。

更に南ドイツ新聞にその点が明らかにされる。横長の舞台で場所は充分あって、ペトレンコの指揮ならばそんな間隔など空けないでも充分に細部まで聴けたとして、一楽章ではトラムペットなどがあまりに直響いたので指揮で抑えていたというのだ。実はこの点は特別重要なのは、まさしくミュンヘンでの演奏はそれが特徴でそれをどのように解決するかが超一流の交響楽団に課されていた。少なくとも問題点とペトレンコがやろうとしていることは分かっている。

生で聴いていないので結論めいたことは言えないが、次の段階で間隔を縮めることでまた新たな発展が期待される点で、これはもう大変な事象だと思っている。そして書き手は二楽章で完全に驚愕していて、もう間隔を空けた軍隊の儀礼行進のようなことは全くなくなっているとしている。しかし四楽章の変奏曲ではその間隔の合奏法からフォルテとフォルテシモの差異が生じなくなっていると言及。

この最後の事実は、その指揮のコンセプトとは別にベルリンからの放送でも気が付いたところで、流石に金管楽器はその調整は難しいのだろう。そしてペトレンコもこれを読んでどのように聴こえたかがとても参考になると思われる。何かを間違いなく修正してくる。

そして、この間隔の配置が格下の管弦楽団の参考になるかというとならないだろうとしている。如何にベルリナーフィルハーモニカーが高度な合奏をしているかという事で、これは間違いのない事実だ。



参照:
忖度無いジャーナリズム 2020-08-30 | マスメディア批評
社会的距離感への不満 2020-09-01 | マスメディア批評

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社会的距離感への不満

2020-09-01 | マスメディア批評
フランクフルターアルゲマイネ新聞がぶち上げた。先週の金曜日土曜日のフィルハーモニーでの演奏会を批評している。結論は先に書かない、新聞の見出しでも分かるが、とても面白い。

ここではバレンボイムでは始まらず、ザルツブルクとルツェルンとの比較に繋がるのは、ここベルリンでは450人しか入っていないと、まるで視覚的な雰囲気の虚勢だと書く。ここまで読めば何が言いたいか分かるだろう。

要するに反対側からものを見るとどうなるか?

「照明が暗くなりペトレンコがアインザッツを送り、始まって直ぐに過ぎ去ってくれたならどんなに良かったか」

もうこれだけでノーベル文学賞を上げたいほど衝撃だ。

「ベルリナーフィルハーモニカ―がペトレンコへの尊敬を示したとしても、そのオープンニングのブラームスの四番がどんなに早く明晰であってもそうはいかない」とサッカリンのような一時間半だったと綴る。

再度、「もの凄くバラバラにされた聴衆に対応する最大の間隔を取った管弦楽が」と最大級の不満をぶちまける。そしてスケルツォの受け渡しが八層になった上下でされていたとして、また一楽章のバランスの悪さや三楽章のホルン合奏とか我々も気が付いて向上の可能性とした箇所は全て現状への不満として吐露される。
Brahms: Symphony No. 4 / Petrenko · Berliner Philharmoniker


因みにこの評論のタイトルは「まだ全然よくなっていない」である。いわずもがなである。評論というのは評された本人らが読んで為になるものでなければ意味が無いと思っている。特に新聞媒体ではとっても重要な使命と思う。この文章を読んで指揮者が楽団が何かの為になるかというと、それはなにも我々が指摘するまでもなく修正箇所として挙がっている事であって、特別な視線というものが活かされていない。そこから何も学ぶことが無い。駄々をこねた親仁の殴り書きとしか思われない。

それどころか案の定最後にバレンボイム指揮のシュターツカペレは、同じフィルハーモニーで、「そんな革命的な動きへの信頼で何かを変えようとするような指揮者ではなく、彼と彼の音楽家が確信をもって、フィルハーモニカーよりも気持ちよく整って聴かせるものは、全てを愉しむ人の柔らかな感覚の繊細な痛みや自然の温かみであった」と、「欧州における緊張の中での平和だ」とその時にうっとりしている。「モーツァルトのこうしたものこそが何時でも人に必要なものだ」と結んでいる。

見事である、しかしバレンボイムのネオロマンティズムのそれを全て語っているとも思えない。誰も相対的に現象を見ている訳ではないが、バレンボイムのマスク着用発言から我々がその意味するところに反応したように、この筆者は恐らくそうした一連の動きを捉え乍ら再カウンターを放っていると思う。

ネオロマンティズムなどポストモダーンでとても古臭いと思うが、国会前で反コロナ対策デモの行われたその週末にフィルハーモニーの中ではこうした夢想がなされている。バレンボイムの「マスクをさせて客席を埋めよ」のスローガンは、ここで科学的な思考などは悪態をつく対象でしかないとする夢想家と趣を一つにしている。

奇しくも冬に同じ協奏曲を弾いたバレンボイムの代わりにザルツブルクでベルリナーフィルハーモニカーとの公演をしたトリファノフの演奏に対してロマンティックという言葉が投げかけられて、またバレンボイムの同じ演奏にまるで重い赤ワインのようだとされた。その芸術性には共通性がある。



参照:
Noch ist nichts wieder gut, Gerald Felber, FAZ vom 31.8.2020
忖度無いジャーナリズム 2020-08-30 | マスメディア批評
音楽会を愉しめるように 2020-08-29 | マスメディア批評
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