Wein, Weib und Gesang

ワイン、女 そして歌、此れを愛しまない輩は、一生涯馬鹿者であり続ける。マルティン・ルター(1483-1546)

楽師さんの練習法

2020-09-03 | 生活
お勉強を始めた。ベルリーニ作曲「清教徒」である。まともに聴くのは初めてなので最も手っ取り早い方法で始めた。先ずは楽譜を落とす。そして適当なヴィデオを探す。そして粗筋をネットで読む。この三つをどのように組み合わせるかだけだが、時間節約には、粗筋を読むか読まないかで、ヴィデオを流しながら楽譜を辿る。ちょこちょこと画面を観て、音を流していくだけだ。

嘗ての潔癖な頃ならば音を聴きながら知らない楽譜を追うなんてとか思っていただろうが、座付楽団の楽師さんのちょこちょこした練習法などを見るにつけ、やはりこれが一番早いという事を理解した。演奏するのではないから、パート譜の乗りの繋ぎを確認することも無いのだが、目的は全体像を一望することである。

先ずは一幕を流した。流したヴィデオはシュトュツガルトでの生中継を商品化したものの様で出しているのがナクソスであるから初めからその質は期待などは出来ない。実際に演奏もその程度のもので、指揮者も悪く、座付楽団も合唱も良くない。一寸聴けばフランクフルトのそれよりは楽員の質は高いようにも思えるのだが、指揮者が悪いとお話しにならない。
I PURITANI Bellini – Oper Stuttgart


台詞は、楽譜にはイタリア語が書かれているだけで、ヴィデオも英語がテロップになっているだけだ。その内容を詳しく読んでいる時間も無ければ演出も辿る隙も無い。目は楽譜に行っているからだが、それでもまあ何とか舞台の実感は得られる。

そのような塩梅での一幕を終えると、途中場面の変わり目に拍手が入り楽譜も五場から二部に変わる。全部で三時間を超えるのだが、フランクフルトでは三四半時ほどカットされるので、どこをカット出来るかも考える。恐らく技術的に問題な合唱を端折るしかないだろう。問題はフィナーレなどをどのように上手く繋げて行けるか。ザルツブルクの場合のように最初から短縮で演出するのとは異なって、大きく演出を変えることが出来ないとなると短縮の可能性も限られる。

印象は、アルテューロというエリヴィーラを愛する男がとても不審である。少なくともこの演出では変態に近い。それに比べて最初から登場する恋仇のリカルドが頭は悪そうながら一途に描かれている。

国王の未亡人のエンリツェッタはそれなりのキャラクターが与えられていて、議会の使いとなるヴァルトントの絡みなどは劇としても音楽的にもカットできないだろう。重唱は聞かせ所で重要なのは分かるが合唱にソリスツを絡ませている作曲意図がもう一つ分からない。言葉を聞き落としているのか聞こえないのか、恐らく指揮者が楽譜を読み込めていないのだろう。

どんな楽曲にしても指揮者が読めていなければ幾ら座付楽団が頑張っても駄目である。こうした音楽を聴く時にどうしてもミラノのスカラ座の音を思い描いてしまう。ヴィーンの座付がヴァクナーなどでルーティンに出来るようなことがミラノではこうした曲で出来てしまう。

楽譜を見ていると、オクサーナ・リニヴならここはこう振ってくれるだろう。ここはアンサムブルを引き締めてと色々と想像が出来る。二幕、三幕で重要な楽想が確認できるだろうか。

驚いたことにフランクフルト再開公演の9月3日初日公演が売り出された。殆ど売れていなかった。プレスを招くとかもあったのかもしれないが定期もとても少なかったようだ。全く良く分からないが、これでは3日の公演は本来の初日でもなかったのでまるでGPのようになるのだろうか?席を見て、平日上演だけに同じ席が若干安いだけだ。そしてもう一つの平日の水曜日も売りに出された。すると定期券を入れても、390席の五回で1950席しか出ない。初日の木曜日はもう完売は難しいだろうから1800人入るか入らないかだろう。つまり、たとえ安全策を講じて上演してもまた周知期間が短いということはあっても平常の五分の一ぐらいしか入らないという事は知っておくべきことだろう。― 更に他日もどんどん出るようになった。要するに定期で捨てた人が大分いて、最初に購入したのはあまりなかったと思われる。到底半分も出ないだろう。評判が良くならなければ千席出るかどうか?



参照:
フランクフルト劇場再開 2020-08-31 | 生活
注目が高まる女流の登場 2020-04-27 | 女
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