ネット署名をした。シュトッツガルトの友人から回って来たメールには、ベラルーシの反政府運動の女性が拉致されたとある。劇場のHPには、メルケル首相宛ての文章に七日にミンスク市内で拉致されたとその状況が書いてあり、仲間はウクライナに護送されて、彼女マリア・カレスニコヴァはパスポートを破くことで退去を逃れたが、ベラルーシの秘密警察若しくはKGBに拘束されたとしている。
彼女はシュトッツガルト在住で、Eclat音楽祭をオーガナイズしていることで、彼女の仲間として拷問もあるとされるベラルーシでの彼女の身柄に危惧している。EU各国と共に彼女の安全を図るように求めている。
実はベラルーシの実態はよく調べていないので、ウクライナの時よりも分からない。しかし、危険なことになっていることは理解できたので、先ずは署名した。
なぜかシュトッツガルトの劇場は、例の有名な演出家の時にも活動していたが、こうした活動の割には演出などでそれほど事件になっていない。長く出かけていないので様子は分からないのだが、地元の人にはそれほど評判が良くない。
キリル・ペトレンコの嘗てのインタヴューからの記事には知らない事が書いてあった。その原稿は、ペトレンコがミュンヘンの座付管弦楽団と初めて凱旋公演をしたヴィーンの楽友協会の機関誌のようだ。だから2015年4月号である。その20日に、ゲルハーハーがハルトマン作品を歌い、ラヴァルスで初めて幻想交響曲で終えるというフランスものが演奏されている。翌月に「ルル」の初日があったのだが、そのプログラムの放送があったのかどうかも記憶にない。
それは兎も角、新情報は、ペトレンコがフェルドキルヒに移った時は、当地の音大ではまだピアノ科に通っていたという事実である。実際にはそこで指揮をして経験を積んでいたようだが、ヴィーンのウロス・ラソヴィッチ教授の所で一から指揮を勉強したという事だ。20歳だろうか?これは大きな盲点で、そこ記事に書いているように、ペトレンコ曰く「僕が僕として認識してからは殆ど毎日フィルハーモニーに居て、指揮台を下をそして指揮台をウロウロしていた」というのだから、指揮は早く始めていたと思っていた。
ラフマニノフに心酔してそればかりを弾いていたというのは知っていたが、また指揮云々も書いてあったので、てっきりミドルティーンでは基礎的に習っていたと思っていた。それが20歳となると大分異なる。しかしそのあとでビュシュコフの所では教えることは無かったとされていている。
ソ連ではなかった自由な教育に目覚めて、図書館などでCDを借りて散々聞いていたようだ。そしてピアノをフェルドキルヒでも一生懸命練習していたのは指揮者の仕事が無かった時の為の職業訓練という事で、指揮者以外には考えていなかったという。
実はそのペトレンコ、楽友協会でのデビュー公演は1997年で指揮科の卒業試験の時のコンサートだったとあるそのコンサート情報は以前に見たことがあった。そして当該記事は2009年のフランクフルトでの「パレストリーナ」新制作指揮と繋がっている。因みにその節の実況録音はCDとして発売されている。(続く)
参照:
音楽劇場化へと集中 2019-10-19 | 文化一般
不適切な「ポジティヴな移民」 2019-10-27 | マスメディア批評
彼女はシュトッツガルト在住で、Eclat音楽祭をオーガナイズしていることで、彼女の仲間として拷問もあるとされるベラルーシでの彼女の身柄に危惧している。EU各国と共に彼女の安全を図るように求めている。
実はベラルーシの実態はよく調べていないので、ウクライナの時よりも分からない。しかし、危険なことになっていることは理解できたので、先ずは署名した。
なぜかシュトッツガルトの劇場は、例の有名な演出家の時にも活動していたが、こうした活動の割には演出などでそれほど事件になっていない。長く出かけていないので様子は分からないのだが、地元の人にはそれほど評判が良くない。
キリル・ペトレンコの嘗てのインタヴューからの記事には知らない事が書いてあった。その原稿は、ペトレンコがミュンヘンの座付管弦楽団と初めて凱旋公演をしたヴィーンの楽友協会の機関誌のようだ。だから2015年4月号である。その20日に、ゲルハーハーがハルトマン作品を歌い、ラヴァルスで初めて幻想交響曲で終えるというフランスものが演奏されている。翌月に「ルル」の初日があったのだが、そのプログラムの放送があったのかどうかも記憶にない。
それは兎も角、新情報は、ペトレンコがフェルドキルヒに移った時は、当地の音大ではまだピアノ科に通っていたという事実である。実際にはそこで指揮をして経験を積んでいたようだが、ヴィーンのウロス・ラソヴィッチ教授の所で一から指揮を勉強したという事だ。20歳だろうか?これは大きな盲点で、そこ記事に書いているように、ペトレンコ曰く「僕が僕として認識してからは殆ど毎日フィルハーモニーに居て、指揮台を下をそして指揮台をウロウロしていた」というのだから、指揮は早く始めていたと思っていた。
ラフマニノフに心酔してそればかりを弾いていたというのは知っていたが、また指揮云々も書いてあったので、てっきりミドルティーンでは基礎的に習っていたと思っていた。それが20歳となると大分異なる。しかしそのあとでビュシュコフの所では教えることは無かったとされていている。
ソ連ではなかった自由な教育に目覚めて、図書館などでCDを借りて散々聞いていたようだ。そしてピアノをフェルドキルヒでも一生懸命練習していたのは指揮者の仕事が無かった時の為の職業訓練という事で、指揮者以外には考えていなかったという。
実はそのペトレンコ、楽友協会でのデビュー公演は1997年で指揮科の卒業試験の時のコンサートだったとあるそのコンサート情報は以前に見たことがあった。そして当該記事は2009年のフランクフルトでの「パレストリーナ」新制作指揮と繋がっている。因みにその節の実況録音はCDとして発売されている。(続く)
参照:
音楽劇場化へと集中 2019-10-19 | 文化一般
不適切な「ポジティヴな移民」 2019-10-27 | マスメディア批評