Wein, Weib und Gesang

ワイン、女 そして歌、此れを愛しまない輩は、一生涯馬鹿者であり続ける。マルティン・ルター(1483-1546)

ザルツブルクのブラームス

2020-09-14 | 
午前中はヴィーンからの中継録音を聴いた。ザルツブルクで八月末に演奏されたベルリナーフィルハーモニカーの演奏だった。例年の様に二種類のツアープログラムから最初のベルリンでのオープニング演奏会と同じプログラムが放送された。

この演奏会に行かなかったのはベルリンの翌日の当日移動でどれほどの演奏がなされるか、また音楽祭の先行きが不明だったからである。そして何よりも遠い。そして最低このプログラムは11月にはフランクフルトで聴ける。

なによりもこの放送に期待したのはミュンヘンから出かけたバイエルン放送協会での評とその触りの音がとても良かったからだ。そして、ベルリンでは不満のあったシェーンベルク作曲「浄夜」が想定通り扇型の祝祭大劇場で良く鳴る。ベルリンのフィルハーモニーはワインヤード型で音の分離は良いのだが今回の様に間隔を空けた合奏ではマイクからは頑張っているコントラバスなどが不自然に響いた。

放送でも紹介のあったようにマイクロフォンの設定も考えたようだが、何よりも舞台で綺麗に響いていなければマイクでも駄目である。一番の良さは微妙な交わりで、それに関しては嘗ての見本とされた大阪のフェスティヴァルホールに通じるものがある。音の重なりが重要で、未だに神戸で聴いた岩淵良太郎指揮のそれがイメージにあるので、今回は漸くそれに匹敵するものが聴けた。勿論シカゴ交響楽団をダニエル・バレンボイム指揮の録音とかの精度とか響きとかは別格だと思っていたが、特別な間隔でもそれに劣らない響きをライヴで聴かせたのは見事だった。そこには強調された神秘主義も恍惚感もそれほどないのだが、なによりも本来のプログラムであったヴェーベルンのパッサカリアに代わるだけの意味は明白になった。どうしてシェーンベルクが12音を使った作曲技法へと進んで行ったか、同時にそれはブラームスの四番交響曲のシェーンベルクからの視座が明白となった。恣意的なプログラミングとは大違いのまさしく演奏実践としてのそのプログラミングである。

そして愈々のブラームスだ。ミュンヘンで大変な演奏を聴いてから、ヴィーンでの似ても似つかぬ実況中継を聴いて、ベルリンでの開幕演奏会で溜飲が下りた。同時にミュンヘンの座付楽団とは異なり技術的特に管楽器などが確りと弦と合わせてくる。これだけは管楽器の一人一人の力量の差が如実に出ていてどうしようもなかった。しかし、ベルリンでは第一楽章でも上手く噛まず、三楽章でも傷もありとなっていて、格別楽器間のバランスとタイミングが難しそうだった。

その分、音響の差異を利用して若干ゆったりと指揮していて、その管と弦の受け渡しが見事だった。前日にペトレンコが珍しく自画自賛しているのを観て、ここまで翌晩には直して来るかと驚愕した。まさしくブラームスのこの交響曲にあるイデーは、新古典主義として片づけてしま得ない。そしてこの特別な条件で演奏されたことは恐らく歴史的な意味を持つと思う。

ネットで調べ物をしていて、キリル・ペトレンコに関する新たな記事を見つけた。その内容は一部知らなかったことに触れていて、とても興味深かった。その内容についても改めて紹介したい。

胸がすかすかする。明らかにコロナ症状である。なぜ急にとは思う。近辺で流行っているようだが、陽性者は少し増えて指数6になっている。季節の変わり目で咳をする人が多いが、これがコロナ症状である。一週間ほど経って徐々に回復してきているが、五月と同じように綺麗に抜けきってくれるだろうか。



参照:
衝突する伝統からの確立 2020-09-04 | 音
マスク禁止運動を展開! 2020-09-02 | 生活
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