秋の長雨が始まって、いよいよ夏物の服は着られない季節となってきた。本格的に冬物と入れ替えなければいけない。
今日、夏物をしまおうと思って見たところ、今年の夏1度も着なかった服が何枚かあった。会社に来ていこうと思っていったんは着てみたものの、なんとなく時代遅れのような気がして着ないままに終わったものもあった。
その中の一枚はベージュの無地のスーツで、洗濯機で洗うこともでき、アイロンは不要で、着やすかったので気に入っていた。しかし、デザインはタイトスカートに、上着は襟がついて前あきボタン、長めの半そでの袖の外側にも飾りボタンがついているというもの。これがなんとも古めかしいのである。だから、どんなに気やすかろうとなんとなく格好が悪くて着る気になれなかった。今年着ないということは、今後も着ないはずだ。
他にも、今年は着たが、ちょっとデザインが古めだという服もあり、来年は無理だろうと思うものもある。
不思議なことに、世間から考えて「デザインがだめ」という判断はある日突然やってくる。どんなに着心地がよかろうと、痛んでいなかろうと、その服を着て歩くことに抵抗感がわいてしまう。
それから、デザインが大丈夫であり、着心地もよく、気に入っている服で、「おや、いつのまにこんなによれよれになってるの?」という服が何枚かあった。
考えて見れば、気に入っているので何回も着た。だから、痛むのも当たり前だ。まだ、時代遅れにならないうちに生地のほうがだめになってしまうのだ。でも考えて見れば買ってから3年目くらいにはなっているから、現在流行のデザインというわけではない。
その中に開襟の淡いピンクのスーツがあって、前身ごろの下のほうにマーカーの黒い点がついてしまったものがある。目立つ場所ではなかったので、それがついていても気にしないで着ていたが、その黒点は日本語教師をしていたときについたものだった。学生と壁新聞を作ったときについたのかもしれない。このスーツで教えている風景が、とある日本語教室の紹介写真に使われたこともあった。
この服をこの夏会社に着ていったら、「今日はエレガントですね」と言われた。私も気に入っていた一枚である。
でも、このスーツともそろそろお別れだ。まだ捨てられないが、来年はもう着ないだろう。
他にもけっこう高いもの(と言っても元値が3万くらい)で、数年前、ある店の店員さんに絶対損はないと勧められて奮発して買ったグレーの地にシンプルなデザインが施されたスーツがある。これは上下を別々に他のものと合わせることができ、便利だったが、いつのまにか着ざらしになっており、こりゃもう寿命だという感じ。確かに元は十分とった。
その店員さんから勧められた服は、最初は私が目に止めなかった服であり、勧められて初めて着てみるという感じだったが、来て見ると意外と似合ってどれも私の好みに合っていた。それで勧められるまま、何枚も買ってしまったりしたことがあるが、どれも着回しがきき、着心地がよく、型くずれもせず、失敗はなかった。
しかし、その店員さんがその店をやめてからは、おなじ店でも自分に合った服を見つけることができなくなってしまった。別の店員さんはとんでもない趣味の悪い服ばかり勧めてくるのだ。前の店員さんの時に買った服が、今年次々に寿命を迎えてしまった。
時代遅れでもなく、生地も痛んでいないのに、突然着られない気分になる服もある。娘と一緒に買い物などに行って、ちょっと若向きのものを買ったりして、去年は着ていたのに、今年になったらやっぱりこれは私の顔と体形にはどうにも似合わないと判断する。それで、娘に上げようかと言うが、娘にはおばさんぽくて、いらないと言われてしまう。
これは、洋服に原因があるわけではなく、私が変化したために着られなくなったものである。
そうやって、けっこう寿命を迎えた服があり、その洋服と過ごしたひとつの時代が終わっていくことも感じた。
今日、夏物をしまおうと思って見たところ、今年の夏1度も着なかった服が何枚かあった。会社に来ていこうと思っていったんは着てみたものの、なんとなく時代遅れのような気がして着ないままに終わったものもあった。
その中の一枚はベージュの無地のスーツで、洗濯機で洗うこともでき、アイロンは不要で、着やすかったので気に入っていた。しかし、デザインはタイトスカートに、上着は襟がついて前あきボタン、長めの半そでの袖の外側にも飾りボタンがついているというもの。これがなんとも古めかしいのである。だから、どんなに気やすかろうとなんとなく格好が悪くて着る気になれなかった。今年着ないということは、今後も着ないはずだ。
他にも、今年は着たが、ちょっとデザインが古めだという服もあり、来年は無理だろうと思うものもある。
不思議なことに、世間から考えて「デザインがだめ」という判断はある日突然やってくる。どんなに着心地がよかろうと、痛んでいなかろうと、その服を着て歩くことに抵抗感がわいてしまう。
それから、デザインが大丈夫であり、着心地もよく、気に入っている服で、「おや、いつのまにこんなによれよれになってるの?」という服が何枚かあった。
考えて見れば、気に入っているので何回も着た。だから、痛むのも当たり前だ。まだ、時代遅れにならないうちに生地のほうがだめになってしまうのだ。でも考えて見れば買ってから3年目くらいにはなっているから、現在流行のデザインというわけではない。
その中に開襟の淡いピンクのスーツがあって、前身ごろの下のほうにマーカーの黒い点がついてしまったものがある。目立つ場所ではなかったので、それがついていても気にしないで着ていたが、その黒点は日本語教師をしていたときについたものだった。学生と壁新聞を作ったときについたのかもしれない。このスーツで教えている風景が、とある日本語教室の紹介写真に使われたこともあった。
この服をこの夏会社に着ていったら、「今日はエレガントですね」と言われた。私も気に入っていた一枚である。
でも、このスーツともそろそろお別れだ。まだ捨てられないが、来年はもう着ないだろう。
他にもけっこう高いもの(と言っても元値が3万くらい)で、数年前、ある店の店員さんに絶対損はないと勧められて奮発して買ったグレーの地にシンプルなデザインが施されたスーツがある。これは上下を別々に他のものと合わせることができ、便利だったが、いつのまにか着ざらしになっており、こりゃもう寿命だという感じ。確かに元は十分とった。
その店員さんから勧められた服は、最初は私が目に止めなかった服であり、勧められて初めて着てみるという感じだったが、来て見ると意外と似合ってどれも私の好みに合っていた。それで勧められるまま、何枚も買ってしまったりしたことがあるが、どれも着回しがきき、着心地がよく、型くずれもせず、失敗はなかった。
しかし、その店員さんがその店をやめてからは、おなじ店でも自分に合った服を見つけることができなくなってしまった。別の店員さんはとんでもない趣味の悪い服ばかり勧めてくるのだ。前の店員さんの時に買った服が、今年次々に寿命を迎えてしまった。
時代遅れでもなく、生地も痛んでいないのに、突然着られない気分になる服もある。娘と一緒に買い物などに行って、ちょっと若向きのものを買ったりして、去年は着ていたのに、今年になったらやっぱりこれは私の顔と体形にはどうにも似合わないと判断する。それで、娘に上げようかと言うが、娘にはおばさんぽくて、いらないと言われてしまう。
これは、洋服に原因があるわけではなく、私が変化したために着られなくなったものである。
そうやって、けっこう寿命を迎えた服があり、その洋服と過ごしたひとつの時代が終わっていくことも感じた。