山本飛鳥の“頑張れコリドラス!”

とりあえず、いろんなことにチャレンジしたいと思います。
と思っていたけど、もうそんな年齢じゃなくなってきた。

洋服の寿命

2005-10-09 11:19:26 | 未分類過去
秋の長雨が始まって、いよいよ夏物の服は着られない季節となってきた。本格的に冬物と入れ替えなければいけない。

今日、夏物をしまおうと思って見たところ、今年の夏1度も着なかった服が何枚かあった。会社に来ていこうと思っていったんは着てみたものの、なんとなく時代遅れのような気がして着ないままに終わったものもあった。
その中の一枚はベージュの無地のスーツで、洗濯機で洗うこともでき、アイロンは不要で、着やすかったので気に入っていた。しかし、デザインはタイトスカートに、上着は襟がついて前あきボタン、長めの半そでの袖の外側にも飾りボタンがついているというもの。これがなんとも古めかしいのである。だから、どんなに気やすかろうとなんとなく格好が悪くて着る気になれなかった。今年着ないということは、今後も着ないはずだ。
他にも、今年は着たが、ちょっとデザインが古めだという服もあり、来年は無理だろうと思うものもある。
不思議なことに、世間から考えて「デザインがだめ」という判断はある日突然やってくる。どんなに着心地がよかろうと、痛んでいなかろうと、その服を着て歩くことに抵抗感がわいてしまう。

それから、デザインが大丈夫であり、着心地もよく、気に入っている服で、「おや、いつのまにこんなによれよれになってるの?」という服が何枚かあった。
考えて見れば、気に入っているので何回も着た。だから、痛むのも当たり前だ。まだ、時代遅れにならないうちに生地のほうがだめになってしまうのだ。でも考えて見れば買ってから3年目くらいにはなっているから、現在流行のデザインというわけではない。

その中に開襟の淡いピンクのスーツがあって、前身ごろの下のほうにマーカーの黒い点がついてしまったものがある。目立つ場所ではなかったので、それがついていても気にしないで着ていたが、その黒点は日本語教師をしていたときについたものだった。学生と壁新聞を作ったときについたのかもしれない。このスーツで教えている風景が、とある日本語教室の紹介写真に使われたこともあった。
この服をこの夏会社に着ていったら、「今日はエレガントですね」と言われた。私も気に入っていた一枚である。
でも、このスーツともそろそろお別れだ。まだ捨てられないが、来年はもう着ないだろう。

他にもけっこう高いもの(と言っても元値が3万くらい)で、数年前、ある店の店員さんに絶対損はないと勧められて奮発して買ったグレーの地にシンプルなデザインが施されたスーツがある。これは上下を別々に他のものと合わせることができ、便利だったが、いつのまにか着ざらしになっており、こりゃもう寿命だという感じ。確かに元は十分とった。
その店員さんから勧められた服は、最初は私が目に止めなかった服であり、勧められて初めて着てみるという感じだったが、来て見ると意外と似合ってどれも私の好みに合っていた。それで勧められるまま、何枚も買ってしまったりしたことがあるが、どれも着回しがきき、着心地がよく、型くずれもせず、失敗はなかった。
しかし、その店員さんがその店をやめてからは、おなじ店でも自分に合った服を見つけることができなくなってしまった。別の店員さんはとんでもない趣味の悪い服ばかり勧めてくるのだ。前の店員さんの時に買った服が、今年次々に寿命を迎えてしまった。

時代遅れでもなく、生地も痛んでいないのに、突然着られない気分になる服もある。娘と一緒に買い物などに行って、ちょっと若向きのものを買ったりして、去年は着ていたのに、今年になったらやっぱりこれは私の顔と体形にはどうにも似合わないと判断する。それで、娘に上げようかと言うが、娘にはおばさんぽくて、いらないと言われてしまう。
これは、洋服に原因があるわけではなく、私が変化したために着られなくなったものである。

そうやって、けっこう寿命を迎えた服があり、その洋服と過ごしたひとつの時代が終わっていくことも感じた。

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生命と廃墟の関係

2005-10-09 01:32:19 | テレビドラマ・映画
このごろテレビや映画では、死んだ人が再び現れるというような作品が多く放映されている。たとえば、「よみがえり」や「今、会いにゆきます」など。
たしかに、亡くなった人にもう一度会いたいと思うのは誰しもの願いだろう。でも、亡くなった人が帰ってくるなんて、ありえないことであるから、非現実的な物語の中でさえ、一時的にはこの世に戻ってきたとしても、それは短期間のことで、やはり必ず別れのときがやってくるという原則は変えられていないのだ。

しかし、ここに来て、ずいぶんそんな作品が多いのは、なぜなのだろう。
どうせ事実ではありえない内容ならば、いっそのこと、一時的ではなく、本当に生き返らせて、なくなった人に長生きさせてもらいたいと思う。

もし実際、一時的に亡くなった人と再会ができるとしたらどうなんだろうか?
もう一回本当に永遠に別れなければならないとわかっていたら、会うのはもっと辛いし、もう2度と分かれたくはないと思うはずだ。私は今、なくなった父と再会できるとしても、それがつかの間のことだと分かっているなら、会うのはよけいに悲しいと思う。

ところで、「世界の中心で愛を叫ぶ」はよみがえりの話ではないが、やはり亡くなったものを思い続ける人の物語だ。
主人公の2人がどこかの島に行き、そこで亜紀が倒れるというシーンがある。その前の場面は、その島にある廃墟で2人が過ごしている。その建物の中には誰か人が飲んだり食べたりという生命の余韻が残っており、旅行の写真なども残されている。いったいどんな人がそこに息づいていたのであろう。しかし、その時点でその人たちはもうそこにはいない。その場面があった後に、亜紀が倒れたというのは、廃墟を命の終わりを予言するものとして伏線として描いているのであろう。亡くなった人の骨も廃墟のようなものだ。

また、「今、会いにゆきます」では、亡くなったはずの澪が現れた場所はトンネルの先の森の中の廃墟である。
やはり、もはや活動していないものの象徴として廃墟が使われ、そこに現れる澪はすでに命を終えているものであることを表わしている。

私は「廃墟」と言うのはなんかすごく怖い。それはもうすでに終わっているのであって、終わったものは昔どおりに復活することはないものだからだ。でも、確かにそこに営まれていた生命の余韻は残っていると思う。それは懐かしいかもしれないがやはり悲しい。

何でも、現役が一番いい。どんなにおんぼろアパートでも、今住んでいるこの公営住宅は現役である。これを取り壊そうとして、住人をどこかに移動したらここは廃墟となる。その時点で住居の機能はなくなり、建物としての生命の終わりを意味する。

昔、通っていた高校は近所に新校舎が建てられ、そっちに移った。
移ったと同時に無人になった旧校舎はとたんに荒れ果て、廃墟となった。
廃墟となったら、早く解体して別の建物を作るのがいいだろう。


結局、何が言いたいのか、自分でもうやむやなのだが・・・
生きている人間と生きている建物
死んでいる人間と廃墟
というのがセットになっている。
だから、生きている人間と廃墟という組み合わせは不自然である。
私は、今生きている人間、今使っている建物に目を向け、それを大切にして生きていきたい。
終わってしまったものは終わったということ。
そうなったら、いつまでも終わったものにかじりつかないで、生きている人、機能しているものに目を向けるということだ。


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