山本飛鳥の“頑張れコリドラス!”

とりあえず、いろんなことにチャレンジしたいと思います。
と思っていたけど、もうそんな年齢じゃなくなってきた。

続 墓のこと

2005-10-27 22:22:38 | 未分類過去
以前、9月15日のブログに義母の墓石を買わなくてはならないということを書きましたが、義母の一周忌を3月の初めにするとなると、それに間に合わせるには、今年中に田舎に行って、石材屋に石塔を注文しなければいけないということになります。

それで日程を考えていたのですが、どうしても12月の23日ころの連休までは予定が取れないのです。それで、もうクリスマスに墓石を見に行くしかないだろうと思っていました。

ところで、最近夫が言うには、「俺、墓石なんかどうでもいいと思っているんだ。買わなくたっていいんじゃないか?そんなもの買うよりも生きてる人間が使ったほうがいいんじゃないのかねえ。世間体も気にしないし、墓を建てないから運が向かないなんて、そういうふうには思わないんだよ。またいつ失業するかもわからないし、できるだけ現金を残しておいたほうがいいんじゃないか?」とのことです。

実は私も、ちょっと考えていました。私の実家の墓は跡取りがいない。うちの子供は女ばかり。それなら、今ある二つの墓はどうなるのだろうか?
少なくとも、いずれはひとつにしなければ、お寺に払うお金も大変です。寄付も何もかも2倍ということになります。そして、ひとつにするならば、墓石なんかあったらよけいな手間が増えるのではないでしょうか?
また、義母のためにと思えば買う気にもなりますが、夫や私がいずれは入る墓でもあると思うと、急にいやな気持ちになってきました。まだ、生きてるうちに手に入れたいものがたくさんあるに、死んだ後入るところなんか買いたくないです。

そして、墓を買うお金が浮いたら、子供の学費などにも当てられるじゃないかとも思うわけです。これからこどもたちにかかる学費は500万はくだらないでしょう。
月マイナス10万近い赤字を出しながら、さらにこの学費を払っていったら、最終的に残額がないなどということになりかねません。墓石を買わなければあと60万あったのに・・・などということになったりするんじゃないかなあなどと、思ってしまいます。

やはり、現実の生活も安心できないのに、墓石を買う気にはなれないというのが正直な気持ちです。
義母は確かに墓石を買うくらいのお金を遺して逝きました。でも、そのお金は結局生活費に消えてしまいました。その分は、夫の貯金から出せばいいことですが、ほんとうにお墓って何なのでしょうね。石材屋の商売じゃないのかなあ。
地震でひっくり返ったりもするので、あんな重い石を積み重ねたりせずに、外国の墓地みたいにすっきりと平らな石を置くだけじゃだめかなあなどとも思います。


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家族総フリーター化

2005-10-27 13:23:04 | 未分類過去
今時、夫が一人で働いて家族を養っている家などそんなに多くはないと思うのですが、そういうのが基本的な家族の形だという風潮はまだまだあるようです。
そういう考えに沿って考えてみると、夫だけの収入で家族全員が暮らせない場合は、妻が働くということになります。もちろん、収入が充分に足りていても社会進出したくて働く妻もいるし、外で働くのに向く妻もいるわけです。
しかし、たとえば体が弱い妻、外に出て働くのには向かない性格の妻、家事が向いている妻、子育てに忙しい妻、老人の面倒を見なければならない妻、であっても、収入のために外に出て働かざるを得ない状況になる場合もすくなくありません。

それから、それでも収入が足りない場合は、妻のみならず学業に従事している子どもも働かざるをえなくなります。うちも大学生の子どものアパートの家賃を払うのはとても大変で、私のパート収入から家賃を出し、子ども自身のアルバイト収入から光熱費や生活雑費を出すことにしていますが、そのために子どもは働かなくてはなりません。

高校生の子どもも、買いたい服なども思うように買えず、美容院で縮毛強制などするのにお金がかかり、友達との付き合いで外食などすると出費もかさみ、日常大変不自由な思いをしているようです。それに必要な経費を親に求めることはできない状況であると分かっているので、もうアルバイトをするしかないと思っているようです。

しかし、部活も忙しいのでなかなかできない状況です。親としては、そんなにまでしてバイトをしなくてもいいといいたいのですが、だからといって十分な小遣いを渡すことができない現状ですから、反対もできません。

下の子は大学に行く気がありません。高2になって塾や予備校の勧誘が激しくなってきましたが、本人は見向きもせず専門学校に進む気でいます。専門学校なら難しい入学試験がなく、部活をまじめにやっている普通の成績の子なら、間違いなく入れるとのことです。子どもがそういう道を選んでいるのも、家にお金がないことを知っているからでしょう。上の子の時には塾にも行かせて、そのためにけっこうなお金を出費していたのですが、下の子は来年の部活引退後はバイトをする気でいます。塾の勧誘の電話が来ても、「本人が大学に行く気がありませんので」と答えると、簡単です。
上の子の時には、入る可能性があるということから、最後まで値段を言わない予備校の勧誘電話や見学、説明会に労力を費やしました。

今や、夫は契約社員になっており、再就職したものの、同じところに長年勤められる保証はなく、いつまた失業するか分からないそうです。
それで、家族全員が働くという方向に動いていきます。

我が家は、みんな忙しくて、みんな自分で自分のことはして、自分に必要なお金は自分で稼いでくるというような生活形態に変わりつつあります。
主婦が家で家族の健康管理をするとか、留守を守るなどということはなくなり、子どもも学業に専念するなどということはなくなってきました。

大学生の子どもは実際にアルバイトで働いて様々な仕事につき、仕事の現状を垣間見ると、就職活動をして難しい会社に採用されるということの価値観が現実からかけ離れたものとなり、そのようなものに夢を求める気分ではなくなるのかもしれません。
今しているバイトをやめて就職活動に専念する期間が必要になったりすると、その間の収入の欠如はどうするのかというような現実的な問題も出てきます。
無理して一流企業に入らなくても適当な仕事でもいいんじゃないかというような考えにもなってしまうのではないでしょうか。
いまのところ、大学卒業後の正規の就職への期待も維持しているようですが、バイトによって物事の捉え方は変わってきているようにも思えます。
理想が消えて、どんどん現実的、その場的になっているのではないでしょうか。




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熟年社員のいない職場

2005-10-27 12:12:25 | 未分類過去
日本の平均的世帯、「年収750万円のサラリーマンに専業主婦の妻の場合」などというのをテレビで見て、ああ、確かに夫が750万も稼いでくれば、奥さんは働かなくてもいいんだろうなと思うわけである。

きっと、昔はそういう家が多かったと思う。そして、今も会社で生き残っている夫の場合は、そうなんだろう。
うちの夫も昔はそれに近いくらいの収入はあったが、どんどん減らされていき、役職がなくなり、しまいには自分のデスクもなくなり、退職前は警備員のような仕事をさせられていた。
そして、部下たちの一部はどんどん上司になっていった。

うちの夫は私とは逆で英語が得意な人である。それで、仕事上で英語圏の外国人とのやりとりは不自由なくしていたが、退職前の1~2年は、夫は第一線から外されて警備員として建物の外に立っていたりした。
ところが、社内で働く若い社員はあまり英語ができないので、外国人との間で問題が生じると手に負えなくなり、夫に助けを求めにきたこともあったという。
夫は中の仕事を30年もしてきたから、業務のことも当然分かっており、外国人に向かって英語で説明したり交渉したりして問題を解決するらしいが、外国人のほうは、警備服を着たおじさんがどうしてこういうところに出てくるのかと不思議な表情をしていたそうだ。

まあ、英語ができるだけじゃだめなのだろうが、夫がリストラされたのは、夫の仕事の能力が理由ではなく、人件費の問題らしい。正社員で勤務年数の長い夫一人がやめれば、その浮いた人件費で3人くらい契約社員やアルバイトなど若い労働力を使うことができるのだそうだ。

今、夫が勤めていた会社には夫と同年代の50代の社員は、上のほうの一部の役職以外には存在しない。
ピラミッド型の上に位置する人が50代でひとりいれば、あとは下は若者がいればいいということである。だからみんな会社をやめてどこかに散らばっていったのだ。

私が今働いている会社も、社員は若い人ばかりで、夫と同じような年齢は上に立つ責任者3人くらいしかいない。その下の50人くらいは皆、20代から30代である。責任者は数人いればいいわけだから、そこに下の人が上がっていく隙間はないので、今後はそのままの構成で全体的に年齢が上がっていくのか、あるいはそういう状況を将来性がないと感じて辞めていく人も多いのではないかと思う。正社員ではあるものの、出入りが激しいようだ。同じ業界の待遇のいい他の会社を渡り歩くのかもしれない。

子どもがバイトをしている飲食のチェーン店などでも店長がすごく若かったりすることが多い。当然、働いている人はアルバイトなどの若者ばかりだ。
たまに、レストランやメガネ屋さんに入って、ベテランの店長さんに遭遇したりし、落ち着いた応対を受けると非常に安心感を覚える。そういう人材は価値のあるものだと思うのだが・・・。

いったい、熟年はどこで働いているのだろうか?


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一日一生

2005-10-27 00:40:18 | 未分類過去
夕方、仕事から帰って、増税のニュースなど見ながら、チャンネルを回していると、阿藤快小田原を見て歩いている番組があった。ちょうど、チャンネルを回したときに、二宮金次郎に関係するところにいたようだが、「『一日一生』という言葉は、二宮金次郎の言葉でしょうかね」と阿藤快が言っていて、案内している人が「たぶん違うでしょう」と言っていた。
一日を無駄にしないで有意義に生きるという二宮金次郎の人間像から、そのような言葉が、さも金次郎の言葉のように思えるが、そうではないようだというようなことを言っていた。
「一日一生」とは、その日その日を一生のように考え、大切に生きるということであると思うが、これは何だが苦しいなあと思ってしまった。そんなに一生懸命生きたら疲れてしまいそうだ。明日があると思うから、気を抜いたり妥協できたりする。明日がないと思ったら毎日必死で生きるから、もうへとへとになりそうだ。
私のような怠け者にはそういう生き方は精神衛生上よくないように感じた。
私には「あしたがある、あしたがある、あしたがあるさ」というのがいいなあ~。

ところで、「一日一生」とは、内村鑑三の書いた本の題名として有名な言葉らしい。内村鑑三とは、私は名前くらいしか知らないが、聖書を信仰するクリスチャンだったようだ。教会に所属するのではなく、聖書に基づいて生きるというような考えだったようである。それで、一年間の毎日、聖句に照らし合わせた文章をのせた「一日一生」という本を出したそうだ。
「一日を完璧に」と思うのではなく、「一日を神に恥じない生き方」と思うなら、そのほうがしっくりする。

ところで、2人の年代を見ると、二宮金次郎のほうが昔の人だから、阿藤快の思っていたことが違うとも限らないかもしれない。

いずれにしても、「一日一生」という言葉はかなりインパクトがあると思う。
ブログの題名にしている人もいるようだ。
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