
キタモトさんによる泉鏡花シリーズ第8弾である。前作『戦国茶漬』も、凄かったが、今回は3時間半の大作だ。2時間10分のところで、15分の休憩が入るけど、オリジナルをそのままカットせず見せきる。この話なら戯曲を再構成して2時間ほどにすることは十分に可能だ。だが、そんなことをキタモトさんがするはずもない。原文に忠実に、鏡花が見せたかったものを、再現する。もちろん、そこはキタモトさんの視点から、だが、キタモトさんは鏡花に寄り添う。演出の方法はさまざまなやり方をとるが、オリジナルの精神は一切曲げない。今回もいつもと同じだ。
本作はいままでの7作品と較べると、いささか通俗的なストーリー展開を見せる。そういう意味ではテイストも今までとは微妙に違う。膨大な量をはしょることなく、丁寧に見せていくことで、この作品の本当にねらいも明確になる。一見通俗的に思える描写をきちんと見せることで、この作品はわかりやすいだけではなく、そこにある奥行きが明確になる。表層的なところに流されると見えにくい。人の心の中にある俗っぽさを拒否するのではなく、それと向き合うことで、その先にあるものが見えてくるからだ。この長さは必要なのだ。第2場の話なんて俗の極みだ。森川万里さんが笑わせてくれる。彼女の堂々とした芝居が際立つ。こういう部分がきっとコンパクトにまとめると損なわれるのだ。
最初の三輪浄閑寺の段も、あれだけのボリュームがあってこそ、成立する。吉原の火事でたくさんの人たちが死んだ。そんな悲惨な場へ、物見遊山で駆けつける不届きなやつら。彼らはここで好き放題の狼藉をする。そこで起きる対立をお柳(大熊ねこ)が納める。これだけで1本の芝居を見た気分だ。だが、それが次の姑、小姑による嫁いびりの話へつながり、そこでも、お柳が、自分の抑えてきた気持ちを爆発させることで納める。前半のこの2つのエピソードから、後半は廃墟にたたずむ彼女のドラマへと突き進む。俗な存在と、聖なる存在である彼女との対比が、作品の根底をなす。
帰るべきところを失った彼女が吉原に戻ってきて焼け跡で一夜を過ごすところから、クライマックスは赤魔姥と向き合う火の海の中でのシーンだ。とても美しい。これはまず、エンタメとしても楽しめる。だが、その根底に流れるものは、変わらない。聖と俗の対比から始まり、それがこの場面で極まる。この世の果てに向かう男女という図式は変わることにない鏡花の美意識だ。ただ、今回は、人間の弱さや愚かさがいつも以上に前面に出ている。3時間半堪能できる。
本作はいままでの7作品と較べると、いささか通俗的なストーリー展開を見せる。そういう意味ではテイストも今までとは微妙に違う。膨大な量をはしょることなく、丁寧に見せていくことで、この作品の本当にねらいも明確になる。一見通俗的に思える描写をきちんと見せることで、この作品はわかりやすいだけではなく、そこにある奥行きが明確になる。表層的なところに流されると見えにくい。人の心の中にある俗っぽさを拒否するのではなく、それと向き合うことで、その先にあるものが見えてくるからだ。この長さは必要なのだ。第2場の話なんて俗の極みだ。森川万里さんが笑わせてくれる。彼女の堂々とした芝居が際立つ。こういう部分がきっとコンパクトにまとめると損なわれるのだ。
最初の三輪浄閑寺の段も、あれだけのボリュームがあってこそ、成立する。吉原の火事でたくさんの人たちが死んだ。そんな悲惨な場へ、物見遊山で駆けつける不届きなやつら。彼らはここで好き放題の狼藉をする。そこで起きる対立をお柳(大熊ねこ)が納める。これだけで1本の芝居を見た気分だ。だが、それが次の姑、小姑による嫁いびりの話へつながり、そこでも、お柳が、自分の抑えてきた気持ちを爆発させることで納める。前半のこの2つのエピソードから、後半は廃墟にたたずむ彼女のドラマへと突き進む。俗な存在と、聖なる存在である彼女との対比が、作品の根底をなす。
帰るべきところを失った彼女が吉原に戻ってきて焼け跡で一夜を過ごすところから、クライマックスは赤魔姥と向き合う火の海の中でのシーンだ。とても美しい。これはまず、エンタメとしても楽しめる。だが、その根底に流れるものは、変わらない。聖と俗の対比から始まり、それがこの場面で極まる。この世の果てに向かう男女という図式は変わることにない鏡花の美意識だ。ただ、今回は、人間の弱さや愚かさがいつも以上に前面に出ている。3時間半堪能できる。