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映画・演劇のレビュー

川上弘美『なめらかで熱くて甘苦しくて.』

2013-07-06 08:07:23 | その他
初期作品のテイストがよみがえる。初めて『蛇を踏む』を読んだ時の気持ち悪さ。でも、それがなんだか心地よかったりもする。あの感じ。よくわからないものがあって、それをそのまま受け入れている。時間は延びたり、縮んだり、ふわふわしているようで、でも、怖い。特に最後の作品がそう。 

 最初の『aqua』はそうでもなかった。同じ名字の2人の女の子の友情物語、なんていう分かりやすいパッケージングも可能だ。でも、実際はそうではない。前世の記憶を持つ汀と、そんな彼女に魅かれる水面。このふたりの田中さんの付かず離れずのお話。この淡い感じはなんだ、と感じながら、読む。何もない。でも、悲しい。

 次の『terra』は、分かりやすい。死んでしまった隣室の女の骨を故郷に帰す話。死んだ女が、まるで他人のふりして彼の旅についてくる。男と女と隣室の身寄りのない女(の骨)が、東京から山形まで旅する。骨の女は彼の恋人のようなものだったようだ。じゃ、今ここにいて、一緒に旅する女は? 自分の心と身体とが分離してそれぞれ勝手に生きている。5つの短編はいずれもそんな話。これが一番分かりやすく描いてあるけど、全部同じ。

 次の『aer』では自分と、お腹の中の赤ちゃん。しかも、その赤ちゃんも生まれる以前と生まれた後では分離している。アカシは生まれるとアオと名づけられる。2人は彼女の心の中では別の存在だ。しかも、自分とその赤ちゃんは最初は一緒だったのに、今では分離している。当然の話だけど。

 最後の2本は、もうその存在すらよくわからない。『ignis』では、男と女(自分)との生活が綴られる。ありきたりのお話なのだが、ふたりが歩く「道」は現実ではない。その妄想の中の「道」でのやりとりが、現実よりリアル。時間はあちらこちらを行き来して、今がどこかすら、よくわからなくなる。

 最後の話(『mundus』)なんか、全体の形すら曖昧なまま。祖父の話からスタートして、自分の話へとつながるのだが、そこには、同じように「それ」と呼ばれるものが、関わる。「それ」はいつもそこにいる。彼はこの小説の中では「子供」と呼ばれる。でも、いつまでも子供生まではない。30年たつと、中年の男になるし、やがて祖父と同じように老人にもなる。

 実態のはっきりしない、わけのわからないものに包まれて人は生きている。そのわからないものに、名前を付ける必要はない。「それ」で充分だ。「それ」と一緒に暮らしている。それは、友人のふりをしたり、恋人になったり、赤ちゃんにもなる。夫婦(ではないけど)の人生になったり、ただの「それ」にもなる。わけがわからないままだ。でも、そのふわふわして実態がありそうでなさそうで、「それ」としか言いようのないものを、そばに置いて、生きている。やがて死んでいく。洪水で家は流され、家族も死ぬ。でも、人はいつか死ぬのだから同じようなものか、なんて。そんなこんなも、含めて、いろんなことがこの小説の中では描かれる。

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