
こんなにも、どうでもいいような、小さな、どこにでもありそうな、そんなお話で1本の長編映画を作るって、どうなんだろ、と思わされる。もちろんスターを使った商業映画である。こんな話がメジャーの映画になるのかと驚く。しかもいつもの伊坂幸太郎とはちょっと違って、お話の整合性があまりに緩い。この人たち(主人公たちね)が、この状況になくてもいい。たまたまそうなっただけ。しかもどこにフォーカスしても成り立ってしまうようなそんなゆる~い映画だ。
どこにでもあるどうってことないいくつかのエピソード。それを積み上げていくだからこれでいいのか、と改めて思う。ここにいる自分は、偶然、今の状況にあるだけで、もしかしたら、そうじゃなかったかもしれない。だけど、今こうしている。これでよかったと思えることが、それが一番大事なことなのかもしれない。そんなことを思わせてくれる。これはそんなとても小さな物語。今泉力哉監督の『パンとバスと2度目のハツコイ』をたまたま予習で前日に見たのだけどこの映画とよく似ていた。これは伊坂小説の、というよりも今泉映画と呼ぶべき作品だろう。映画としてはたいしたことがない。伊坂幸太郎原作映画としては最低ランクの出来かもしれない。でもこれはこれで悪くはない。
映画の後半、いきなりの10年後はあまりに唐突だったけど、その唐突さを受け入れることでこの映画は成り立つ。何度も言うけど、これはどうでもいいお話なのだ。主人公たちに感情移入できないのは、作り手が彼らにちゃんと寄り添わないからだ。群像劇は苦手だったのだろう。だいたい主人公がなかなか出てこないし、脇役以上に地味なポジションってどういうことだ? 多部未華子である。彼女を見に来たファンは怒るだろう。せめて、三浦春馬と彼女のドラマを他のエピソード以上に輝かせるくらいの配慮は必要だろう。でも、しない。(矢本悠馬のほうが主人公以上の出番があるってどうよ。)
だからこれは誰が主人公でもいいのだ。仙台の町で(もちろん仙台でなくてもいい)生きる不特定多数の人たちのなんでもない毎日のスケッチ。それだけ。フォーカスしたのがたまたま、彼らだっただけ、というくらいの立ち位置。『愛がなんだ』の強烈なキャラクターの対局にあるような地味な人たち。空白になった10年間もたまたま中抜けしただけ。ドラマチックとは縁遠い。バスを追いかけるというまるで映画みたいな展開すら、地味。