習慣HIROSE

映画・演劇のレビュー

金蘭座『ムーヴィングドール』

2007-03-26 23:34:16 | 演劇
 いくつものイメージがこの芝居を象徴的に彩っている。ヤクザ、娼婦をドラマの中心に据えて、この町から出て行きたいのにそれが出来ない人々の物語という枠組みを設定する。この吹き溜まりのような場所で女たちは生きる。そこに迷い込んだ足の悪い女。最初はゲームの世界に迷い込んだはずだった女がそこで人探しをする。ゲームだから何度でもやり直しが効くはずだった。しかし、この世界はいつの間にかリアルな空間に変容していく。

 ここで体を売って暮らすケイ(永田香織)とその仲間たち。彼女の行方を追ってこの町までやって来た彼女の高校の頃の担任だった夏美(中迎由貴子)。この二人が本編の主人公だ。

 芝居の最初、夏美先生は足を引き摺りながら出て来る。芝居の中盤にはケイが好きになった男が通り魔に足を刺される。さらには、ラストでケイがヤクザの銃弾で足を撃たれる。この3つの足の怪我が連鎖していくことの意味。そこに込められた想いが芝居を大きく動かしていく。それは芝居のなかで語られる『幸せの血染めの黄色いハンカチ』というイメージに象徴されるものである。

 死んでしまったケイの母親は、彼女を見守り続けるうちにどんどん年が若返り、今では小学6年になってしまった。彼女は幻影でしかないが、彼女が一部の人には見える。このまま若返ってしまうと、やがてもう一度死んでしまうことになる。でも彼女は消えてしまうまでは、ケイの傍にいて背後霊のように見守っていようとする。

 終盤の謎解き部分は、あまりに陳腐すぎて見ていて辛かった。ケイの母親の死と、それによって先生とケイの関係がどんなふうに崩れていったのかが、あれでは、はっきり見えてこない。そこが締まらないと終われない。ケイの母を殺した動機、犯人の正体。それを明かしてもそんなのは説明でしかない。そんな説明なんかいらないのだ。大事なのはタイトルにもある『ムービングドール』とは何なのか、である。人は動くだけの人形でしかないのか。この世界を生きる我々自身の姿を象徴させ、そこにどういう想いを込めようとしたのか。この芝居の謎解きはそこに尽きるはずだ。

 ケイと先生の同性愛についてもあまり語れてない。彼女が壊れていくのを止められなかった先生の悔恨。描かれなかった空白の6年の歳月を引き摺る足に象徴させたのは秀逸だが、それが、最終的に行き着く先こそラストで見たかった。ケイを探して自分の心の迷宮に迷い込んでいく夏美先生の物語が、様々なイメーを錯綜させながら、紆余曲折を辿りラストまで休憩を挟み3時間で描かれていく。怒濤のドラマが展開していく。これはまさに山本篤先生の独壇場である。

 この芝居を読み解いていく上で、まず1番秀逸なイメージシーンから少し説明する。夏美は満員電車の中にいる。周りの突き刺すような視線を感じる。周囲の女たちは、彼女の受け持つクラスの母親たちである。無言の重圧。そして、彼女たちからの罵声。一人の女生徒だけにかまって、他の生徒をおざなりにしてしまう担任への批判。彼女は女たちの押し潰される。このシーンは強烈である。彼女が本気でケイと向き合うことのより、彼女自身の心のバランスを欠いてしまい、担任教師としての自分を見失う。個と1対1で向き合い相手を100%受け止めることの困難。本気になればなるほど自分だけでなく相手まで見失うことになりかねない。彼女は教師を辞めてしまうことになる。彼女の受けた傷の象徴としての足の怪我。彼女は左足を引き摺りながらケイを探す旅に出る。

これはケイと夏美の物語だ。ケイが迷い込んだ地獄に夏美も飛び込んでゆき、彼女をそこから救い出そうする。しかし、救うなんていう行為は単なる自己満足にすぎず、ケイは自分の場所で1人立派に生きていく。だから自分は彼女を見守り、受け止めてあげるしかないのだと気付く。そんな2人の魂の彷徨が描かれる。

 2部構成。2時間40分に及ぶ大作である。悠々たるタッチで、2人の女の心の旅が描かれる。それに様々な人々の想いが交錯していく。幻の町で体を売り生きていくケイたちと、そこに迷い込んでくる夏美先生。すべては夏美先生の見た幻でしかないのかも知れない。行方不明になったケイを探し求めて、自分を見失った彼女が、もう一度自分自身を取り戻すためにケイと出会う。ケイと彼女を囲む世界に触れることで実態のないものを追いかけてきた自分が、初めて体を売って生きている女たちを通して現実と向き合う。

 芝居の中で描かれる女たちの世界が余りに嘘っぽすぎて、風俗というものをリアルには描かれてないのが、大問題なのだが高校生たちに演じさせている以上、これ以上の描写は出来なかったのだろうか。だいたいここで描かれる世界って昔の遊郭か何かをイメージしたようなアナクロさで、女たちの世界にリアリティがないから芝居全体が素直に受け入れられなかった観客も多かったのではないか。そこに目を瞑らなくてはこの芝居は見てられない。

話にをどんどん広げていき、横道に逸れて収集がつかなくなってもどんどんエスカレートさせていく。この芝居は最初からまとまりなんて目指してない。まるで唐十郎のテント芝居のような作り方をしている。それを女の子だけを使ってするのだ。山本先生お得意の人海戦術も使い、もうこうなったらなんでもありのヤケクソ(女の子達に対してこれでは、言葉が汚いです。ごめんなさい。)の芝居だ。しかも、(はっきり言うと)高校生たちを動員したモブシーンに力がない。かっての金蘭演劇部の芝居ならこのモブシーンに圧倒されたのに。コロスとしての彼女たちが機能していないから高校生が出てくると芝居のテンションが下がる。これはよくない。時間もなかったろうし、大人に混じって大変なのはよく解るが、そこで加速がつかないとこの芝居は成立しない。山本先生だってそんなこと承知で演出しているはずだ。でも、これしかないから、やってしまった。僕はそこの潔さを感じる。いいじゃないか。失敗を恐れて挑戦はありえないのだから。

 芝居の終わらせ方にも問題を感じた。あまりにあれでは単純すぎないか?正直言うと、強引すぎて見てられない。でもああいう終わり方を選んだ。ここでも、破綻は承知の上である。山本先生が何を目指してこの芝居を作ったのか。解らなくなる。はっきり言うと、それに不満もある。

 宮沢賢治の『雨ニモ負ケズ』をモチーフにして、あの詩の中にでてくる「でくのぼう」に注目し、そんなふうになりたいと願った2人の女の子たちとして主人公を描いた。そんなぶきっちょな生き方に何を託したかったのか。それに対する明確な答えもは提示されてない。

 欠陥だらけの芝居だが、でもここには今あふれ出るエネルギーを1本の芝居の中に強引に放り込んで、傷だらけで、破綻だらけの1本として示したことは評価されていい。

 余談だが、2部のオープニング(山本先生はボレロが好きだ)に、先生が自ら浮浪者役で登場するシーンがある。あの場面での緊張感は心地よい。彼の存在感は大きい。女だけの芝居に、一瞬男が出て来るだけで、こんなにも空間が引き締まっていく。裏返せば金蘭座の芝居の根本的な弱点はその一点に尽きる。しかし、それを逆手にとって芝居を作り続けるということを山本先生は選んだのだから、その中でどれだけやれるか。さらには女だけ(少女だけ)の舞台だから見せれるリアルはないのか。それを追うことがこの集団の使命だ。困難は承知の上で彼らの芝居作りはこれからも続く。

 主役の2人はすばらしい。彼女たちがしっかり芝居全体を引っ張ってくれるので、これだけの長丁場がだれることなく、見ていける。ただ、周囲との落差が大きすぎるのは今後の問題点となろう。さらには先にも書いたが高校生たちが、コロスとしても、脇役としても、あまりに幼すぎて苦しい。でもそれは彼女たちのせいではない。演出の責任である。

追記  

 主人公の名前の表記は後でパンフレットを確認すると、『ケイ』ではなく、『けい』となっていたが金蘭座の旗揚げ公演の主人公がケイとカタカナ表記になっていたことから、僕は『ケイ』というイメージで芝居を見ていたので、ここではそのままにした。 

 

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2 コメント

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Unknown (かつての金蘭会生徒)
2007-04-23 20:12:15
金蘭会はクズです!



もう消えろってぐらいに憎いです!



この学校に在籍したことあるけど最悪です!
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金蘭会演劇部のこと (hirose)
2007-05-02 07:13:14
金蘭会高校がどんな高校かは知りません。ただ、演劇部と山本先生のことは少し知ってます。とても素敵な人たちです。お芝居が大好きで、いつも一生懸命で。だから僕は、彼女たちの芝居を見れるのが、嬉しいです。
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