なんてシンプルな物語だろうか。今までのアグリーの芝居とは全く違ったテイストの作品になっている。わかりやすくて、ストーリーも読みやすい。次の展開を見切ることができる。予定通りの結末へと、つながっていく。1時間15分という短さも今まではなかったことだ。
だが、そういうルックスとは裏腹に、実はとても難解な芝居でもある。とても感覚的で、それがきれいに収まっているように見えながらも、歪つにはみ出している部分もあり、それを取り繕うことなく、垂れ流すように描いているから不気味に見える。
芝居自体は、子供のための童話絵本のような作りになっている。頁を捲るようにシーンが作られている。動く童話を読み聞かせしてもらっている気分だ。出産に対する不安。2年以上身籠ったままで、おなかがどんどん膨れてくるが、いつまでたっても生まれてくる気配はない。最初はそういうイメージから始まる。
小さなお話を作りたかった。小さくてかわいいお話を作りたかった。夜、母さんが寝物語として語り聞かせてくれるような。それが樋口脚本の意図である。
「昔、昔、あるところに小象がいました。片方の牙が伸びすぎてしまって、自分の頭を突き刺してしまう気がして、彼はその牙を折ってしまいました。すると、今度はなくしてしまった牙がズキズキ痛むのです。彼はひんひん泣きながら、旅に出ます。」
こんなふうにして小象の旅は始まる。まっくろなサーカスに辿り着き、ネズミと出会い、半分は白いハトで半分は黒いカラスのハトカラスと出会い、ウサギ、キツネ、トカゲと出会う。小象の旅は続いていく。
絵本を捲るように、次がどうなっていくのか、ドキドキしながら、母の話を聞いていくように、このささやかな芝居は展開していく。「象の墓場」というおうちに帰るための駅を求めて旅をするのだ。物語は小象の話のはずなのだが、芝居の中で実際に旅するのは大象(父親の象)である。彼が妻の出産という現実から目を背けるための家出としての旅が綴られていく。
未来探偵社の隈本晃俊をゲストに迎えて、大柄な彼に窮屈そうにこの大象役を演じてもらっている。この芝居のポイントはそこにある。隈本さんが大きな体を小さくして、とても不自由そうに芝居の中にいる。彼が家に帰るための駅を探して様々な動物と出会う。いつまでも生まれてくることのない赤ん坊はいつまでも母の胎内という闇の中にいたい。だが、いつかは生まれてくるしかないのだ。
大象は自分が父親になるということを認めて、妻との蜜月に区切りをつけ、本当の意味での家族になるべきなのである。妻から逃げ出すために家出したはずの彼が、必死になって家に帰るための駅を探し続ける。それを三日月猫がずっと見守り、導いてくれる。
モノトーンの芝居はこれが母親の胎内という光のない世界の物語だからであり、その闇の中から光を求めて彷徨う父=息子の物語を象徴している。シンプルな美術(岡一代)もそのためである。ぐるぐるぐるぐる胎内の同じところを巡り続け、そしてラストでは胎道から外界へと出て来る。どこまでも続く真っ赤な血の色をした道を辿り生まれてくるラストシーンは目に鮮やかで印象的である。
大きなおなかを抱えて不気味に微笑む村上桜子の母親はまるで寺山修司の『田園に死す』に出て来るサーカスの空気女を思わせる。春川ますみが夫である小人に、自分は動けないので空気を入れさせ「ああ、いい気持ち」と恍惚の表情を浮かべていたあのシーンを思い出した。この芝居全体がまさに寺山映画へのオマージュではないか、と思ったが、それは考えすぎか。
父親と生まれてくる以前の息子(あるいは娘かもしれないが)が三日月に導かれて旅する。そして、その旅は母親の胎内で聞くおとぎ話であるということ。この見事な構造を提示できただけでもこの芝居は成功している。
従来のアグリーの芝居のよさと、作家である樋口美友喜の新しい挑戦が実を結んだ新生アグリーの第一歩を刻む作品となった。それを演出の池田祐佳理が、母親としての無意識の感性のおもむくまま、とても優しく包み込むような芝居として作り上げてくれた。
何度でもくりかえし見たくなる、そしてきっと見れば見るほど新しい発見のある芝居である。あと5年後くらいに再演されたなら、今回とはまた別の作品になっていることだろう。それを見るのが今からとても楽しみだ。
だが、そういうルックスとは裏腹に、実はとても難解な芝居でもある。とても感覚的で、それがきれいに収まっているように見えながらも、歪つにはみ出している部分もあり、それを取り繕うことなく、垂れ流すように描いているから不気味に見える。
芝居自体は、子供のための童話絵本のような作りになっている。頁を捲るようにシーンが作られている。動く童話を読み聞かせしてもらっている気分だ。出産に対する不安。2年以上身籠ったままで、おなかがどんどん膨れてくるが、いつまでたっても生まれてくる気配はない。最初はそういうイメージから始まる。
小さなお話を作りたかった。小さくてかわいいお話を作りたかった。夜、母さんが寝物語として語り聞かせてくれるような。それが樋口脚本の意図である。
「昔、昔、あるところに小象がいました。片方の牙が伸びすぎてしまって、自分の頭を突き刺してしまう気がして、彼はその牙を折ってしまいました。すると、今度はなくしてしまった牙がズキズキ痛むのです。彼はひんひん泣きながら、旅に出ます。」
こんなふうにして小象の旅は始まる。まっくろなサーカスに辿り着き、ネズミと出会い、半分は白いハトで半分は黒いカラスのハトカラスと出会い、ウサギ、キツネ、トカゲと出会う。小象の旅は続いていく。
絵本を捲るように、次がどうなっていくのか、ドキドキしながら、母の話を聞いていくように、このささやかな芝居は展開していく。「象の墓場」というおうちに帰るための駅を求めて旅をするのだ。物語は小象の話のはずなのだが、芝居の中で実際に旅するのは大象(父親の象)である。彼が妻の出産という現実から目を背けるための家出としての旅が綴られていく。
未来探偵社の隈本晃俊をゲストに迎えて、大柄な彼に窮屈そうにこの大象役を演じてもらっている。この芝居のポイントはそこにある。隈本さんが大きな体を小さくして、とても不自由そうに芝居の中にいる。彼が家に帰るための駅を探して様々な動物と出会う。いつまでも生まれてくることのない赤ん坊はいつまでも母の胎内という闇の中にいたい。だが、いつかは生まれてくるしかないのだ。
大象は自分が父親になるということを認めて、妻との蜜月に区切りをつけ、本当の意味での家族になるべきなのである。妻から逃げ出すために家出したはずの彼が、必死になって家に帰るための駅を探し続ける。それを三日月猫がずっと見守り、導いてくれる。
モノトーンの芝居はこれが母親の胎内という光のない世界の物語だからであり、その闇の中から光を求めて彷徨う父=息子の物語を象徴している。シンプルな美術(岡一代)もそのためである。ぐるぐるぐるぐる胎内の同じところを巡り続け、そしてラストでは胎道から外界へと出て来る。どこまでも続く真っ赤な血の色をした道を辿り生まれてくるラストシーンは目に鮮やかで印象的である。
大きなおなかを抱えて不気味に微笑む村上桜子の母親はまるで寺山修司の『田園に死す』に出て来るサーカスの空気女を思わせる。春川ますみが夫である小人に、自分は動けないので空気を入れさせ「ああ、いい気持ち」と恍惚の表情を浮かべていたあのシーンを思い出した。この芝居全体がまさに寺山映画へのオマージュではないか、と思ったが、それは考えすぎか。
父親と生まれてくる以前の息子(あるいは娘かもしれないが)が三日月に導かれて旅する。そして、その旅は母親の胎内で聞くおとぎ話であるということ。この見事な構造を提示できただけでもこの芝居は成功している。
従来のアグリーの芝居のよさと、作家である樋口美友喜の新しい挑戦が実を結んだ新生アグリーの第一歩を刻む作品となった。それを演出の池田祐佳理が、母親としての無意識の感性のおもむくまま、とても優しく包み込むような芝居として作り上げてくれた。
何度でもくりかえし見たくなる、そしてきっと見れば見るほど新しい発見のある芝居である。あと5年後くらいに再演されたなら、今回とはまた別の作品になっていることだろう。それを見るのが今からとても楽しみだ。