
こんなにも個人的なものを、ここまで断片的なイメージのままで1本の芝居として作り上げてしまっていいのだろうか。わかるとか、わからないとか言う次元ではなく、ここまで極私的な世界を演劇として提示するという行為に対して、ためらいがある。
主人公である私(松田本人を役者が演じる)が長崎の街をさすらう。同じようにフランツ・カフカ!もこの街をさすらう。父が生き、やがて死んでいくことになるこの街。父はこの町から戦争に行き、アメリカはこの町に原子爆弾を落とした。たくさんの人が死んだ。父と子の物語を、戦争、原爆の物語としても描く。この両者は密接に絡み合う。父を通して戦争がストレートに伝わる。そのことを正面から受け止める自分。プライベートな親子の対話が、とても重いテーマに繋がる。極私的な切り口で淡々と描きながら、それが役者たちによって再現されていく。中央正面の巨大なスクリーンには実際の父親にインタビューした松田正隆さんの姿が写される。ビデオ映像で本人が取材した姿が投影させる。この映像部分と舞台で演じられる象徴的なドラマとの噛み合わせの悪さ。
子どもの頃、父に連れられて行った原爆資料館には、無脳児の写真があった。少年だった彼はその写真を見たことがトラウマになる。この被爆者が産んだ昭和42年誕生の無脳児を巡るイメージを核にして(その子が原爆とかかわりあうのかどうかすら、わからないまま、展示されていた事実。そして、今ではその写真は資料館にはないという事実。)そこからこの芝居は作られてある。松田さんの中にある恐怖がこの悪夢のようなドラマの根底にある。だが、それが1本の芝居として描き出せたかというと、かなり疑問がある。様々な実験が施されたこの芝居で、それらがどれだけの効果を挙げているのか、よくわからない。
父が戦場で殺した人たちに対して、その行為を彼はどう受け止めているのか。松田さんはそれをいかに究明しようというのか。兵士によって反復的に繰り返される殺害行為を通して殺されたものたちの痛みが感じられるか。海のかなたで行われた行為。ここで行われたアメリカによる虐殺。原爆によって殺された人たちの痛み。父という個人(だが背後には日本がある)の行為。原爆(背後にはもちろんアメリカがある)によって犠牲になったおびただしい人たちの受難。
たったひとり赤い服を着たロープウェイ嬢がマイクを突きつけるシーンが強烈だ。役者たちは無表情で、芝居は人と人とが会話するシーンは一切ない。すべてモノローグだ。坂の町長崎を象徴するように舞台中央には巨大な坂が設置される。この坂とその背後のスクリーンだけである。その坂を何度となく滑り落ちてくる死体。松田本人がこの芝居の執筆をしている姿がスクリーンに映される。その前で役者たちが書かれているシーンを演じる。
幾つもの声がこの町には沈んでいる。死んでいったものたちの無念の声。生き残ったものたちの声。それを父への手紙を通して浮かび上がらせる。カフカの父への手紙を重ね合わせながら。
ここまで私的な演劇はなかろう。独りよがりすれすれで成立する。とてもあやうい。正直言って、あまり面白くはなかったが、なんだかドキドキさせられたのも事実だ。こんな表現もありなのだろう。ここにはしっかりとした作り手の覚悟ほどが伺える。だから、舞台から目を離すことができない。
主人公である私(松田本人を役者が演じる)が長崎の街をさすらう。同じようにフランツ・カフカ!もこの街をさすらう。父が生き、やがて死んでいくことになるこの街。父はこの町から戦争に行き、アメリカはこの町に原子爆弾を落とした。たくさんの人が死んだ。父と子の物語を、戦争、原爆の物語としても描く。この両者は密接に絡み合う。父を通して戦争がストレートに伝わる。そのことを正面から受け止める自分。プライベートな親子の対話が、とても重いテーマに繋がる。極私的な切り口で淡々と描きながら、それが役者たちによって再現されていく。中央正面の巨大なスクリーンには実際の父親にインタビューした松田正隆さんの姿が写される。ビデオ映像で本人が取材した姿が投影させる。この映像部分と舞台で演じられる象徴的なドラマとの噛み合わせの悪さ。
子どもの頃、父に連れられて行った原爆資料館には、無脳児の写真があった。少年だった彼はその写真を見たことがトラウマになる。この被爆者が産んだ昭和42年誕生の無脳児を巡るイメージを核にして(その子が原爆とかかわりあうのかどうかすら、わからないまま、展示されていた事実。そして、今ではその写真は資料館にはないという事実。)そこからこの芝居は作られてある。松田さんの中にある恐怖がこの悪夢のようなドラマの根底にある。だが、それが1本の芝居として描き出せたかというと、かなり疑問がある。様々な実験が施されたこの芝居で、それらがどれだけの効果を挙げているのか、よくわからない。
父が戦場で殺した人たちに対して、その行為を彼はどう受け止めているのか。松田さんはそれをいかに究明しようというのか。兵士によって反復的に繰り返される殺害行為を通して殺されたものたちの痛みが感じられるか。海のかなたで行われた行為。ここで行われたアメリカによる虐殺。原爆によって殺された人たちの痛み。父という個人(だが背後には日本がある)の行為。原爆(背後にはもちろんアメリカがある)によって犠牲になったおびただしい人たちの受難。
たったひとり赤い服を着たロープウェイ嬢がマイクを突きつけるシーンが強烈だ。役者たちは無表情で、芝居は人と人とが会話するシーンは一切ない。すべてモノローグだ。坂の町長崎を象徴するように舞台中央には巨大な坂が設置される。この坂とその背後のスクリーンだけである。その坂を何度となく滑り落ちてくる死体。松田本人がこの芝居の執筆をしている姿がスクリーンに映される。その前で役者たちが書かれているシーンを演じる。
幾つもの声がこの町には沈んでいる。死んでいったものたちの無念の声。生き残ったものたちの声。それを父への手紙を通して浮かび上がらせる。カフカの父への手紙を重ね合わせながら。
ここまで私的な演劇はなかろう。独りよがりすれすれで成立する。とてもあやうい。正直言って、あまり面白くはなかったが、なんだかドキドキさせられたのも事実だ。こんな表現もありなのだろう。ここにはしっかりとした作り手の覚悟ほどが伺える。だから、舞台から目を離すことができない。