このアトリエに来ると、それだけで懐かしい気分に包まれる。昔はこういう場所でよく芝居を見た。たとえば京橋のアルバトロス。あそこになんか一時期本当に足繁く通ったものだ。
倉庫を改造して稽古場にする。そこで定期的に芝居を打つ。せいぜい50席ほどの客席にぎゅうぎゅう詰めて、芝居を見る。夏は暑くて、冬は寒い。そんな自然なままの空間で、わけのわからない独りよがりすれすれの作品に熱狂する。そんな時代がかつて確かにあった。
でも、今はもうそんな時代ではない。小劇場の芝居が、本来の力を持つ時代は終わった。だから、もうこういう芝居も、こういう劇場も、過去のものとなる。でも、酔族館は、今も昔のままだ。80年代で時間が止まっている。そんな彼らの芝居を見ると、なんだかそれだけでうれしくなる。もうそんな時代じゃないのだよ、と斬り捨てることも可能だ。だが、彼らはあまり顧みられることがなくても、ひっそりと、でも、しぶとく公演を打つ。
作、演出のパパイヤ豊作さんは、今回も、ちゃんとアングラの王道をいく作劇で、この作品を作る。原発をテーマにして、静かな怒りを炸裂される。話はあちらこちらに飛ぶ。この手の作品のパターンだ。わざと錯綜させたり、混沌を混沌のまま提示したりする。その時、話の整合性なんか無視してもいい。感情の赴くまま芝居が暴走していい。わかるのではなく、感じることを大事にする。だから、独りよがりのようにも見える。それでも1本の作品の中に「今という時代」のさまざまな問題をすべてぶちこんで、しまう。これは、まるで闇鍋のような芝居だ。古いCMをギャグを使い、べたべたな展開も、ものともしない。
梶井基次郎の『檸檬』を発想の中心に据えて、あとはやりたい放題だ。ささやかなその爆弾を丸善の本棚の上に置いて来ること。自分の中にある鬱屈したものを、吐き出す術もない我々が、そのささやかな願いを賭ける。新興宗教、独居老人、震災、被爆、介護、あれもこれも詰め込んで、最後はレモンの雨を降らせる。こういう芝居が今もある。それを作る人がいる。それだけで、なんだか元気が出てくるではないか。
倉庫を改造して稽古場にする。そこで定期的に芝居を打つ。せいぜい50席ほどの客席にぎゅうぎゅう詰めて、芝居を見る。夏は暑くて、冬は寒い。そんな自然なままの空間で、わけのわからない独りよがりすれすれの作品に熱狂する。そんな時代がかつて確かにあった。
でも、今はもうそんな時代ではない。小劇場の芝居が、本来の力を持つ時代は終わった。だから、もうこういう芝居も、こういう劇場も、過去のものとなる。でも、酔族館は、今も昔のままだ。80年代で時間が止まっている。そんな彼らの芝居を見ると、なんだかそれだけでうれしくなる。もうそんな時代じゃないのだよ、と斬り捨てることも可能だ。だが、彼らはあまり顧みられることがなくても、ひっそりと、でも、しぶとく公演を打つ。
作、演出のパパイヤ豊作さんは、今回も、ちゃんとアングラの王道をいく作劇で、この作品を作る。原発をテーマにして、静かな怒りを炸裂される。話はあちらこちらに飛ぶ。この手の作品のパターンだ。わざと錯綜させたり、混沌を混沌のまま提示したりする。その時、話の整合性なんか無視してもいい。感情の赴くまま芝居が暴走していい。わかるのではなく、感じることを大事にする。だから、独りよがりのようにも見える。それでも1本の作品の中に「今という時代」のさまざまな問題をすべてぶちこんで、しまう。これは、まるで闇鍋のような芝居だ。古いCMをギャグを使い、べたべたな展開も、ものともしない。
梶井基次郎の『檸檬』を発想の中心に据えて、あとはやりたい放題だ。ささやかなその爆弾を丸善の本棚の上に置いて来ること。自分の中にある鬱屈したものを、吐き出す術もない我々が、そのささやかな願いを賭ける。新興宗教、独居老人、震災、被爆、介護、あれもこれも詰め込んで、最後はレモンの雨を降らせる。こういう芝居が今もある。それを作る人がいる。それだけで、なんだか元気が出てくるではないか。