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映画・演劇のレビュー

くじら企画『ドアの向こうの薔薇』

2013-07-16 23:37:04 | 演劇
 『大竹野正典劇集成Ⅱ』発刊記念公演である。昨年に引き続き今年も大竹野の芝居が見られる。この稀有のことを楽しもう。彼が亡くなり、それでもくじら企画は芝居を続々と作り続ける。最初は亡くなった大竹野正典、作、演出というクレジットで、上演された。そんな不条理がやけにリアルだった。死んだのに、まだそこにいる。そして、今も彼はこの世界で芝居を実際に作り続けているのだ。そんなふうに感じさせられる。さすがに今では「演出、くじら企画」と変更されてあるけど、芝居は大竹野正典のスピリッツをそのまま再現している。それでなくてはくじら企画を名乗れない。

 今回の新作(!)は、彼が「くじら企画」の前身である「犬の事ム所」時代に書いた作品で劇団の最終公演となった作品だ。17年振りの再演となる。今回も『劇集成』の原稿を書くため、初めてこの作品を戯曲として読んだ。(僕は芝居の台本を基本的には一切読まない主義だ)

 とても摑みどころのない作品で、戸惑った。それまでの大竹野戯曲は読み物としても面白く、芝居の台本を読んでいる感じがしなかったのだが、この作品は、他のたくさんの劇作家の作品同様、まるでイメージが湧いてこないのだ。正直言って実に困った。しかも、あまり笑えないし。

 だが、舞台になった本作を見て、客席からは笑いが盛んに起こるし、僕も結構笑っていたのに、驚く。摑みどころがない、と思った芝居がとても自然に入ってきた。それはなぜか? 

 今回再演された舞台を見て、あの時大竹野がこの作品をどうしてもやらなくてはならなかった切実な想いがしっかり伝わってくる気がした。作家としては『サラサーテの盤』でひとつの頂点を極めたが、劇団としてのおとしまえは、この作品に託したのだ。これは彼なりの「女たち」(それは劇団員の女性たち、という意味でもある)との決別でもある。彼はこの後、劇団を解散して、個人商店である「くじら企画」を立ち上げる。そこには(最初は)女性はいない。

 台本を読んだときには、ラストで、あそこまで長々とセリフで、説明するわけがわからなかった。だが、舞台を見て、戎屋海老さんの姿を見て、あのシーンがとてもよくわかった。淡々と心情を語るように見せかけて、本当はそこには事実しかない。13人の女たちを殺し続けたアルのどうしようもない心情がわかる気がする。現実はそうであったとしても本当はそうではない。幻想として語られるそこに至る1時間40分ほどのいくつものお話のなかにこそ、真実がある。

 ただ、妻を愛していた。それだけが真実だ。殺したかったのではない。妻の愛を取り戻したかった。そして、平穏な暮らしを呼び戻したかった。彼が失ってしまったものは、妻とのセックスではなく、どこにでもある平和な家族の生活だ。それを失ったのは彼のせいではなく、もちろん娘の足のせいでもない。よくわからない何かが彼らの生活を破壊してしまった。

 だから、ひとときの平和を求めて、彼は一人暮らしの女たちの部屋に忍び込む。冒頭のあまのあきこさんとの部分がすばらしい。彼はあんなふうにやさしく妻と朝の一時を過ごしたかった。しかし、失われたものはもう帰ってこない。あまのさん演じる女が彼を受け入れ、一緒に朝食を摂るエピソードがあまりに自然だったから、この芝居は成功したと言っても過言ではあるまい。

 暴力的な父との関係、2人の弟たち。めりさんが演じているのに、なぜか存在感の薄い母の存在。いろんな要素を孕みながら、ラストの長セリフに至る。そこで語られることは、悲惨な事実だ。だが、それはただの説明ではない。言い訳でもない。自分が育った家族のこと。自分が作りたかった家族。何を求めて彼はそこに至ったのか。どこからが妄想で、どこまでが現実なのかなんていう線引きはどうでもいい。彼が求めたものがこんなにもストレートに語られ、彼の狂気と暴力、満たされない想いが、ここには表現される。

 絶望的な孤独の果てにある1本の薔薇の花に向けてあの時、大竹野が、込めた想い。この作品を通して、彼はそれまでの活動に終止符を打つ。戯曲を読んだときには、あんなにわかりにくかったものを、この舞台はこんなにもわかりやすく提示した。これは役者と演出の力だろう。整合性のなさ、とりとめのなさ、が作品の力になっている。


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