これが最後のくじら企画となる。大竹野が亡くなってから、精力的に追悼公演を続けてきて、5年。今回の「大竹野正典劇集成Ⅲ」の出版をもって、くじら企画としての活動に終止符を打つことになった。もともと、くじら企画は大竹野の個人商店だったのだから、彼がいなくなった時点で終わりを迎えるのが、当然のなりゆきだった、はずだ。だが、この5年間、後藤小寿枝さんの尽力と、仲間の援護もあり、ここまで続けてきた。生前以上に精力的な活動だったのではないか。
この最終公演を見ながら、とうとう大竹野は逝ってしまうのか、と改めて感じさせられた。この5年間、ずっと大竹野は生きていた。そんな気がする。最初の追悼公演3作品のクレジットは、「作、演出 大竹野正典」とされた。亡くなってしまった彼があの世からやってきて、芝居を作る。そんな不思議が当然のこととして、受け入れられた。さすがに、「劇集成」出版に連動しての公演となったこの3年間の作品のクレジットは、「演出 くじら企画」とあるが、生前の大竹野の演出をそのまま踏襲するその作品は、やはり「演出 大竹野正典」と受け止めていい。というか、そう受け止めたい。
さて、最後の作品となった『夜、ナク、鳥』である。野外劇として上演された作品を劇場仕様に修正して、見せる。一部、キャストにも変動がある。そういう意味ではこれは前作と違う感触のものになる可能性もあったはずだ。だが、今回もまた、大竹野正典の描きたかった世界がそのままで、現出した。そこだけは譲れないからだ。くじら企画として公演する以上、それはあくまでも大竹野正典演出作品でなくてはならない。大前提なのだ。
シンプルな舞台美術がすばらしい。4方囲み舞台には逃げ場はない。そこで4人の女たちは徐々に追い詰められていく。1人殺すのも2人殺すのも同じだ、とは言わない。彼女たちがなぜ、そこまで自分を追い詰めていくのか、最後の最後までわからない。だが、ラストの殺人に至る前の手術のシーンから、ヨシダの内面にある空白が描かれるエンディングに至って、彼女の抱えるどうしようもない闇が、そこに立ちあがる瞬間の興奮。この芝居が描こうとするものがそこで明確になった気がした。(あくまで、気分でしかないけど。この芝居はそれを言葉にすることがない。)
これは大竹野が、女性を主人公にした初めての作品である。そこには彼なりの覚悟があったのかもしれない。当時は見えなかったものが、見えた(気がした)。ここにあるのは、新機軸としての女性の視点ではない。「女は怖い」というのが、大竹野の視点ではない。逃げ出すことが出来る男の対極に、逃げ出すことなくとどまり続ける女がいる。彼は自分には不可能なものをそこに感じる。くじら企画の最後にこの作品を選んだ大竹野の妻でもある後藤小寿枝の選択眼の鋭さをきっと大竹野はあの世で驚きながら見ていることだろう。「小寿枝さんにはかなわないなぁ」というため息混じりの彼の声が聞こえてくる。
この最終公演を見ながら、とうとう大竹野は逝ってしまうのか、と改めて感じさせられた。この5年間、ずっと大竹野は生きていた。そんな気がする。最初の追悼公演3作品のクレジットは、「作、演出 大竹野正典」とされた。亡くなってしまった彼があの世からやってきて、芝居を作る。そんな不思議が当然のこととして、受け入れられた。さすがに、「劇集成」出版に連動しての公演となったこの3年間の作品のクレジットは、「演出 くじら企画」とあるが、生前の大竹野の演出をそのまま踏襲するその作品は、やはり「演出 大竹野正典」と受け止めていい。というか、そう受け止めたい。
さて、最後の作品となった『夜、ナク、鳥』である。野外劇として上演された作品を劇場仕様に修正して、見せる。一部、キャストにも変動がある。そういう意味ではこれは前作と違う感触のものになる可能性もあったはずだ。だが、今回もまた、大竹野正典の描きたかった世界がそのままで、現出した。そこだけは譲れないからだ。くじら企画として公演する以上、それはあくまでも大竹野正典演出作品でなくてはならない。大前提なのだ。
シンプルな舞台美術がすばらしい。4方囲み舞台には逃げ場はない。そこで4人の女たちは徐々に追い詰められていく。1人殺すのも2人殺すのも同じだ、とは言わない。彼女たちがなぜ、そこまで自分を追い詰めていくのか、最後の最後までわからない。だが、ラストの殺人に至る前の手術のシーンから、ヨシダの内面にある空白が描かれるエンディングに至って、彼女の抱えるどうしようもない闇が、そこに立ちあがる瞬間の興奮。この芝居が描こうとするものがそこで明確になった気がした。(あくまで、気分でしかないけど。この芝居はそれを言葉にすることがない。)
これは大竹野が、女性を主人公にした初めての作品である。そこには彼なりの覚悟があったのかもしれない。当時は見えなかったものが、見えた(気がした)。ここにあるのは、新機軸としての女性の視点ではない。「女は怖い」というのが、大竹野の視点ではない。逃げ出すことが出来る男の対極に、逃げ出すことなくとどまり続ける女がいる。彼は自分には不可能なものをそこに感じる。くじら企画の最後にこの作品を選んだ大竹野の妻でもある後藤小寿枝の選択眼の鋭さをきっと大竹野はあの世で驚きながら見ていることだろう。「小寿枝さんにはかなわないなぁ」というため息混じりの彼の声が聞こえてくる。