なぜこの本を今頃読んだのかというと、理由は簡単。以前読んでいたことを忘れていたからだ。終業式の図書館の大掃除で、たまたま手にした。あれっ、と思う。「こんな本、読んだっけ、」と。あまり記憶になかったから、持って帰り、少し読み始めると、すぐに思い出した。
しかも、小川糸なのに、小川洋子と勘違いしていたから、読んでいないと思ったのだった。ばかだな、と思いつつ、読み始めると止まらなくなる。しかも、帰りの電車なので、他に本はない。そのまま、最後まで読んでしまった。短編集だし、とても読みやすい小説だったので、帰りの電車と、翌日の朝の電車の中で、読み終わる。1往復で終了するような本なので、読んだことを忘れても、仕方ないことだろう。
でも、7つの食をめぐる短編は、いずれも再読ではっきりと覚えていたのに、まるで飽きさせないどころか、とまらない。このなんとも切なくて、心地よい空気。食べるという行為は生きるにつながる。だれもが、毎日飽きることなく、3度、食事をとる。同じものを繰り返し食べる時もあるけど、気にしない。好きなものなら故意にそうする時もある。そんなふうにして、僕はこの本を読んだ。ときどき思い出して読んでもいい、と思った。
誰かと、一緒に食べる。ここには忘れられない特別な日もある。でも、変わらないいつもの日もある。どちらがどうとかいうわけではない。それらは背中合わせだ。死んでしまった夫と思い出のパーラーで特別な食事を摂る老女は、その日が特別であると思い込んでいるだけで、そうじゃないかもしれない。息子の嫁が「また、おばあちゃんは!」と迎えに来る。でも、老女には彼女が誰だかもうわからない。
7つの話は、本当はいずれも特別な日の話ばかりだ。だが、僕の中では「いつもと変わらない日」という印象があったから、先のように書いてしまった。食べるという行為が日常だからか。小川糸は彼らのこの食事を特別な風には描かないからか。まぁ、そんなことどうでもいい。おいしいものを食べることで「乗り越えられる」ことがある。この本はそういうことを教えてくれる。
しかも、小川糸なのに、小川洋子と勘違いしていたから、読んでいないと思ったのだった。ばかだな、と思いつつ、読み始めると止まらなくなる。しかも、帰りの電車なので、他に本はない。そのまま、最後まで読んでしまった。短編集だし、とても読みやすい小説だったので、帰りの電車と、翌日の朝の電車の中で、読み終わる。1往復で終了するような本なので、読んだことを忘れても、仕方ないことだろう。
でも、7つの食をめぐる短編は、いずれも再読ではっきりと覚えていたのに、まるで飽きさせないどころか、とまらない。このなんとも切なくて、心地よい空気。食べるという行為は生きるにつながる。だれもが、毎日飽きることなく、3度、食事をとる。同じものを繰り返し食べる時もあるけど、気にしない。好きなものなら故意にそうする時もある。そんなふうにして、僕はこの本を読んだ。ときどき思い出して読んでもいい、と思った。
誰かと、一緒に食べる。ここには忘れられない特別な日もある。でも、変わらないいつもの日もある。どちらがどうとかいうわけではない。それらは背中合わせだ。死んでしまった夫と思い出のパーラーで特別な食事を摂る老女は、その日が特別であると思い込んでいるだけで、そうじゃないかもしれない。息子の嫁が「また、おばあちゃんは!」と迎えに来る。でも、老女には彼女が誰だかもうわからない。
7つの話は、本当はいずれも特別な日の話ばかりだ。だが、僕の中では「いつもと変わらない日」という印象があったから、先のように書いてしまった。食べるという行為が日常だからか。小川糸は彼らのこの食事を特別な風には描かないからか。まぁ、そんなことどうでもいい。おいしいものを食べることで「乗り越えられる」ことがある。この本はそういうことを教えてくれる。