
『ブタがいた教室』の前田哲監督が、12年間眠り続けていた少年が、意識を取り戻す、という話を映画にした。主人公はその少年ではなく、その友人だった男(松坂桃李)で、彼は当時5歳だった仲良し3人組のひとり。ブランコから落ちて昏睡状態になったまま、ずっとベッドで過ごしてきた1人と、その後の時間をふつうに生きた2人。この3人の話なのだ。彼が目覚めたことを知り、彼に会いに行く松坂と、一切かかわりを持とうとしないもう一人の男。6歳の心のまま目覚めて18歳を生きることになった男。
これはなかなか面白い映画になりそうな素材ではないか。だが、映画は視点が定まらないまま、どんどん先に進んでいき、やがて、いきなり終わる。1時間24分という上映時間に、少し不安を感じていたけど、こんなところで終わるなんて、ありえない。しかも、最後に流れるクレジットの順番は松坂が1番ではないし。驚きだ。
視点の乱れがそんなところにまで行き渡っている。どういうことだ。これは誰の、何のための話なのか、それすらわからないままである。その居心地の悪さがこの映画の目指したところである、とは思えないから、これは明らかに台本、演出のミスだろう。なぜ、こんなことになったのか、理解に苦しむ。中途半端な作り方からは何も生まれない。これはただの軽い青春映画ではないのだから、こんないいかげんなことをしてはならない。
まるで映画の意図がわからないので、原作はどうなっているのか、ウイキペディアで調べてみた。すると、こんなストーリーがそこにはあった。
「恋人と初めて結ばれた18歳の誕生日の夜、ミキヒコはバイク事故で病院に運ばれる。病院でミキヒコは、子供のころ事故に遭って以来12年間眠り続けているかつての親友、モリオのことを思い出す。その夜、帰宅途中に立ち寄った小学校の校庭に、ミキヒコはモリオの姿を見つける。長い眠りから覚めた、心が6歳児のままのモリオに再会し、大人になることに不安を覚えていたミキヒコは、かつて自分たちが自由気ままな王様のようだった子供時代を思うのだった。」
これは面白い。ミキヒコの感じた「王様のようだった子供時代」って何なのか。それを描かないことにはこの映画に意味はない。このお話の中でモリオはそこまでは重要ではないのだ。なぜ、映画はこのままの話で作らなかったのか。要するに、視点が曖昧なのだ。だいたい先にも書いたがあのクレジットの順番はおかしい。菅田将暉はこの映画の主人公では断じてない。
これはなかなか面白い映画になりそうな素材ではないか。だが、映画は視点が定まらないまま、どんどん先に進んでいき、やがて、いきなり終わる。1時間24分という上映時間に、少し不安を感じていたけど、こんなところで終わるなんて、ありえない。しかも、最後に流れるクレジットの順番は松坂が1番ではないし。驚きだ。
視点の乱れがそんなところにまで行き渡っている。どういうことだ。これは誰の、何のための話なのか、それすらわからないままである。その居心地の悪さがこの映画の目指したところである、とは思えないから、これは明らかに台本、演出のミスだろう。なぜ、こんなことになったのか、理解に苦しむ。中途半端な作り方からは何も生まれない。これはただの軽い青春映画ではないのだから、こんないいかげんなことをしてはならない。
まるで映画の意図がわからないので、原作はどうなっているのか、ウイキペディアで調べてみた。すると、こんなストーリーがそこにはあった。
「恋人と初めて結ばれた18歳の誕生日の夜、ミキヒコはバイク事故で病院に運ばれる。病院でミキヒコは、子供のころ事故に遭って以来12年間眠り続けているかつての親友、モリオのことを思い出す。その夜、帰宅途中に立ち寄った小学校の校庭に、ミキヒコはモリオの姿を見つける。長い眠りから覚めた、心が6歳児のままのモリオに再会し、大人になることに不安を覚えていたミキヒコは、かつて自分たちが自由気ままな王様のようだった子供時代を思うのだった。」
これは面白い。ミキヒコの感じた「王様のようだった子供時代」って何なのか。それを描かないことにはこの映画に意味はない。このお話の中でモリオはそこまでは重要ではないのだ。なぜ、映画はこのままの話で作らなかったのか。要するに、視点が曖昧なのだ。だいたい先にも書いたがあのクレジットの順番はおかしい。菅田将暉はこの映画の主人公では断じてない。