これはもう映画ではない。この恐るべき映像体験をどう形容すべきなのか。拠り所とする言葉を持たない。たぶんこれは映画なのだが、その映画というものを見て、こんなにも衝撃を受けたことがない。今まで何千本もの映画を見てきて、ほとんどめぼしい映画は見落としていないと豪語出来るはずの僕が言うのだから、嘘でもないし、大袈裟な話でもない。ただの事実だ。2時間43分、ただスクリーンを茫然として見つめているだけである。面白いとか、つまらない(わけはない、のだが)とか、そういう次元を遥かに超越する。「嵐がやってくる」という。そう、確かにこれはそんな映画だ。この恐るべき静けさと、その緊張の持続。それこそが、この映画そのものである。これはそういう意味では『ダークナイト』の、ではなく、『インセプション』の続編のような映画だ。
比較するものは持たないのだが、たしか「これは暴動の映画ではない。映画の暴動だ!」といったのは石井聰亙監督『爆裂都市 BURST CITY』だったが、あの時の驚きや、メル・ギブソン主演『マッドマックス2』を見たとき、に匹敵する。でも、それらの映画は僕がまだ20代、30代の頃のお話で、もっと純粋で、幼い日の話だ。50代に突入し、酸いも甘いも噛み分けた大人である今の僕をここまで震撼させたのだから、これがどれほどのものか、想像つくまい。ぜひ、自分の目で体験すればいい。クリストファー・ノーランが、『メメント』で登場した時、たしかにこの人は普通じゃないと思ったし、『インセプション』の映像体験もしているのだから、それなりの心の準備はしたつもりだ。しかも、ちゃんと『ダークナイト』も見ている。あの時、バットマンがこんなことになるのか、と驚きを禁じ得なかった。誰もがあの衝撃を経て、この作品に挑むのだ。ちょっとや、そっとのものでは、誰も驚くはずがない。
だから、である。今見てきた瞬間で興奮も醒めやらず、の状態で書いているから、こんなことになるのだろうが、それでも、書かずにはいられない。ひたすら、凄い、と。
これは戦争である。しかも、戦場はこの僕等が今生きている世界だ。ゴッサム・シティーが実在する都市であるわけではないが、そこは現実の都市よりもリアルな世界だ。そんなことは既に『ダークナイト』や『バットマン ビギンズ』でも、描かれてきた。ティム・バートンが先行する『バットマン』シリーズで、このゴッサム・シティーを描くことを第一に考えたのも、記憶に新しい。(と、いってもあれから30年以上が経つ)世界観をちゃんと提示しなければ、バットマンは成立しない。ここは、ただの近未来の犯罪都市ではない。アメコミの世界を忠実に再現することが、ねらいではない。キッチュなティム・バートンの世界とは、隔絶したものが、ここにはある。その極限が『ダークナイト』だったはずだ。あの傑作を超えることは不可能なことだったはず、なのだ。
なぜ、可能だったのかを簡単に述べよう。(大体いつまで経っても、何一つ書けないでいる)ここにあるのは完璧なリアルである。想像上の世界は、空想の産物ではなく、現実のその先を現実以上にリアルに再現した、観念世界なのだ。脳内の現実がここには展開する。だが、それは昔はやったバーチャル・リアリティーではない。悪夢が現実の衣装をまとって、実在する。これは当然SFではないし、ヒーローものでは断じてない。
大体この映画にバットマンが登場するまで、一体何分あるのか。そして、その後も、バットマンが活躍するシーンは、ほとんどない。
正義のために戦うヒーロー物の衣装をまとうのではない。これは生身の人間が自らの肉体と、それ以上に自らの心を痛みつけて、世界と戦う物語だ。バットマンというのはただに記号でしかない。普通の映画ではないから、気をつけるように。娯楽活劇を期待したら、肩すかしを食らうだろう。やはり、これは断じて映画ではない。事件なのだ、と思う。
比較するものは持たないのだが、たしか「これは暴動の映画ではない。映画の暴動だ!」といったのは石井聰亙監督『爆裂都市 BURST CITY』だったが、あの時の驚きや、メル・ギブソン主演『マッドマックス2』を見たとき、に匹敵する。でも、それらの映画は僕がまだ20代、30代の頃のお話で、もっと純粋で、幼い日の話だ。50代に突入し、酸いも甘いも噛み分けた大人である今の僕をここまで震撼させたのだから、これがどれほどのものか、想像つくまい。ぜひ、自分の目で体験すればいい。クリストファー・ノーランが、『メメント』で登場した時、たしかにこの人は普通じゃないと思ったし、『インセプション』の映像体験もしているのだから、それなりの心の準備はしたつもりだ。しかも、ちゃんと『ダークナイト』も見ている。あの時、バットマンがこんなことになるのか、と驚きを禁じ得なかった。誰もがあの衝撃を経て、この作品に挑むのだ。ちょっとや、そっとのものでは、誰も驚くはずがない。
だから、である。今見てきた瞬間で興奮も醒めやらず、の状態で書いているから、こんなことになるのだろうが、それでも、書かずにはいられない。ひたすら、凄い、と。
これは戦争である。しかも、戦場はこの僕等が今生きている世界だ。ゴッサム・シティーが実在する都市であるわけではないが、そこは現実の都市よりもリアルな世界だ。そんなことは既に『ダークナイト』や『バットマン ビギンズ』でも、描かれてきた。ティム・バートンが先行する『バットマン』シリーズで、このゴッサム・シティーを描くことを第一に考えたのも、記憶に新しい。(と、いってもあれから30年以上が経つ)世界観をちゃんと提示しなければ、バットマンは成立しない。ここは、ただの近未来の犯罪都市ではない。アメコミの世界を忠実に再現することが、ねらいではない。キッチュなティム・バートンの世界とは、隔絶したものが、ここにはある。その極限が『ダークナイト』だったはずだ。あの傑作を超えることは不可能なことだったはず、なのだ。
なぜ、可能だったのかを簡単に述べよう。(大体いつまで経っても、何一つ書けないでいる)ここにあるのは完璧なリアルである。想像上の世界は、空想の産物ではなく、現実のその先を現実以上にリアルに再現した、観念世界なのだ。脳内の現実がここには展開する。だが、それは昔はやったバーチャル・リアリティーではない。悪夢が現実の衣装をまとって、実在する。これは当然SFではないし、ヒーローものでは断じてない。
大体この映画にバットマンが登場するまで、一体何分あるのか。そして、その後も、バットマンが活躍するシーンは、ほとんどない。
正義のために戦うヒーロー物の衣装をまとうのではない。これは生身の人間が自らの肉体と、それ以上に自らの心を痛みつけて、世界と戦う物語だ。バットマンというのはただに記号でしかない。普通の映画ではないから、気をつけるように。娯楽活劇を期待したら、肩すかしを食らうだろう。やはり、これは断じて映画ではない。事件なのだ、と思う。
こんな社会的なテーマの個人的な物語があり得るとは。
恐るべき作品でした。