東京都写真美術館に行ってきた。『風景論以後』という企画展を見るためだ。予定にはなかったが、時間が出来たから行くことにした。そこで、偶然ずっと以前から見たかったこの映画を見ることができたのだ。とてもうれしい。
大阪から東京に帰って牛乳配達をするところから見る。映画を途中から見るなんて、久しぶりのことだ。今は映画館はみんな入替制なので、途中から見ることはない。70年代の二番館は3本立だったが、あの頃は適当な時間から入ってよく途中から見たものだ。さて、今回のこの映画。美術館の展示作品としての上映である。長編映画をこんなふうに上映する、しかもきちんと全編上映するなんて画期的。しかも小さなモニターではなく、大きなスクリーンで、である。これはいささか凄いことだ。
何もない風景映画である。だがそこでは終始異常な緊張感が持続する。そこには永山則夫が見た風景が映されていくだけなのに。彼の68年までの約20年間を69年の風景を通して追跡していく。ナレーションはほとんどない。必要最低限に抑えられる。随所に無音と、終始流れる音楽。彼が生まれた時から19歳で逮捕されるまでに見た風景が描かれる。
という事で、途中から次の上映で同じところまでを見る。(少し重なって見たけど)
彼が見たはずの風景を撮影しただけ。そんなそっけない映画がどうしてこんなにも心に響くのだろうか。作られた69年の映像は僕がまだ10歳だった頃の日本である。記憶にある懐かしい光景がそこにはある。大阪のシーンからだけではなく、まるごと記憶とリンクする。則夫が見たものは僕らが見たもの。あの時代を通り過ぎて、今僕たちはここに来ている。僕より10歳上の彼は死刑されてずっと前にいなくなったけど生きていれば今74歳。
映画は彼の犯罪をどうこう言うのではなく、彼が生きた時代を見つめる。永山則夫は僕たちのもうひとつの姿だ。彼を通してあの日を振り返ることになった。風景は記憶と重なって時代を作る。この圧巻の企画展はこれから先の暗黒時代の幕開けを告げることになるのか。この検証ができることなら、新しい時代をいい方向に導いて欲しいけど。