古厩智之監督の持ち味が十二分に発揮された傑作である。感動的なドラマになるような盛り上げ方は一切しない。カメラも必要以上に寄らない。彼らとの距離の取り方がすばらしいのだ。
だから、わざとらしい青春映画にはならない。前半を見ていて、こんなにも体温が低い映画でいいのか、と心配になったくらいだ。それは、本題である、夏の合宿の場面になっても変わらない。おきまりのストーリーなのにおきまりの展開にはならない。彼らがこの夏の日々を通していかに団結していき、青春するのか、なんてことを期待していた人は肩すかしを食らうことだろう。熱い感動場面なんてない。彼らはただ黙々と走り続けていくだけだ。
走るという行為は、とても孤独なものだ。「たすきをつなぐ」前に、まずひとりひとりが走りぬく必要がある。みんなと一緒に走っていても、走っているのは自分ひとりだ。どんよりとした空の下、ただひたすら走り続ける。
そんな部員たちを、ただ見守るだけの奈緒子(上野樹里)は、もっと辛い。上野樹里が感情を表に出すことなく、内に秘めた思いに蓋をして、彼らと行動を共にする。一体感はここにはない。孤独にこの夏を過ごす。特に勇介(三浦春馬)との隔絶したままの隙間は埋めれるものではない。
それはラストの県大会のシーンに至っても同じだ。長崎高校駅伝大会の当日。あの合宿をくぐり抜けて、彼らはここに立つ。しかし、彼女はこの会場にいても、まだただの「お客さん」でしかない。自分の居場所はない。
実はこの映画自体に於いても彼女は主役ではなく、「お客さん」でしかないのだ。そんな疎外感に耐えてラストまで、彼女はこの映画に止まり続ける。表情を変えることもなく、硬いままで、もちろん笑顔も見せない。過去の痛みを抱えたまま生きてきて、高校生になり、再会したふたりの中にあるわだかまり。それは簡単なものではない。
だからこそ、あの感動のラスト。走りきった勇介の手を握る、そして、みんなと抱き合う。あの場面が生きてくる。一体感を得ることは容易い事ではない。そこに至る長い道のりが、この映画には確かに描かれてある。だから、この映画は信用できる。
だから、わざとらしい青春映画にはならない。前半を見ていて、こんなにも体温が低い映画でいいのか、と心配になったくらいだ。それは、本題である、夏の合宿の場面になっても変わらない。おきまりのストーリーなのにおきまりの展開にはならない。彼らがこの夏の日々を通していかに団結していき、青春するのか、なんてことを期待していた人は肩すかしを食らうことだろう。熱い感動場面なんてない。彼らはただ黙々と走り続けていくだけだ。
走るという行為は、とても孤独なものだ。「たすきをつなぐ」前に、まずひとりひとりが走りぬく必要がある。みんなと一緒に走っていても、走っているのは自分ひとりだ。どんよりとした空の下、ただひたすら走り続ける。
そんな部員たちを、ただ見守るだけの奈緒子(上野樹里)は、もっと辛い。上野樹里が感情を表に出すことなく、内に秘めた思いに蓋をして、彼らと行動を共にする。一体感はここにはない。孤独にこの夏を過ごす。特に勇介(三浦春馬)との隔絶したままの隙間は埋めれるものではない。
それはラストの県大会のシーンに至っても同じだ。長崎高校駅伝大会の当日。あの合宿をくぐり抜けて、彼らはここに立つ。しかし、彼女はこの会場にいても、まだただの「お客さん」でしかない。自分の居場所はない。
実はこの映画自体に於いても彼女は主役ではなく、「お客さん」でしかないのだ。そんな疎外感に耐えてラストまで、彼女はこの映画に止まり続ける。表情を変えることもなく、硬いままで、もちろん笑顔も見せない。過去の痛みを抱えたまま生きてきて、高校生になり、再会したふたりの中にあるわだかまり。それは簡単なものではない。
だからこそ、あの感動のラスト。走りきった勇介の手を握る、そして、みんなと抱き合う。あの場面が生きてくる。一体感を得ることは容易い事ではない。そこに至る長い道のりが、この映画には確かに描かれてある。だから、この映画は信用できる。