吉田修一の初期作品を2作連続で読んだ。まず、2013年の『愛に乱暴』。なんだか強烈なタイトルだが、内容もまた強烈だった。この激しさが吉田修一らしくない、とか、思いつつ。
3人の男女の物語だ、と思いつつ読んでいると、果たしてそうなのか、と疑問がわく。そうじゃなかったのか、と気付いたときには、もう遅い。作者の罠にはまる。騙されていたのは誰か。明確だ。ふたりの女と彼女たちが奪い合う男。3角関係のお話に見せかけて、実は女はどちらも同じ女で、過去の自分と今の自分だった。不倫から結婚に至る自分のたどった人生をもう一度、繰り返す。今度は自分が奪う側ではなく奪われる側になって。自業自得だ、なんて言わさないし、言わない。彼女の今と過去が交互に描かれ、そこに共通している男は同じ過ちを繰り返すバカな男だ。こんな男のために自分は生きてきたのだ。「狂乱の純愛」とカバーには宣伝文句が載せられているけど、確かにそういう側面はないわけではない。でも、ちょっと違うな、と思う。人間の愚かさを描いたこの作品は「ありがとう」という言葉で終わる。感謝の言葉を泣きながら口にするとき,自分が今まで生きてきてしてきたことが、正しかったわけではないと気付く。読み終えて幸福な気分になれる。こんな結末なのに。
続いて更に遡ること9年。2004年作品『7月24日通り』である。これは映画化もされていて、映画は公開時に見ている。(『7月24日通りのクリスマス』というタイトルに改変されていた。小説と映画はまるでイメージが違う)あのちょっとおしゃれで、華やかなイメージの恋愛映画が吉田修一原作だったなんて、当時は思いもしなかった。「吉田修一」に対して、まだあの頃はそれほど興味がなかったのだろう。今、初めてこの小説を読んで、確かに少し軽い小説ではあるけど、やはりこれは彼の本だ、と思わせる。この暗さは(映画があんなにも明るいイメージだったのに!)彼らしい。リスボンの町と自分が暮らす町を重ね合わせて生きるひとりの女が主人公だ。彼女は,生まれてからずっとここから出ることもなく、地味に暮らしている。このままずっとここで暮らす、はずだった。だけど、ほんの少し変わろうとする。これでいいわけではない。正しいことをするのではなく、間違ったことに突き進む勇気を持つこと。その結果、辛い目に遭おうとも構わないといえる勇気。一歩踏み出すことが描かれる。
人間は愚かだ。だけど、そんな愚かさをバカにしてはならない。今の、彼の小説の原点がここにはあるのだろう。『悪人』以降彼の作品の虜になったけど、まだまだ読んでいない旧作がたくさんある。