
こんなにも痛ましい映画を見なくてもいいのではないか。そう思う。つらくなるばかりだ。でも、これを見たいと思ったのは、正直な映画と向き合いたいという想いからだ。それと、わざわざたくさんある映画の中からこれを選んだのは、今の自分の気分と近いからだ。
まったく気が晴れないことばかりで、何もしたくはない。だから、映画も見ないのだが、それに見ても、素直に楽しめない、今は純粋に映画の世界に浸れないからだ。だからこそ、そんなときには無理して楽しい映画、ではなく、素直に苦しい映画のほうがいい。
そこで、これだったのだが、それにしてもほんとうに救いのない映画だ。2時間、ほとんど辛いばかり。だけど、スクリーンから目が離せない。バカだな、と思いながらも彼らは彼らなりに正直なのだと信じられる。だから、彼らがどうするのかを見続けたい。性転換手術をタイで受けて、失敗して、死んでいく。それはないよ、というしかないような展開に憤慨する、のではなく、それでも受け入れるしかなかろうと思う。
孤独な少女と、与えられた自分の性を受け入れられない男。ふたりが出会い、共に過ごす時間が描かれる。ドラマチックな展開はない。この現状の中でこんなふうになるのか、と思うだけ。映画ならもう少し違う「お話」を用意してもよかろう、とも思うけど、そうはならない。どんな展開にもできた。でも、こんなふうになった。それはきっと運命だと思うしかない。ふたりが出会ったのもそうだというし、彼がこんなふうになったことも。
惨めで、情けなくて、不幸だ。もっと違う生き方はなかったのか、とも思う。でも、これを選んだのは彼自身だ。彼ではなく、彼女は、と書いてもいい。でも、敢えて「彼」とする。何が彼をここに導いたか。美しくなりたい、という切なる願い。少女に思いを託す。でも、そんなことは彼の勝手な独りよがりでしかないことは彼が一番よく知っている。幸せになりたいだけ。自分に正直になりたいだけ。だけど、そんなささやかな願いもかなわない。海を見ながら死んでいくラストシーンは、ビスコンティの『ベニスに死す』を思わせる。それは残酷な人生の最後の輝き。
トランスジェンダーを扱う奇異な映画ではない。でも、普遍的なドラマでもない。これはいろんな意味で特別な映画なのだ。ニューハーフの凪沙と、親からの愛情を受けることのない少女一果。孤独なふたりの出会いと別れのドラマは確かに古典的で普遍的な愛情物語だ。オーソドックスすぎるくらいに。だからこそ、これは特別な輝きを放つ。