
今更こういう話を見せられても、新鮮味はない。散々この手の映画は作られ続けているし、どれほど凄いCGがあろうとももう驚かない。(たとえ実写であろうとも同じ)
ということは、後はストーリーと、世界観、それらをどう見せるかに懸かっている。作家としてのセンスの問題である。ありきたりな設定では、もう誰にも相手にされない。この映画は、士郎正宗の『アップル・シード』の続編。荒牧監督伸志監督が再びあの世界に挑む。
この物語の肝は、サイボーグ、ヒューマノイド、バイオロボ(バイオロイド?、サイバーロボ?なんだかややこしい)、ヒトというふうに、微妙に細分化された、その落差を巡る物語にあるのだろう。肉体だけではなく、精神だけとなり、一体化していく、なんて話もあるが、そこから、発生するドラマが、いつもどおりの世界支配なんてのでは、もう飽きた。
今年11月、『ブレードランナー ディレクターズ・カット』が再公開されるようだが、この手のSFの古典となってしまったこの作品は、当時、斬新と言われたビジュアルが今も古びないだけでなく、ストーリー自体のあまりのオーソドックスさが、作品を永遠に古びさせない魅力を持ったものにした。『エクスマキナ』がどれほど頑張っても『ブレードランナー』の域に達しないのは、こういうアプローチの問題だけではない。アニメーションによるキャラクター造形ゆえの限界もあろう。しかし、可能性がなかったわけではない。
主人公3人の人間関係をもう少し掘り下げたなら新しい可能性は生じたかもしれない。かっての自分と同じ顔、同じ遺伝子を受け継いだバイオロボが、自分に代わって自分の好きな女のパートナーとしてバディーを組んで戦場に出て行く。それを今は、完全にアンドロイド・パーツになってしまった自分は見送っていくしかない。その気持ち。ここがこの映画の大切な部分だ。この時、女はいかに思うか。また、バイオロボの男の気持ち。この3人の複雑な想いが、けっこうよく描かれてあるが、それがテーマにはならず、映画全体の隠し味程度の扱いになっているのが残念だ。大きなドラマよりも、実はこういう気持ちのほうが、この手の映画においても大事なのは、先に書いた『ブレードランナー』を見れば、一目瞭然なのだが。
ということは、後はストーリーと、世界観、それらをどう見せるかに懸かっている。作家としてのセンスの問題である。ありきたりな設定では、もう誰にも相手にされない。この映画は、士郎正宗の『アップル・シード』の続編。荒牧監督伸志監督が再びあの世界に挑む。
この物語の肝は、サイボーグ、ヒューマノイド、バイオロボ(バイオロイド?、サイバーロボ?なんだかややこしい)、ヒトというふうに、微妙に細分化された、その落差を巡る物語にあるのだろう。肉体だけではなく、精神だけとなり、一体化していく、なんて話もあるが、そこから、発生するドラマが、いつもどおりの世界支配なんてのでは、もう飽きた。
今年11月、『ブレードランナー ディレクターズ・カット』が再公開されるようだが、この手のSFの古典となってしまったこの作品は、当時、斬新と言われたビジュアルが今も古びないだけでなく、ストーリー自体のあまりのオーソドックスさが、作品を永遠に古びさせない魅力を持ったものにした。『エクスマキナ』がどれほど頑張っても『ブレードランナー』の域に達しないのは、こういうアプローチの問題だけではない。アニメーションによるキャラクター造形ゆえの限界もあろう。しかし、可能性がなかったわけではない。
主人公3人の人間関係をもう少し掘り下げたなら新しい可能性は生じたかもしれない。かっての自分と同じ顔、同じ遺伝子を受け継いだバイオロボが、自分に代わって自分の好きな女のパートナーとしてバディーを組んで戦場に出て行く。それを今は、完全にアンドロイド・パーツになってしまった自分は見送っていくしかない。その気持ち。ここがこの映画の大切な部分だ。この時、女はいかに思うか。また、バイオロボの男の気持ち。この3人の複雑な想いが、けっこうよく描かれてあるが、それがテーマにはならず、映画全体の隠し味程度の扱いになっているのが残念だ。大きなドラマよりも、実はこういう気持ちのほうが、この手の映画においても大事なのは、先に書いた『ブレードランナー』を見れば、一目瞭然なのだが。